第三章 告げられた歴史
崩れる祠
光が、消えた。
足の裏に、ひんやりとした石の感触が戻ってくる。リオは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた祠の内部だった。苔むした壁、円形の台座、中央に浮かぶ青白い水晶。ただ、水晶の光は、ひどく弱々しかった。今にも消え入りそうに、かすかに明滅している。
「戻って、きたの?」
ミナが、リオの袖を握ったまま、あたりを見回した。
「ええ。祠の気配は、確かに、私たちが出発したときのものよ」
セレナが、杖を握り直した。
「でも、おかしい。水晶の魔力が、ほとんど残ってない。まるで——」
その言葉は、地鳴りにかき消された。
天井から、細かい石の粉が降ってきた。壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
「崩れる! 外へ!」
リオは、ミナの手を引いて、入り口へ駆けた。セレナも続く。背後で、水晶が、ぱきん、と乾いた音を立てて砕けた。
三人が祠の外へ転がり出た、その直後。
轟音とともに、時の祠は、完全に崩れ落ちた。
土煙が、雪の谷に舞い上がる。
リオは、咳き込みながら、振り返った。
そこには、瓦礫の山だけが、残っていた。入り口に刻まれていた、翼を広げた鳥の彫刻も、石の下に埋もれて見えなくなっている。
「……帰り道は、もう、ないのね」
ミナが、小さく呟いた。
「だな。でも、大丈夫だ。僕たちは、魔王を倒した。それなら、世界は——」
そこまで言って、リオは、言葉を失った。
谷を見上げた空が、黒かった。
厚い雲が、空全体を覆っている。出発したときと同じ、いや、あのときよりも、ずっと暗い。雲の切れ間から、赤黒い光が、不気味に漏れていた。
「どうして……」
セレナの声が、震えた。
「魔王は、倒したはずでしょう? あの時代の魔王を、確かに、私たちは」
「ええ。倒した。核を砕いたのを、ロイさんが、確かに感じたって」
リオは、拳を握りしめた。
胸のなかで、嫌な予感が、膨らんでいく。
「まさか、僕たちが戻ってきたのは、救われた世界じゃなかったのか?」
谷を降りて、最初に見えた村は、もう、人が住める場所ではなかった。
家々の屋根は焼け落ち、畑には、黒い草が生い茂っている。道端に、折れた槍と、錆びた鎧が、転がっていた。
「ここは、確か、羊飼いの村だったはず」
セレナが、足を止めた。
「旅の途中で、立ち寄ったことがあるわ。優しい人たちだった」
「誰も、いないのか」
リオが、廃屋の戸を押した。蝶番が軋んで、扉が倒れる。埃の積もった床に、子供用の靴が、ひとつ、転がっていた。
ミナが、そっと、それを拾い上げた。
「……ねえ、リオ。私たち、何かを間違えたのかな」
「わからない」
リオは、正直に答えた。
「でも、確かめなきゃ。何が起きているのか」
三人は、さらに南へ向かった。
昼を過ぎた頃、街道沿いで、ようやく人影に出会った。
荷車を引く、疲れ果てた老人たち。ぼろをまとった子供。彼らは、リオたちを見るなり、怯えたように身を寄せ合った。
「待ってください。僕たちは、敵じゃありません」
「あんたたち、勇者様じゃ、ないか……?」
老人のひとりが、掠れた声で言った。
「聖剣の光が見えた。もしや、リオ様では」
「はい。僕は、リオです」
「おお……」
老人は、その場にへたり込んだ。
「勇者様が、戻られた。……では、まだ、望みはあるのか」
「ひとつ、教えてください」
リオは、膝をついて、老人と視線を合わせた。
「魔王は、まだ、世界を支配しているんですか」
「ああ。ああ、そうとも」
老人は、涙を流しながら、頷いた。
「三か月前、北の黒氷の城から、魔王が、大軍を率いて進軍してきた。王都は、陥落した。国王陛下も、神官様方も、みな……」
「三か月前?」
セレナが、息を呑んだ。
「それは、私たちが過去に旅立ってから、ほんの少しあとじゃない」
「ええ。時間の流れが、同じなんだわ」
ミナが、青い顔で言った。
「私たちが、過去で一週間過ごしても、こちらでは、ほとんど時間が経ってないんだ。それで……」
「つまり、過去で何をしても、現代の魔王は、消えなかったってことか?」
リオは、立ち上がった。
「そんな。魔王の核を砕いたのに」
誰も、答えられなかった。
老人が、荷車の上から、一枚の旗を取り出した。黒い布に、銀糸で、模様が縫い取られている。
剣と翼を組み合わせた、紋章。
「これを、魔王の軍勢が、掲げておりました」
「……っ!」
リオの心臓が、大きく跳ねた。
翼剣騎士団の紋章だ。
ロイの胸元にあった、あの紋章と、まったく同じものだ。
「どうして、魔王が、あの紋章を」
「わかりません。ただ、近頃では、魔王のことを、『翼剣の魔王』と呼ぶ者もおります」
「翼剣の……」
リオは、頭が真っ白になった。
ただの偶然ではない。何かが、つながっている。ロイと、魔王と、あの紋章と、自分の首飾りと。
けれど、答えは、まだ、霧のなかだった。
日が暮れる頃、三人は、街道沿いの廃墟に身を寄せた。
かつて宿屋だったらしい、石造りの建物。天井が半分抜け落ちているが、壁は残っている。セレナが、簡単な結界を張った。
ミナが、持っていた干し肉と豆でスープを作った。三人で、黙って啜る。味は、ほとんどしなかった。
「……ねえ、リオ」
ミナが、囁くように言った。
「今、何を考えてる?」
「ロイさんのこと」
リオは、スープの椀を見つめた。
「あの人が、笑ってたこと。家族のこと。『平和になったら、息子の名前を決める』って」
「うん」
「あの紋章が、魔王の旗に使われてるのは、偶然なんだろうか」
「わからない。でも、リオ」
ミナは、そっと、リオの手に触れた。
「一人で、抱え込まないでね」
「ありがとう」
リオは、ミナの手を握り返した。
その瞬間、結界が、ぴりり、と震えた。
セレナが、弾かれたように顔を上げた。
「誰か、来る」
三人は、一斉に武器を取った。
廃墟の入り口に、足音が近づいてくる。ゆっくりと、一歩ずつ。
「魔物か?」
「いえ。人の気配よ。でも……」
セレナの顔が、強張った。
「魔力の質が、おかしい。まるで、何重にも、時間が重なってるみたいな」
足音が、止まった。
夜の闇のなかから、一人の青年が、姿を現した。
年は、二十歳前後だろうか。すらりとした長身で、栗色の髪を、後ろで結んでいる。薄汚れた旅装束を着て、背には、一振りの剣を負っていた。
その顔を見た瞬間、リオは、息を呑んだ。
目だ。
深く、澄んだ、夜明けの空のような目。
鏡のなかで、毎朝見ていた目と、同じ色をしていた。
「……やっと、会えた」
青年は、かすれた声で呟いた。
そして、その目から、一筋の涙が、こぼれた。
「え?」
「あ、すみません。……ずっと、会いたかったから」
青年は、慌てて袖で涙を拭った。それから、ぎこちなく、笑った。
その笑顔を見て、今度は、ミナが、息を呑んだ。
「……私の、笑い方に、似てる」
「ミナ?」
「ううん、何でもない」
ミナは、自分で自分の言葉に戸惑ったように、首を振った。
「誰だ、お前は」
リオが、聖剣の切っ先を、青年に向けた。
「敵意は、ありません」
青年は、両手を上げた。それから、ゆっくりと、胸元に手を入れた。
「ただ、これを、見てもらいたくて」
青年が、首から引き出したのは、革紐に通された、小さな木彫りの鳥だった。
翼を広げた、鷹の形。
リオの首元にあるものと、寸分違わぬ細工。ただ、こちらのほうが、ずっと古びていて、何度も撫でられたように、角が丸くなっていた。
「これは……」
「あなたの首にある鳥と、同じものです」
青年は、静かに言った。
「いや、正確には、あなたのものです。あなたが、この先で、僕に託すものだから」
「……何を言ってるんだ」
「僕は、未来から来ました」
廃墟に、沈黙が落ちた。
セレナが、杖を構えた。
「まさか。時の祠は、過去へ行くものよ。未来へ繋がる祠なんて」
「あります。ここから、ずっと東の、海に面した岬に。誰にも知られていない、もうひとつの祠が」
青年は、まっすぐに、リオを見た。
「あなたが、父さんの敵を討つために、過去へ行くと決めたあの日、僕の母が教えてくれました。いつか来る、この日のために」
青年は、言いかけて、はっと口を閉ざした。
それから、ぎゅっと唇を噛んで、言い直した。
「いえ。……あなたが、これから知る、すべてのことを、伝えるために」
「待て。今、何て言った?」
リオの声が、かすれた。
「『父さん』と、言ったか?」
青年は、答えなかった。
ただ、ゆっくりと、剣を地面に置いた。それから、深く、頭を下げた。
「僕の名前は、ロア。——すべて、話します。長い話ですが、聞いてください」
焚き火を囲んで、四人は、向かい合った。
ロアは、膝の上で、手を握りしめていた。その手が、かすかに震えている。
「最初に、お伝えしておきます。これから話すことは、あなたたちにとって、つらい内容だと思います。でも、すべて、事実です」
「構わない。話してくれ」
リオは、頷いた。ミナが、その隣で、静かに息を整える。
ロアは、まず、一番大きな真実から話した。
「今、世界を支配している魔王。あれは、二十年前に、あなたたちが倒した魔王と、同じ存在です」
「馬鹿な」
セレナが、思わず身を乗り出した。
「核は、確かに砕けたはずよ。ロイが、感触を確かめたって」
「核は、砕けていませんでした。ほんの、米粒ほどの欠片が、残っていたんです」
ロアは、淡々と続けた。
「あなたたちは、塔の崩落で、灰のなかに紛れた欠片に、気づかなかった。そして、その欠片は、あなたたちの仲間——ロイさんの、外套の裾に、潜り込んだんです」
「ロイさんの……」
リオの顔から、血の気が引いた。
「そんな。じゃあ、ロイさんは」
「核は、ロイさんの家まで、ついていきました。そこで、彼の妻を殺しました」
「…………!」
ミナが、口元を覆った。
「エリスさんを」
「そして、ロイさんに、取引を持ちかけた。自分の器になれ、さもなくば、赤ん坊を殺す、と」
ロアの声が、わずかに震えた。
「ロイさんは、受け入れました。でも、その前に、最後の一手を打ったんです。息子を、籠に入れて、川に流した」
リオは、動けなかった。
耳の奥で、血の流れる音が、うるさいほど響いている。
「……川、に?」
「雪解けの、増水した川です。普通なら、一晩で溺れ死んでしまう。でも、ロイさんは、残された魔力のすべてを、その籠に込めた。水が入らないように。流れに呑まれないように」
ロアは、息を吸った。
「その籠は、下流の、エルド村まで流れ着きました。鍛冶屋のガルドさんという人に、拾われて、リオと名づけられた」
リオの唇が、わなないた。
言葉が、出なかった。
「赤ん坊の、リオ。……あなたです」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
リオは、自分の首元に手を伸ばした。木彫りの鷹を、握りしめる。
指先が、冷たくなっていくのがわかった。
「あの、焚き火の夜」
リオは、かすれた声で言った。
「ロイさんが、彫っていた鷹。『息子へ贈る』って言ってた、あの」
「ええ」
「あの人は、僕の」
「そうです。あなたの、お父さんです」
ロアは、静かに告げた。
リオの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
抱いた赤ん坊の、あたたかさ。腕のなかで握ってきた、小さな指。どこかで見たことのあると思った、夜明けの空のような瞳。
あの子は、僕だったんだ。
あの家の、エリスさんは、僕の、お母さん。
あの笑顔の人が、僕の。
「……僕は」
リオは、顔を覆った。肩が、小さく震える。
「僕は、捨てられたんじゃなかった」
「リオ」
ミナが、リオの背中に、そっと手を置いた。
「守って、もらってたんだ。ずっと。お父さんに、お母さんに」
その言葉に、リオは、ついに、声を殺して泣いた。
十歳の夏の夕暮れ、川辺で、ミナと交わした言葉が蘇る。
——捨てられたのか、守ってくれたのか。それだけ、知りたいんだ。
——守ってくれたんだよ、きっと。
ミナの言ったとおりだった。
あの人は、血まみれになりながら、僕を、川へ流した。生きてくれ、と、祈りながら。
涙が、止まらなかった。
セレナは、何も言えずに、ただ、唇を噛んでいた。
しばらくして、ようやく、リオが顔を上げた。
「……続きを、話してくれ」
その目は、赤く腫れていたが、まっすぐだった。
「ロイさんは、その後、どうなった」
「核を、受け入れました。そして、核に、体を乗っ取られた」
ロアは、苦しそうに、目を伏せた。
「核は、ロイさんの記憶を読み取って、すべてを知りました。未来から来た勇者のこと、時の祠のこと。そして、祠を、破壊した」
「それで、帰り道が、崩れたのね」
セレナが、低く呟いた。
「ええ。あなたたちが過去に戻ったとき、祠は、すでに、崩れる運命だったんです」
「でも」
ミナが、顔を上げた。
「それなら、核は、ロイさんの体を使って、二十年かけて、力を取り戻したってこと?」
「そのとおりです。時間をかけて、魔王として、復活した」
「そして、現代で、僕たちの前に現れた……」
リオは、拳を握りしめた。
「ヴァルザーク。あの黒い鎧の魔王が、僕の」
「はい」
ロアは、頷いた。
「リオの、お父さん。翼剣騎士ロイさんの体が、魔王の器なんです」
長い、長い沈黙が、焚き火を包んだ。
リオは、あの玉座の間の光景を、思い出していた。
圧倒的な力。底冷えするほどの低い声。
けれど、あの魔王は、あのとき、最後に、リオたちを見ていた。何かを確かめるように。
あれは、息子を、見ていたのか。
「……僕は、父さんを、斬ろうとしたのか」
「リオ」
「あの人の体を、聖剣で、斬ったんだ。肩に、傷を」
「それは、あなたのせいじゃない」
ロアが、強い声で言った。
「あなたは、何も知らなかった。知りようがなかった」
「でも」
「あなたのお父さんは、ずっと、あなたを守るために戦ってきました。核に体を乗っ取られても、意識の奥底で、必死に抗ってきたんです」
ロアの声は、確信に満ちていた。
「僕は、それを、知っています」
「どうして?」
ミナが、尋ねた。
「どうして、あなたは、そんなことまで知ってるの?」
ロアは、ゆっくりと、ミナを見た。
それから、ふっと、寂しげに笑った。
「それは、ここから先の話です」
ロアは、膝の上の手を、そっと組み直した。
「父さん……いえ、リオ。あなたは、これから、ミナさんとともに、魔王に挑み続けます。何度も、何度も」
「何度も?」
「今回の戦いだけで、終わらなかったんです。あなたたちは、勝てなかった」
ロアの声が、少し、かすれた。
「魔王は、強すぎた。そして、あなたは、父親を斬ることに、迷いがあった。迷いは、剣を鈍らせた」
「…………」
「それでも、あなたは、諦めなかった。何度でも、何度でも、立ち向かった。仲間を失い、傷を負いながらも」
ロアは、息を吸った。
「そして、ある冬の夜、あなたは、命を落としました」
リオは、目を見開いた。
「僕が……」
「ええ。魔王の一撃から、母を庇って」
ロアは、そこで、はっと口を閉ざした。
それから、深く、頭を下げた。
「失礼しました。ミナさんの前で」
ミナは、青ざめた顔で、ロアを見つめていた。
その唇が、小さく動く。
「……母、を」
「ミナさん」
ロアは、顔を上げた。その目は、涙で濡れていた。
「あなたは、リオと、結ばれます。そして、子供を授かる」
「…………」
「その子供が、僕です」
ミナの手が、口元から、ゆっくりと離れた。
焚き火の炎が、ロアの頬を、赤く照らしている。
その顔に、リオの面影と、ミナの面影が、確かに、並んで宿っていた。
セレナが、「そんな」と、掠れた声を漏らした。
「リオ。ミナ。……あなたたち」
「信じられない、ですよね」
ロアは、涙を拭って、苦笑した。
「いきなり、息子だなんて。でも、本当です。僕は、あなたたちの子供です」
ミナが、静かに、立ち上がった。
ロアの前に、歩み寄る。そして、膝をついて、その顔を、両手で包んだ。
「……あたたかい」
ミナの声は、震えていた。
「ほんとだ。ちゃんと、あったかい」
「母さん」
ロアが、つい、口にした。
その瞬間、ミナの目から、涙が溢れた。
「うん。……うん」
ミナは、ロアの頭を抱き寄せた。
ロアは、子供のように、ミナの肩に顔を埋めた。堰を切ったように、嗚咽が漏れる。
「ずっと、会いたかった。ずっと」
「ごめんね。……ごめんね」
ミナは、背中を撫で続けた。
リオは、その光景を、ただ、見つめていた。
息子。
自分に、息子がいる。
その子が、二十年後の世界から、何もかも背負って、ここまで来てくれた。
胸の奥が、熱くて、苦しくて、愛おしくて、どうにかなってしまいそうだった。
しばらくして、ロアは、落ち着きを取り戻した。
ミナが、手を握ったまま、そばを離れない。ロアは、少し照れくさそうに、それを受け入れていた。
「続けても、いいですか」
「ああ。頼む」
リオは、ロアの目を、まっすぐに見た。
「その後、何が起きたのか。最後まで、教えてほしい」
「はい」
ロアは、頷いた。
「父さんが亡くなったあと、母さんは、僕を育てながら、戦いを続けました。魔王は、世界を侵略し続け、人々は、追い詰められていった」
「…………」
「僕が、十九になった年。母さんは、僕を、東の岬に連れていきました。そこに、未来へつながる祠が、隠されていた」
ロアは、目を閉じた。
「『ロア。あなたは、過去へ行きなさい。まだ、リオとミナが、祠から戻ったばかりの時間へ』と」
「だから、君は、ここに来たのね」
セレナが、静かに言った。
「ええ。過去の父さんと母さんに、すべてを伝えるために。歴史を、変えるために」
ロアは、目を開けた。
「でも、祠を使うには、膨大な魔力が必要でした。それを、母さんが、自分の命と引き換えに、捧げてくれた」
ミナの手が、ぴくりと動いた。
「魔王の軍勢が、岬に迫っていました。母さんは、僕を祠に押し込んで、魔王軍の前に、立ちはだかった」
ロアの肩が、震えた。
「『行きなさい、ロア。振り返らないで』って。それが、母さんの、最後の言葉でした」
廃墟に、風の音が響いた。
ミナは、何も言わなかった。
ただ、ロアの手を、ぎゅっと、強く握った。
長い時間が、過ぎた。
「……そっか」
ミナが、小さく笑った。涙が、頬を伝っている。
「私、ちゃんと、あなたのお母さんを、やれてたんだね」
「はい。最高の、母さんでした」
ロアが、にっこりと笑い返した。
リオは、ふたりを見ていた。
それから、立ち上がって、ロアの前に歩み寄った。
「ロア」
「はい」
「ありがとう。来てくれて」
リオは、深く、頭を下げた。
「僕は、何も知らないまま、父さんを……いや、あの人を、救えないまま、終わるところだった」
「父さん」
ロアは、涙声で呼んだ。
「顔を、上げてください」
「いや、言わせてくれ」
リオは、顔を上げて、ロアの目を見た。
「君が、命がけで運んでくれた真実を、僕は、無駄にしない。必ず、未来を変える」
「はい」
「そして、君の母さんも、君も、死なせない」
「…………」
「もう一度、会えてよかった。……僕の、息子」
ロアは、くしゃりと顔を歪めて、リオに抱きついた。
リオは、その背中を、強く、抱きしめた。
大きな背中だった。
自分と、同じくらいの背丈。同じくらいの肩幅。
けれど、その背中は、小さな子供のように、震えていた。
夜が、明けた。
東の空が、わずかに白んでいる。それでも、空を覆う黒雲は、一向に晴れる気配がなかった。
四人は、廃墟の中庭に集まっていた。
「改めて、作戦を整理しよう」
リオが、切り出した。
「魔王を倒すには、核を、ロイさんの体から切り離す必要がある。それは、間違いないか」
「はい」
ロアが、頷いた。
「核は、父さんのお父さん——ロイさんの、胸に埋まっています。普通の剣で斬っても、核は、すぐに再生してしまう」
「聖剣でも、無理だったな」
「ええ。聖剣は、核を斬れる、唯一の武器ですが、それでも、足りなかった」
ロアは、拳を握りしめた。
「僕は、あの戦いのなかで、ひとつだけ、気づいたことがあります」
「何だ?」
「核は、父さんの……いえ、あなたの剣を、恐れているんです」
「恐れて、る?」
「あなたの、聖剣ではなく、あなた自身を」
ロアは、真剣な目で言った。
「ロイさんの血を引いた、あなたの剣は、核にとって、特別なものなんです。僕は、何度か、魔王が、ほんの一瞬、動きを止めるのを見ました。あなたの剣が、魔王の胸に迫ったとき」
「……ロイさんの意識が、抗っているのか」
「たぶん。核に、ほんの一瞬、隙ができる。でも、それを、活かしきれなかった」
「なぜだ?」
「あなたが、迷ったからです」
リオは、息を呑んだ。
「迷い」
「ええ。『父さんを、斬ってしまうかもしれない』という迷い」
ロアは、静かに言った。
「でも、今のあなたは、もう、迷わないはずです。あなたは、知ったんですから。魔王の正体が、あなたのお父さんだと。そして、お父さんを、救うための戦いだと」
リオは、首から下げた木彫りの鷹を、握りしめた。
ガルドが、革紐を通してくれたもの。
そして、ロイが、最後の力で、息子の手に握らせたもの。
「僕は、迷わない」
リオは、顔を上げた。
「父さんを、斬らない。核だけを、斬る」
「はい」
「そのために、必ず、ロイさんの意識に、呼びかける。僕がここにいる、と」
「それが、できるのは、あなたしかいません」
ロアは、微笑んだ。
「僕も、手伝います。母さんと、一緒に」
「ええ」
ミナが、力強く頷いた。
「私も、行く」
セレナが、少しだけ、寂しそうに笑った。
「じゃあ、私は、王都に向かうわ」
「セレナ?」
「あなたたちが、魔王に挑む間に、生き残った人たちを、守る。それに、各地に残っている兵や魔法使いをまとめて、核の眷属を、少しでも抑えるわ」
セレナは、杖を握り直した。
「ダリオの仇は、あなたたちに任せる。でも、後始末は、私に任せなさい」
「セレナ……」
「泣きそうな顔しないで。私は、あなたたちの仲間でしょ」
セレナは、ミナの肩を、軽く叩いた。
「ミナ。リオを、お願いね」
「うん。ありがとう、セレナ」
ミナとセレナは、短く抱き合った。それから、セレナは、リオとロアに向き直って、一礼した。
「勝って、帰ってきなさい。必ず」
「ああ。約束する」
セレナは、にっと笑って、背を向けた。
その背中が、朝焼けのなかへ、小さくなっていく。
リオは、見送りながら、ふと、もうひとつの約束を思い出した。
——いいか、必ず帰ってこい。
ガルドの、ごつごつした手。
あの人は、生きているだろうか。
「リオ」
ロアが、隣に並んだ。
「僕の知る歴史では、ガルドさんは、無事でした。エルド村の鍛冶場で、あなたを、ずっと待っていました」
「……本当か」
「ええ。僕が小さい頃は、よく、遊んでもらいました。グランパって呼んで」
ロアは、嬉しそうに笑った。
「だから、必ず、帰りましょう。みんなで」
「そうだな」
リオは、深く、息を吸い込んだ。
空気は、冷たかった。けれど、胸のなかは、不思議と、あたたかかった。
かつて、自分は、何者でもなかった。川から流れてきた、名もなき捨て子。
けれど、今は、違う。
守ってくれた両親がいた。育ててくれた父がいた。支えてくれる仲間がいて、並んで歩いてくれるミナがいて、未来から駆けつけてくれた息子がいる。
「行こう」
リオは、聖剣を腰に差し直した。
「黒氷の城へ。父さんを、迎えに」
黒氷の城に着いたのは、それから、六日後のことだった。
空は、ますます暗くなっていた。城を中心に、黒い雲が渦を巻き、時折、稲妻が走る。城壁の周囲には、魔物の影が、無数にうごめいていた。
ロアが、先頭に立って、魔物の群れを切り開いた。
その剣筋を、リオは、後ろから見ていた。
鋭く、迷いがなく、しなやかで。
それは、リオ自身の剣にも似ていたし、あの夜、焚き火のそばで見た、ロイの剣にも似ていた。
三代にわたって受け継がれた剣が、ここにある。
そう思うと、リオの胸が、熱くなった。
「父さん、前を!」
「ああ!」
三人は、息を合わせて、群れを突破した。
城門の前に、たどり着く。
巨大な黒い扉が、そびえ立っていた。扉の中央には、剣と翼の紋章が、銀で象嵌されている。
「ここが、最後の門ですね」
「ああ」
リオは、扉に手をかけた。
そのときだった。
扉が、ひとりでに、ゆっくりと開いた。
重い軋みとともに、暗い玉座の間への道が、口を開く。
奥から、静かな足音が、近づいてきた。
黒い鎧。長い外套。顔を覆う兜。
胸には、禍々しく脈打つ、黒い結晶。
魔王ヴァルザーク。
いや。
ロイの体を借りた、核。
「……来たな」
低い声が、広間に響いた。二つの声が、重なっている。
「聖剣の勇者。そして、時の彼方から来た、見知らぬ若者。……いや」
魔王の兜が、ゆっくりと、リオへ向けられた。
「待っていたぞ。リオ」
リオは、剣を抜いた。
その切っ先は、もう、震えていなかった。
「僕も、会いたかった」
リオは、まっすぐに、魔王を見据えた。
「僕の、お父さん」
魔王の肩が、わずかに、揺れた。
兜の奥で、何かが、ざわり、と動いた気配がした。
それが、核の嘲笑なのか、あるいは、ロイの意識の、かすかな揺らぎなのか、リオには、まだ、判別がつかなかった。
だが、確かに、感じた。
この戦いの先に、希望がある、と。
リオは、息を吸って、剣を構えた。
「ミナ、ロア。行くぞ」
「うん」
「はい!」
三人は、同時に、駆け出した。
最後の戦いが、始まる。




