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第三章 告げられた歴史

 崩れる祠

 光が、消えた。

 足の裏に、ひんやりとした石の感触が戻ってくる。リオは、ゆっくりと目を開けた。

 見慣れた祠の内部だった。苔むした壁、円形の台座、中央に浮かぶ青白い水晶。ただ、水晶の光は、ひどく弱々しかった。今にも消え入りそうに、かすかに明滅している。

「戻って、きたの?」

 ミナが、リオの袖を握ったまま、あたりを見回した。

「ええ。祠の気配は、確かに、私たちが出発したときのものよ」

 セレナが、杖を握り直した。

「でも、おかしい。水晶の魔力が、ほとんど残ってない。まるで——」

 その言葉は、地鳴りにかき消された。

 天井から、細かい石の粉が降ってきた。壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。

「崩れる! 外へ!」

 リオは、ミナの手を引いて、入り口へ駆けた。セレナも続く。背後で、水晶が、ぱきん、と乾いた音を立てて砕けた。

 三人が祠の外へ転がり出た、その直後。

 轟音とともに、時の祠は、完全に崩れ落ちた。

 土煙が、雪の谷に舞い上がる。

 リオは、咳き込みながら、振り返った。

 そこには、瓦礫の山だけが、残っていた。入り口に刻まれていた、翼を広げた鳥の彫刻も、石の下に埋もれて見えなくなっている。

「……帰り道は、もう、ないのね」

 ミナが、小さく呟いた。

「だな。でも、大丈夫だ。僕たちは、魔王を倒した。それなら、世界は——」

 そこまで言って、リオは、言葉を失った。

 谷を見上げた空が、黒かった。

 厚い雲が、空全体を覆っている。出発したときと同じ、いや、あのときよりも、ずっと暗い。雲の切れ間から、赤黒い光が、不気味に漏れていた。

「どうして……」

 セレナの声が、震えた。

「魔王は、倒したはずでしょう? あの時代の魔王を、確かに、私たちは」

「ええ。倒した。核を砕いたのを、ロイさんが、確かに感じたって」

 リオは、拳を握りしめた。

 胸のなかで、嫌な予感が、膨らんでいく。

「まさか、僕たちが戻ってきたのは、救われた世界じゃなかったのか?」


 谷を降りて、最初に見えた村は、もう、人が住める場所ではなかった。

 家々の屋根は焼け落ち、畑には、黒い草が生い茂っている。道端に、折れた槍と、錆びた鎧が、転がっていた。

「ここは、確か、羊飼いの村だったはず」

 セレナが、足を止めた。

「旅の途中で、立ち寄ったことがあるわ。優しい人たちだった」

「誰も、いないのか」

 リオが、廃屋の戸を押した。蝶番が軋んで、扉が倒れる。埃の積もった床に、子供用の靴が、ひとつ、転がっていた。

 ミナが、そっと、それを拾い上げた。

「……ねえ、リオ。私たち、何かを間違えたのかな」

「わからない」

 リオは、正直に答えた。

「でも、確かめなきゃ。何が起きているのか」

 三人は、さらに南へ向かった。

 昼を過ぎた頃、街道沿いで、ようやく人影に出会った。

 荷車を引く、疲れ果てた老人たち。ぼろをまとった子供。彼らは、リオたちを見るなり、怯えたように身を寄せ合った。

「待ってください。僕たちは、敵じゃありません」

「あんたたち、勇者様じゃ、ないか……?」

 老人のひとりが、掠れた声で言った。

「聖剣の光が見えた。もしや、リオ様では」

「はい。僕は、リオです」

「おお……」

 老人は、その場にへたり込んだ。

「勇者様が、戻られた。……では、まだ、望みはあるのか」

「ひとつ、教えてください」

 リオは、膝をついて、老人と視線を合わせた。

「魔王は、まだ、世界を支配しているんですか」

「ああ。ああ、そうとも」

 老人は、涙を流しながら、頷いた。

「三か月前、北の黒氷の城から、魔王が、大軍を率いて進軍してきた。王都は、陥落した。国王陛下も、神官様方も、みな……」

「三か月前?」

 セレナが、息を呑んだ。

「それは、私たちが過去に旅立ってから、ほんの少しあとじゃない」

「ええ。時間の流れが、同じなんだわ」

 ミナが、青い顔で言った。

「私たちが、過去で一週間過ごしても、こちらでは、ほとんど時間が経ってないんだ。それで……」

「つまり、過去で何をしても、現代の魔王は、消えなかったってことか?」

 リオは、立ち上がった。

「そんな。魔王の核を砕いたのに」

 誰も、答えられなかった。

 老人が、荷車の上から、一枚の旗を取り出した。黒い布に、銀糸で、模様が縫い取られている。

 剣と翼を組み合わせた、紋章。

「これを、魔王の軍勢が、掲げておりました」

「……っ!」

 リオの心臓が、大きく跳ねた。

 翼剣騎士団の紋章だ。

 ロイの胸元にあった、あの紋章と、まったく同じものだ。

「どうして、魔王が、あの紋章を」

「わかりません。ただ、近頃では、魔王のことを、『翼剣の魔王』と呼ぶ者もおります」

「翼剣の……」

 リオは、頭が真っ白になった。

 ただの偶然ではない。何かが、つながっている。ロイと、魔王と、あの紋章と、自分の首飾りと。

 けれど、答えは、まだ、霧のなかだった。


 日が暮れる頃、三人は、街道沿いの廃墟に身を寄せた。

 かつて宿屋だったらしい、石造りの建物。天井が半分抜け落ちているが、壁は残っている。セレナが、簡単な結界を張った。

 ミナが、持っていた干し肉と豆でスープを作った。三人で、黙って啜る。味は、ほとんどしなかった。

「……ねえ、リオ」

 ミナが、囁くように言った。

「今、何を考えてる?」

「ロイさんのこと」

 リオは、スープの椀を見つめた。

「あの人が、笑ってたこと。家族のこと。『平和になったら、息子の名前を決める』って」

「うん」

「あの紋章が、魔王の旗に使われてるのは、偶然なんだろうか」

「わからない。でも、リオ」

 ミナは、そっと、リオの手に触れた。

「一人で、抱え込まないでね」

「ありがとう」

 リオは、ミナの手を握り返した。

 その瞬間、結界が、ぴりり、と震えた。

 セレナが、弾かれたように顔を上げた。

「誰か、来る」

 三人は、一斉に武器を取った。

 廃墟の入り口に、足音が近づいてくる。ゆっくりと、一歩ずつ。

「魔物か?」

「いえ。人の気配よ。でも……」

 セレナの顔が、強張った。

「魔力の質が、おかしい。まるで、何重にも、時間が重なってるみたいな」

 足音が、止まった。

 夜の闇のなかから、一人の青年が、姿を現した。

 年は、二十歳前後だろうか。すらりとした長身で、栗色の髪を、後ろで結んでいる。薄汚れた旅装束を着て、背には、一振りの剣を負っていた。

 その顔を見た瞬間、リオは、息を呑んだ。

 目だ。

 深く、澄んだ、夜明けの空のような目。

 鏡のなかで、毎朝見ていた目と、同じ色をしていた。

「……やっと、会えた」

 青年は、かすれた声で呟いた。

 そして、その目から、一筋の涙が、こぼれた。

「え?」

「あ、すみません。……ずっと、会いたかったから」

 青年は、慌てて袖で涙を拭った。それから、ぎこちなく、笑った。

 その笑顔を見て、今度は、ミナが、息を呑んだ。

「……私の、笑い方に、似てる」

「ミナ?」

「ううん、何でもない」

 ミナは、自分で自分の言葉に戸惑ったように、首を振った。

「誰だ、お前は」

 リオが、聖剣の切っ先を、青年に向けた。

「敵意は、ありません」

 青年は、両手を上げた。それから、ゆっくりと、胸元に手を入れた。

「ただ、これを、見てもらいたくて」

 青年が、首から引き出したのは、革紐に通された、小さな木彫りの鳥だった。

 翼を広げた、鷹の形。

 リオの首元にあるものと、寸分違わぬ細工。ただ、こちらのほうが、ずっと古びていて、何度も撫でられたように、角が丸くなっていた。

「これは……」

「あなたの首にある鳥と、同じものです」

 青年は、静かに言った。

「いや、正確には、あなたのものです。あなたが、この先で、僕に託すものだから」

「……何を言ってるんだ」

「僕は、未来から来ました」

 廃墟に、沈黙が落ちた。

 セレナが、杖を構えた。

「まさか。時の祠は、過去へ行くものよ。未来へ繋がる祠なんて」

「あります。ここから、ずっと東の、海に面した岬に。誰にも知られていない、もうひとつの祠が」

 青年は、まっすぐに、リオを見た。

「あなたが、父さんの敵を討つために、過去へ行くと決めたあの日、僕の母が教えてくれました。いつか来る、この日のために」

 青年は、言いかけて、はっと口を閉ざした。

 それから、ぎゅっと唇を噛んで、言い直した。

「いえ。……あなたが、これから知る、すべてのことを、伝えるために」

「待て。今、何て言った?」

 リオの声が、かすれた。

「『父さん』と、言ったか?」

 青年は、答えなかった。

 ただ、ゆっくりと、剣を地面に置いた。それから、深く、頭を下げた。

「僕の名前は、ロア。——すべて、話します。長い話ですが、聞いてください」


 焚き火を囲んで、四人は、向かい合った。

 ロアは、膝の上で、手を握りしめていた。その手が、かすかに震えている。

「最初に、お伝えしておきます。これから話すことは、あなたたちにとって、つらい内容だと思います。でも、すべて、事実です」

「構わない。話してくれ」

 リオは、頷いた。ミナが、その隣で、静かに息を整える。

 ロアは、まず、一番大きな真実から話した。

「今、世界を支配している魔王。あれは、二十年前に、あなたたちが倒した魔王と、同じ存在です」

「馬鹿な」

 セレナが、思わず身を乗り出した。

「核は、確かに砕けたはずよ。ロイが、感触を確かめたって」

「核は、砕けていませんでした。ほんの、米粒ほどの欠片が、残っていたんです」

 ロアは、淡々と続けた。

「あなたたちは、塔の崩落で、灰のなかに紛れた欠片に、気づかなかった。そして、その欠片は、あなたたちの仲間——ロイさんの、外套の裾に、潜り込んだんです」

「ロイさんの……」

 リオの顔から、血の気が引いた。

「そんな。じゃあ、ロイさんは」

「核は、ロイさんの家まで、ついていきました。そこで、彼の妻を殺しました」

「…………!」

 ミナが、口元を覆った。

「エリスさんを」

「そして、ロイさんに、取引を持ちかけた。自分の器になれ、さもなくば、赤ん坊を殺す、と」

 ロアの声が、わずかに震えた。

「ロイさんは、受け入れました。でも、その前に、最後の一手を打ったんです。息子を、籠に入れて、川に流した」

 リオは、動けなかった。

 耳の奥で、血の流れる音が、うるさいほど響いている。

「……川、に?」

「雪解けの、増水した川です。普通なら、一晩で溺れ死んでしまう。でも、ロイさんは、残された魔力のすべてを、その籠に込めた。水が入らないように。流れに呑まれないように」

 ロアは、息を吸った。

「その籠は、下流の、エルド村まで流れ着きました。鍛冶屋のガルドさんという人に、拾われて、リオと名づけられた」

 リオの唇が、わなないた。

 言葉が、出なかった。

「赤ん坊の、リオ。……あなたです」

 焚き火が、ぱちりと爆ぜた。

 リオは、自分の首元に手を伸ばした。木彫りの鷹を、握りしめる。

 指先が、冷たくなっていくのがわかった。

「あの、焚き火の夜」

 リオは、かすれた声で言った。

「ロイさんが、彫っていた鷹。『息子へ贈る』って言ってた、あの」

「ええ」

「あの人は、僕の」

「そうです。あなたの、お父さんです」

 ロアは、静かに告げた。

 リオの視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 抱いた赤ん坊の、あたたかさ。腕のなかで握ってきた、小さな指。どこかで見たことのあると思った、夜明けの空のような瞳。

 あの子は、僕だったんだ。

 あの家の、エリスさんは、僕の、お母さん。

 あの笑顔の人が、僕の。

「……僕は」

 リオは、顔を覆った。肩が、小さく震える。

「僕は、捨てられたんじゃなかった」

「リオ」

 ミナが、リオの背中に、そっと手を置いた。

「守って、もらってたんだ。ずっと。お父さんに、お母さんに」

 その言葉に、リオは、ついに、声を殺して泣いた。

 十歳の夏の夕暮れ、川辺で、ミナと交わした言葉が蘇る。

 ——捨てられたのか、守ってくれたのか。それだけ、知りたいんだ。

 ——守ってくれたんだよ、きっと。

 ミナの言ったとおりだった。

 あの人は、血まみれになりながら、僕を、川へ流した。生きてくれ、と、祈りながら。

 涙が、止まらなかった。

 セレナは、何も言えずに、ただ、唇を噛んでいた。

 しばらくして、ようやく、リオが顔を上げた。

「……続きを、話してくれ」

 その目は、赤く腫れていたが、まっすぐだった。

「ロイさんは、その後、どうなった」

「核を、受け入れました。そして、核に、体を乗っ取られた」

 ロアは、苦しそうに、目を伏せた。

「核は、ロイさんの記憶を読み取って、すべてを知りました。未来から来た勇者のこと、時の祠のこと。そして、祠を、破壊した」

「それで、帰り道が、崩れたのね」

 セレナが、低く呟いた。

「ええ。あなたたちが過去に戻ったとき、祠は、すでに、崩れる運命だったんです」

「でも」

 ミナが、顔を上げた。

「それなら、核は、ロイさんの体を使って、二十年かけて、力を取り戻したってこと?」

「そのとおりです。時間をかけて、魔王として、復活した」

「そして、現代で、僕たちの前に現れた……」

 リオは、拳を握りしめた。

「ヴァルザーク。あの黒い鎧の魔王が、僕の」

「はい」

 ロアは、頷いた。

「リオの、お父さん。翼剣騎士ロイさんの体が、魔王の器なんです」

 長い、長い沈黙が、焚き火を包んだ。

 リオは、あの玉座の間の光景を、思い出していた。

 圧倒的な力。底冷えするほどの低い声。

 けれど、あの魔王は、あのとき、最後に、リオたちを見ていた。何かを確かめるように。

 あれは、息子を、見ていたのか。

「……僕は、父さんを、斬ろうとしたのか」

「リオ」

「あの人の体を、聖剣で、斬ったんだ。肩に、傷を」

「それは、あなたのせいじゃない」

 ロアが、強い声で言った。

「あなたは、何も知らなかった。知りようがなかった」

「でも」

「あなたのお父さんは、ずっと、あなたを守るために戦ってきました。核に体を乗っ取られても、意識の奥底で、必死に抗ってきたんです」

 ロアの声は、確信に満ちていた。

「僕は、それを、知っています」

「どうして?」

 ミナが、尋ねた。

「どうして、あなたは、そんなことまで知ってるの?」

 ロアは、ゆっくりと、ミナを見た。

 それから、ふっと、寂しげに笑った。

「それは、ここから先の話です」

 ロアは、膝の上の手を、そっと組み直した。

「父さん……いえ、リオ。あなたは、これから、ミナさんとともに、魔王に挑み続けます。何度も、何度も」

「何度も?」

「今回の戦いだけで、終わらなかったんです。あなたたちは、勝てなかった」

 ロアの声が、少し、かすれた。

「魔王は、強すぎた。そして、あなたは、父親を斬ることに、迷いがあった。迷いは、剣を鈍らせた」

「…………」

「それでも、あなたは、諦めなかった。何度でも、何度でも、立ち向かった。仲間を失い、傷を負いながらも」

 ロアは、息を吸った。

「そして、ある冬の夜、あなたは、命を落としました」

 リオは、目を見開いた。

「僕が……」

「ええ。魔王の一撃から、母を庇って」

 ロアは、そこで、はっと口を閉ざした。

 それから、深く、頭を下げた。

「失礼しました。ミナさんの前で」

 ミナは、青ざめた顔で、ロアを見つめていた。

 その唇が、小さく動く。

「……母、を」

「ミナさん」

 ロアは、顔を上げた。その目は、涙で濡れていた。

「あなたは、リオと、結ばれます。そして、子供を授かる」

「…………」

「その子供が、僕です」

 ミナの手が、口元から、ゆっくりと離れた。

 焚き火の炎が、ロアの頬を、赤く照らしている。

 その顔に、リオの面影と、ミナの面影が、確かに、並んで宿っていた。

 セレナが、「そんな」と、掠れた声を漏らした。

「リオ。ミナ。……あなたたち」

「信じられない、ですよね」

 ロアは、涙を拭って、苦笑した。

「いきなり、息子だなんて。でも、本当です。僕は、あなたたちの子供です」

 ミナが、静かに、立ち上がった。

 ロアの前に、歩み寄る。そして、膝をついて、その顔を、両手で包んだ。

「……あたたかい」

 ミナの声は、震えていた。

「ほんとだ。ちゃんと、あったかい」

「母さん」

 ロアが、つい、口にした。

 その瞬間、ミナの目から、涙が溢れた。

「うん。……うん」

 ミナは、ロアの頭を抱き寄せた。

 ロアは、子供のように、ミナの肩に顔を埋めた。堰を切ったように、嗚咽が漏れる。

「ずっと、会いたかった。ずっと」

「ごめんね。……ごめんね」

 ミナは、背中を撫で続けた。

 リオは、その光景を、ただ、見つめていた。

 息子。

 自分に、息子がいる。

 その子が、二十年後の世界から、何もかも背負って、ここまで来てくれた。

 胸の奥が、熱くて、苦しくて、愛おしくて、どうにかなってしまいそうだった。


 しばらくして、ロアは、落ち着きを取り戻した。

 ミナが、手を握ったまま、そばを離れない。ロアは、少し照れくさそうに、それを受け入れていた。

「続けても、いいですか」

「ああ。頼む」

 リオは、ロアの目を、まっすぐに見た。

「その後、何が起きたのか。最後まで、教えてほしい」

「はい」

 ロアは、頷いた。

「父さんが亡くなったあと、母さんは、僕を育てながら、戦いを続けました。魔王は、世界を侵略し続け、人々は、追い詰められていった」

「…………」

「僕が、十九になった年。母さんは、僕を、東の岬に連れていきました。そこに、未来へつながる祠が、隠されていた」

 ロアは、目を閉じた。

「『ロア。あなたは、過去へ行きなさい。まだ、リオとミナが、祠から戻ったばかりの時間へ』と」

「だから、君は、ここに来たのね」

 セレナが、静かに言った。

「ええ。過去の父さんと母さんに、すべてを伝えるために。歴史を、変えるために」

 ロアは、目を開けた。

「でも、祠を使うには、膨大な魔力が必要でした。それを、母さんが、自分の命と引き換えに、捧げてくれた」

 ミナの手が、ぴくりと動いた。

「魔王の軍勢が、岬に迫っていました。母さんは、僕を祠に押し込んで、魔王軍の前に、立ちはだかった」

 ロアの肩が、震えた。

「『行きなさい、ロア。振り返らないで』って。それが、母さんの、最後の言葉でした」

 廃墟に、風の音が響いた。

 ミナは、何も言わなかった。

 ただ、ロアの手を、ぎゅっと、強く握った。

 長い時間が、過ぎた。

「……そっか」

 ミナが、小さく笑った。涙が、頬を伝っている。

「私、ちゃんと、あなたのお母さんを、やれてたんだね」

「はい。最高の、母さんでした」

 ロアが、にっこりと笑い返した。

 リオは、ふたりを見ていた。

 それから、立ち上がって、ロアの前に歩み寄った。

「ロア」

「はい」

「ありがとう。来てくれて」

 リオは、深く、頭を下げた。

「僕は、何も知らないまま、父さんを……いや、あの人を、救えないまま、終わるところだった」

「父さん」

 ロアは、涙声で呼んだ。

「顔を、上げてください」

「いや、言わせてくれ」

 リオは、顔を上げて、ロアの目を見た。

「君が、命がけで運んでくれた真実を、僕は、無駄にしない。必ず、未来を変える」

「はい」

「そして、君の母さんも、君も、死なせない」

「…………」

「もう一度、会えてよかった。……僕の、息子」

 ロアは、くしゃりと顔を歪めて、リオに抱きついた。

 リオは、その背中を、強く、抱きしめた。

 大きな背中だった。

 自分と、同じくらいの背丈。同じくらいの肩幅。

 けれど、その背中は、小さな子供のように、震えていた。


 夜が、明けた。

 東の空が、わずかに白んでいる。それでも、空を覆う黒雲は、一向に晴れる気配がなかった。

 四人は、廃墟の中庭に集まっていた。

「改めて、作戦を整理しよう」

 リオが、切り出した。

「魔王を倒すには、核を、ロイさんの体から切り離す必要がある。それは、間違いないか」

「はい」

 ロアが、頷いた。

「核は、父さんのお父さん——ロイさんの、胸に埋まっています。普通の剣で斬っても、核は、すぐに再生してしまう」

「聖剣でも、無理だったな」

「ええ。聖剣は、核を斬れる、唯一の武器ですが、それでも、足りなかった」

 ロアは、拳を握りしめた。

「僕は、あの戦いのなかで、ひとつだけ、気づいたことがあります」

「何だ?」

「核は、父さんの……いえ、あなたの剣を、恐れているんです」

「恐れて、る?」

「あなたの、聖剣ではなく、あなた自身を」

 ロアは、真剣な目で言った。

「ロイさんの血を引いた、あなたの剣は、核にとって、特別なものなんです。僕は、何度か、魔王が、ほんの一瞬、動きを止めるのを見ました。あなたの剣が、魔王の胸に迫ったとき」

「……ロイさんの意識が、抗っているのか」

「たぶん。核に、ほんの一瞬、隙ができる。でも、それを、活かしきれなかった」

「なぜだ?」

「あなたが、迷ったからです」

 リオは、息を呑んだ。

「迷い」

「ええ。『父さんを、斬ってしまうかもしれない』という迷い」

 ロアは、静かに言った。

「でも、今のあなたは、もう、迷わないはずです。あなたは、知ったんですから。魔王の正体が、あなたのお父さんだと。そして、お父さんを、救うための戦いだと」

 リオは、首から下げた木彫りの鷹を、握りしめた。

 ガルドが、革紐を通してくれたもの。

 そして、ロイが、最後の力で、息子の手に握らせたもの。

「僕は、迷わない」

 リオは、顔を上げた。

「父さんを、斬らない。核だけを、斬る」

「はい」

「そのために、必ず、ロイさんの意識に、呼びかける。僕がここにいる、と」

「それが、できるのは、あなたしかいません」

 ロアは、微笑んだ。

「僕も、手伝います。母さんと、一緒に」

「ええ」

 ミナが、力強く頷いた。

「私も、行く」

 セレナが、少しだけ、寂しそうに笑った。

「じゃあ、私は、王都に向かうわ」

「セレナ?」

「あなたたちが、魔王に挑む間に、生き残った人たちを、守る。それに、各地に残っている兵や魔法使いをまとめて、核の眷属を、少しでも抑えるわ」

 セレナは、杖を握り直した。

「ダリオの仇は、あなたたちに任せる。でも、後始末は、私に任せなさい」

「セレナ……」

「泣きそうな顔しないで。私は、あなたたちの仲間でしょ」

 セレナは、ミナの肩を、軽く叩いた。

「ミナ。リオを、お願いね」

「うん。ありがとう、セレナ」

 ミナとセレナは、短く抱き合った。それから、セレナは、リオとロアに向き直って、一礼した。

「勝って、帰ってきなさい。必ず」

「ああ。約束する」

 セレナは、にっと笑って、背を向けた。

 その背中が、朝焼けのなかへ、小さくなっていく。

 リオは、見送りながら、ふと、もうひとつの約束を思い出した。

 ——いいか、必ず帰ってこい。

 ガルドの、ごつごつした手。

 あの人は、生きているだろうか。

「リオ」

 ロアが、隣に並んだ。

「僕の知る歴史では、ガルドさんは、無事でした。エルド村の鍛冶場で、あなたを、ずっと待っていました」

「……本当か」

「ええ。僕が小さい頃は、よく、遊んでもらいました。グランパって呼んで」

 ロアは、嬉しそうに笑った。

「だから、必ず、帰りましょう。みんなで」

「そうだな」

 リオは、深く、息を吸い込んだ。

 空気は、冷たかった。けれど、胸のなかは、不思議と、あたたかかった。

 かつて、自分は、何者でもなかった。川から流れてきた、名もなき捨て子。

 けれど、今は、違う。

 守ってくれた両親がいた。育ててくれた父がいた。支えてくれる仲間がいて、並んで歩いてくれるミナがいて、未来から駆けつけてくれた息子がいる。

「行こう」

 リオは、聖剣を腰に差し直した。

「黒氷の城へ。父さんを、迎えに」


 黒氷の城に着いたのは、それから、六日後のことだった。

 空は、ますます暗くなっていた。城を中心に、黒い雲が渦を巻き、時折、稲妻が走る。城壁の周囲には、魔物の影が、無数にうごめいていた。

 ロアが、先頭に立って、魔物の群れを切り開いた。

 その剣筋を、リオは、後ろから見ていた。

 鋭く、迷いがなく、しなやかで。

 それは、リオ自身の剣にも似ていたし、あの夜、焚き火のそばで見た、ロイの剣にも似ていた。

 三代にわたって受け継がれた剣が、ここにある。

 そう思うと、リオの胸が、熱くなった。

「父さん、前を!」

「ああ!」

 三人は、息を合わせて、群れを突破した。

 城門の前に、たどり着く。

 巨大な黒い扉が、そびえ立っていた。扉の中央には、剣と翼の紋章が、銀で象嵌されている。

「ここが、最後の門ですね」

「ああ」

 リオは、扉に手をかけた。

 そのときだった。

 扉が、ひとりでに、ゆっくりと開いた。

 重い軋みとともに、暗い玉座の間への道が、口を開く。

 奥から、静かな足音が、近づいてきた。

 黒い鎧。長い外套。顔を覆う兜。

 胸には、禍々しく脈打つ、黒い結晶。

 魔王ヴァルザーク。

 いや。

 ロイの体を借りた、核。

「……来たな」

 低い声が、広間に響いた。二つの声が、重なっている。

「聖剣の勇者。そして、時の彼方から来た、見知らぬ若者。……いや」

 魔王の兜が、ゆっくりと、リオへ向けられた。

「待っていたぞ。リオ」

 リオは、剣を抜いた。

 その切っ先は、もう、震えていなかった。

「僕も、会いたかった」

 リオは、まっすぐに、魔王を見据えた。

「僕の、お父さん」

 魔王の肩が、わずかに、揺れた。

 兜の奥で、何かが、ざわり、と動いた気配がした。

 それが、核の嘲笑なのか、あるいは、ロイの意識の、かすかな揺らぎなのか、リオには、まだ、判別がつかなかった。

 だが、確かに、感じた。

 この戦いの先に、希望がある、と。

 リオは、息を吸って、剣を構えた。

「ミナ、ロア。行くぞ」

「うん」

「はい!」

 三人は、同時に、駆け出した。

 最後の戦いが、始まる。

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