最終章 戦いの果てに
玉座の間
黒い扉の向こうは、あの日と同じ、円形の広間だった。
天井は見えないほど高く、白い骨のような柱が並んでいる。床には黒氷が張りつめ、踏みしめるたびに、不吉な音を立てた。
その中央に、魔王は立っていた。
「ふん。三人で来たか」
核の声が、広間にこだまする。二つの声が重なった、ひどく歪な響きだった。
「未来から来た小僧が、勇者に入れ知恵をしたのだな。我の正体を、暴いたつもりか」
「つもりじゃない。全部、聞いた」
リオは、聖剣を構えたまま答えた。
「お前が、二十年前の魔王の欠片だってことも。父さんの体を乗っ取って、母さんを殺したことも」
「ほう。では、なぜここへ来た。我に、勝てると思うのか」
「勝つ。そして、父さんを返してもらう」
魔王は、低く笑った。
「返す? これは、もはや我の体だ。ロイという男は、とうの昔に、我のなかで溶けて消えた」
「嘘だ」
リオは、きっぱりと言った。
「あの日、お前は、僕たちを見ていた。あの玉座で、僕が剣を振るったとき、お前は、一瞬だけ、動きを止めた」
「…………」
「あれは、お前が、僕を見たんじゃない。父さんが、僕を見ていたんだ」
魔王の笑いが、止まった。
広間の空気が、ぴりりと張りつめる。
「……黙れ」
黒い霧が、魔王の足元から噴き上がった。
「ならば、望みどおりにしてやろう。親子ともども、ここで、闇に沈め」
戦いが、始まった。
魔王が、片手を振った。無数の黒い刃が、宙に生まれ、雨のように降り注ぐ。
「ミナ、後ろへ!」
「うん!」
ミナが、守りの術を展開した。薬草師の祖母に習った、癒しと守護の術。それに、旅のなかで磨いた魔力が重なり、淡い光の壁が広がる。
黒い刃が、壁に突き刺さった。光が、ばきばきと砕けていく。
「耐えて、ミナ!」
「大丈夫、まだいける!」
その隙に、ロアが飛び出した。細身の剣が、魔王の脇腹を狙う。
金属音が、広間に響いた。魔王は、片手で剣を受け止めていた。
「その剣筋……」
魔王が、わずかに、兜を傾けた。
「懐かしいな。我が器の男が、同じ剣を使っていた」
「これは、あなたの剣じゃない」
ロアが、歯を食いしばった。
「父さんが、僕に、受け継いでくれた剣だ!」
「ほう」
魔王の腕が、ふっとしなった。次の瞬間、ロアの体は、広間の端まで吹き飛んでいた。
「ロア!」
「平気です!」
ロアは、瓦礫のなかから、すぐに立ち上がった。額から血が流れている。それでも、剣を握る手は、離さなかった。
リオは、魔王に向かって、突進した。
聖剣が、青白い光を放つ。魔王の胸の中央、黒い結晶を狙って、一直線に。
「《聖光斬》!」
魔王が、黒い霧の盾を展開した。聖剣が、霧にぶつかる。火花が散り、光と闇が、激しく軋み合った。
「甘い」
魔王の拳が、リオの腹に叩き込まれた。
「がっ……!」
息が止まる。体が、後ろへ吹き飛ぶ。背中から、柱に叩きつけられた。
視界が、白く明滅した。
「リオ!」
ミナの悲鳴。駆け寄ろうとする足音。
「来るな!」
リオは、叫んだ。口のなかに、血の味が広がっている。
「ミナ、結界を、維持して! ロア、挟み撃ちだ!」
「はい!」
ふたりが、左右から、魔王に迫る。
三方向からの攻撃。魔王は、ほんのわずか、動きを乱した。
その隙に、リオは、再び、聖剣を振り下ろした。
刃が、魔王の胸元に、迫る。
結晶まで、あと、指二本分。
そのとき、魔王の動きが、止まった。
二、父の声
時間が、凍りついたようだった。
聖剣の切っ先が、結晶の寸前で、静止している。魔王の腕が、ぎしぎしと軋んで、震えていた。
「ぐ……あ……」
魔王の口から、苦悶の声が漏れた。二つの声が、ぶれて、ほどけていく。
「やめ……ろ……我の、体を……」
それは、核の声だった。焦りと、怒りと、そして、恐れが滲んでいる。
「……くそ……まだ、抗うのか……ロイ……」
魔王が、膝をついた。
黒い兜が、大きく揺れて、床に、からんと落ちた。
現れたのは、人の顔だった。
短く刈った黒髪に、浅黒い肌。深い皺が刻まれ、頬はこけ、目の下には、濃い隈が浮かんでいる。
けれど、その顔は、間違いなく、あの夜、焚き火のそばで笑っていた人だった。
ロイだった。
「……父さん」
リオは、剣を下ろした。
「父さん!」
魔王の、いや、ロイの目が、ゆっくりと、リオに向けられた。
その瞳は、夜明けの空の色をしていた。
リオと、同じ色だった。
「……お前……」
ロイの唇が、わななく。
「リオ、か……? あの、勇者の……」
「はい」
リオは、首から下げた木彫りの鷹を、そっと掲げた。
「これ。父さんが、僕に、彫ってくれたものです」
ロイの目が、鷹に吸い寄せられた。
その瞬間、彼の顔から、すべての表情が消えた。
「それは……」
「僕は、籠に入って、川を流れてきた子です。ずっと、知りたかった。どうして、僕は、川に流されたのか」
リオの声が、震えた。
「捨てられたのか、守られたのか。……やっと、わかりました」
「リ……オ……」
ロイの目から、涙が、一筋、こぼれた。
「あの夜。俺は、お前の名前を、呼べなかった。最後に、お前を、川に流した瞬間に、呼びかけようとして」
ロイは、苦しそうに、喉を鳴らした。
「『リオ』と」
リオの息が、止まった。
「……え?」
「リオ。お前の名前は、リオだ。俺が、決めていた」
ロイは、震える声で、続けた。
「『光』って意味だ。翼剣騎士団の古い言葉で。この子には、暗い世界を、照らしてほしい。生まれたばかりのあの子を見たとき、そう思った」
「……リオ」
リオは、呟いた。
育ての親のガルドが、川から来たという理由でつけた名前。
実の父のロイが、光という意味を込めて決めていた名前。
同じ名前だった。
川と、光。
違う由来の名前が、二人の父の手で、偶然にも、同じ形に結ばれていた。
「リオ……リオ……」
ロイは、何度も、その名を繰り返した。まるで、二十年分の呼びかけを、取り戻すように。
「ごめんな。ずっと、呼べなくて。ずっと、会えなくて」
「父さん……」
リオは、膝をついて、ロイの手を握った。
大きくて、硬くて、冷たい手だった。けれど、握り返してくる力は、確かに、あたたかかった。
「会えて、よかった。……本当に、よかった」
ロイは、笑った。くしゃりと、子供のような笑顔で。
焚き火の夜に見た、あの笑顔だった。
「大きく、なったな。立派な、勇者に」
「ガルドさんが、育ててくれたんです。鍛冶屋の、優しい人で」
「そうか。いい人に、拾われたんだな」
「はい。……本当に、いい人です」
「あの人に、礼を言わなきゃな」
ロイは、視線を、リオの背後に向けた。
「そっちは……お前の、仲間か」
「はい。ミナです。僕が、ずっと、一緒にいてもらった人で」
「ミナさんか。あの、薬草の」
ミナが、そっと、頭を下げた。目が、涙で濡れていた。
「ロイさん。お久しぶりです」
「ああ。久しぶりだな。……いや、お前たちにとっては、つい最近のことか」
「はい」
「そして、そっちの青年」
ロイの目が、ロアに向いた。
ロアは、剣を握りしめたまま、動けずにいた。
「……君は」
「ロアといいます。リオと、ミナの……」
ロアは、そこで言葉を切った。唇を、ぎゅっと噛みしめる。
「僕の、孫、か」
ロイが、静かに言った。
「顔を見れば、わかる。リオに、そっくりだ。そして、お前の目元は、エリスにも、似ている」
「……おじいさん」
ロアが、震える声で言った。
「僕、会いたかったです。ずっと」
「ありがとうな」
ロイは、微笑んだ。その笑顔は、あまりにもやさしくて、リオは、胸が潰れそうになった。
だが、そのとき、ロイの顔が、苦痛に歪んだ。
「ぐっ……!」
「父さん!」
「……長くは、持たない」
ロイの胸の結晶が、どくん、と脈打った。黒い光が、ロイの全身を這い上がっていく。
「核が……また、俺を、押さえつけようとしている。二十年、ずっと、これと戦ってきた。もう、限界だ」
「どうすれば、いいですか!」
リオは、必死に叫んだ。
「核を、父さんから、切り離すには!」
「……俺の胸を、斬れ」
「え……」
「聖剣で、核の根を、断ち切るんだ。俺の体ごと、核だけを」
ロイは、リオの手を、強く握った。
「俺は、もう、核と一体になりすぎている。普通に斬れば、俺も、死ぬ。だが、お前の剣なら……お前が、俺の意識を、信じて、振るってくれるなら」
「無理です!」
リオは、首を振った。
「そんなこと、できません! 父さんを、斬るなんて!」
「リオ」
「やっと、会えたのに! やっと、名前を呼んでもらえたのに!」
「リオ」
ロイは、静かに、息子の頬に、手を添えた。
「聞け」
その手は、震えていた。それでも、リオを見つめる目は、揺るがなかった。
「お前は、勇者だ。世界を救うために、聖剣に選ばれた。でも、それ以前に、お前は、俺の息子で、ガルドさんの息子で、ミナさんの……大切な人だ」
「…………」
「俺は、お前に、生きてほしかった。それだけが、あの夜の、俺の願いだった」
ロイの声が、かすれていく。
「お前は、生きている。立派に、育った。もう、俺は、それだけで、十分なんだ」
「父さん……」
「だから、頼む。……俺に、最後まで、お前の父親でいさせてくれ」
ロイの胸の結晶が、ひときわ強く、脈打った。
「……ぐ、ぅ、あああああっ!」
黒い霧が、ロイの全身から、噴き出した。
核が、完全に、主導権を奪い返そうとしている。
ロイの目から、光が消えかけた。
「リオ……い、まだ……!」
「父さん!」
リオは、聖剣を握りしめた。
迷いが、胸のなかで、渦を巻いている。
父を、斬る。
そんなこと、できるはずがない。
けれど、このままでは、父は、核に呑まれて、二度と戻ってこない。
「リオ」
ミナの声が、背後から聞こえた。
「大丈夫。私が、ついてる」
ミナの手が、リオの肩に、そっと触れた。
「リオなら、できるよ。ううん、リオにしか、できない」
「父さん」
ロアが、反対側の肩に、手を置いた。
「僕も、いますから。一人じゃ、ありません」
リオは、目を閉じた。
それから、ゆっくりと、息を吐いた。
迷いが、すうっと、消えていく。
「……わかった」
リオは、目を開けた。
「父さん。僕、やります」
「ああ」
ロイは、満足そうに、頷いた。
「それでこそ、俺の息子だ」
核の咆哮
リオは、聖剣を、構え直した。
刀身が、これまでにないほど、まばゆい光を放っている。まるで、リオの覚悟に呼応するかのように。
「行きます」
「来い」
リオは、踏み込んだ。
聖剣の切っ先が、ロイの胸、黒い結晶の根元へ。
その瞬間だった。
「させるかああああっ!」
核の怒号が、広間を揺るがした。
ロイの体から、黒い霧が、爆発するように噴き出した。霧は、渦を巻いて、無数の黒い触手に姿を変える。
「リオ!」
ミナが、叫んだ。
触手が、リオに襲いかかる。ロアが剣で払い、ミナが守りの術で弾いた。だが、数が多すぎる。
「くそっ……!」
「リオ、今だ! 斬れ!」
ロイが、叫んだ。核を抑え込むために、全身の筋肉が、びきびきと軋んでいる。
「俺が、押さえてる! 早く!」
リオは、再び、踏み込んだ。
聖剣を、突き出す。
切っ先が、結晶の根元に、触れた。
黒い光と、青白い光が、激しく火花を散らす。
「ぐああああああっ!」
魔王の絶叫が、広間を満たした。
結晶に、亀裂が入った。
だが、その瞬間、核は、最後の抵抗に出た。
結晶が、ロイの胸から、ずるりと、抜け出した。
「……なに!?」
黒い結晶が、空中に浮かび上がる。それは、みるみるうちに膨れ上がり、巨大な黒い球体に変わった。球体から、無数の目が、ぎょろりと開く。
「ふ、ふははは! 見たか! 我は、もはや、器など要らぬ!」
核の声が、頭のなかに直接響いた。
「この男の命を、すべて喰らい尽くして、我は、真の魔王として、蘇る!」
球体が、ロイの体に、触手を突き刺した。
「ぐ、がぁっ!」
ロイの体が、ぐったりと、崩れ落ちた。
「父さん!」
リオは、駆け寄ろうとした。しかし、球体が放った衝撃波に、弾き飛ばされた。
「リオ!」
「くそっ、あの核を……!」
ロアが、飛びかかった。細身の剣が、球体に突き刺さる。だが、刃は、粘つく闇に呑まれ、折れてしまった。
「しまっ……!」
「ロア、下がって!」
ミナが、ロアの前に出た。両手を広げ、守りの術を展開する。
「《光の壁》!」
淡い光が、球体の放つ闇を、辛うじて押しとどめた。しかし、その光は、みるみる薄れていく。
「長くは、持たない……!」
「ミナ!」
リオは、立ち上がった。聖剣を、再び、握りしめる。
ロイの体が、床に、横たわっている。胸の結晶が抜け落ちたあとには、黒い傷痕が、ぽっかりと開いていた。
まだ、生きている。かすかに、胸が上下している。
核は、ロイの命を、今も、吸い上げ続けている。
早く、あれを倒さなければ。
そう思って、リオが、一歩踏み出した、そのときだった。
「——リオ」
かすれた声が、聞こえた。
「ロイ、さん」
倒れていたロイが、ゆっくりと、体を起こしていた。
顔は、青白く、血の気がない。胸から、止まることなく、黒い血が流れている。
それでも、ロイは、剣を、手に取った。
「父さん、動かないで!」
「いや……動けるうちに、動いておく」
ロイは、にやりと笑った。
「リオ。あの核を、倒せるのは、お前だけだ」
「わかってます。でも、父さんは」
「俺は、もう、いい」
ロイは、足を引きずりながら、リオの前に立った。
「リオ。お前が、核に、最後の一撃を打ち込むとき、俺が、時間を稼ぐ」
「何を……」
「あいつは、俺の命を、まだ、喰らい続けてる。つまり、俺は、まだ、あいつと繋がってるんだ」
ロイは、振り返らずに言った。
「繋がってるなら、俺が、あいつを、掴んでおける。その隙に、お前が」
「そんなの、ダメです!」
「リオ」
ロイは、ようやく、振り返った。
その顔は、穏やかだった。
二十年分の苦悩も、怒りも、悲しみも、すべてを越えた先にある、静かな笑顔だった。
「お前に、ひとつ、頼みがある」
「…………」
「幸せに、なれ」
ロイは、それだけ言った。
それから、前を向いて、走り出した。
「うおおおおおおっ!」
翼剣騎士の、魂の咆哮だった。
ロイは、球体に向かって、跳躍した。
細身の剣が、一直線に、黒い球体の中心へ突き込まれる。
核は、それを、迎え撃った。触手が、四方八方から、ロイの体を貫く。
肩を。腹を。脚を。
だが、ロイは、止まらなかった。
「俺の……息子に……」
血を吐きながら、ロイは、剣を、さらに深く、押し込んだ。
「手を、出すなあああっ!」
剣が、球体を、貫いた。
核が、のたうった。無数の目が、ぎょろぎょろと動き、ロイを睨みつける。
「貴様……貴様ァッ! なぜ、まだ、動ける!」
「教えてやる」
ロイは、口の端から血を滴らせながら、にやりと笑った。
「俺は、父親だからだ」
ロイの左手が、球体を、がっしりと掴んだ。
その手には、握りしめた、小さな木彫りの鷹があった。ロイが、懐に忍ばせていた、もうひとつの鷹。リオの首飾りとは別の、あの夜、彫りかけたまま、赤ん坊の手に握らせるのを忘れた、もう一羽。
ロイの全身が、黄金色の光に包まれた。
翼剣騎士団に伝わる、最後の秘術。自らの命と魂を、剣に焼き付けて、一撃に変える、禁断の技。
「リオォォッ!」
ロイの絶叫が、広間を貫いた。
「今だ! やれ!」
リオは、走った。
聖剣を、両手で握りしめて。
ロイの背中が、目の前にある。そのさらに奥に、核の黒い球体が、うごめいている。
ロイが、振り返った。
血まみれの顔が、笑っていた。
「生きろ」
ロイは、そう言って、そっと、リオの背中を押した。
リオの体が、前に、押し出される。
聖剣の切っ先が、球体の中心へ向かって、まっすぐに、突き進む。
「うあああああああああっ!」
リオは、叫んだ。
涙が、あふれた。視界が、滲んだ。
それでも、剣は、迷わなかった。
聖剣が、核の中心を、貫いた。
青白い光が、爆発した。
広間全体が、まばゆい白に染まる。核の絶叫が、遠ざかっていく。黒い霧が、光に溶けて、蒸発していく。
「ばか、な……この、我が……!」
「消えろ」
リオは、剣を、さらに、深く突き込んだ。
「僕の父さんの体から、出ていけ!」
光が、弾けた。
核は、断末魔の叫びとともに、粉々に砕け散った。
今度こそ、一欠片も、残らなかった。
光が、静かに収まっていく。
広間に、静寂が戻った。
黒氷は溶け、床には、水たまりが広がっている。天井の遥か上から、淡い光が、差し込み始めていた。
リオは、聖剣を落とした。
からん、と、澄んだ音が響く。
「父さん」
リオは、床に倒れているロイの傍らに、駆け寄った。
ロイは、仰向けに、横たわっていた。胸の黒い傷痕は、すでに、消えかかっている。ただ、体のあちこちに、無数の傷が残っていた。
「父さん!」
「……リオ」
ロイが、薄く、目を開けた。
「倒せた、か」
「はい。倒しました。核は、もう、どこにも、いません」
「そうか……よかった」
ロイは、深く、息を吐いた。
「ミナ、さん」
「はい!」
ミナが、ロイの反対側に、膝をついた。その目から、涙が、ぽろぽろとこぼれている。
「手当てを、します。すぐに」
「いいんだ」
ロイは、静かに、首を振った。
「自分の体のことは、自分が、一番わかってる。……もう、助からない」
「そんな」
ミナは、薬袋を取り出そうとした。けれど、その手が、ひどく震えて、うまく開けられない。
「大丈夫」
ロイは、そっと、ミナの手に、自分の手を重ねた。
「ありがとう。……リオを、支えてくれて」
「ロイさん……」
「リオは、こう見えて、泣き虫なんだ。きっと、あんたが、いなけりゃ、ここまで来られなかった」
「そんなこと、ありません」
ミナは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、笑った。
「リオは、強いです。ロイさんの、息子ですから」
「……そうか」
ロイは、満足そうに、目を細めた。
それから、ロイは、ロアに視線を向けた。
「ロア」
「はい、おじいさん」
ロアは、床に膝をつき、ロイの手を握った。
「お前は、未来から来たんだったな」
「はい」
「ありがとう。……お前が来てくれたから、俺は、息子に、会えた」
「僕は、何も」
「いや。お前は、すべてを繋いでくれた」
ロイは、ロアの手を、ぎゅっと握り返した。
「お前が、生まれてきてくれて、よかった」
ロアの目から、大粒の涙が、こぼれた。
「おじいさん……」
「もう、泣くな。……お前は、これから、新しい未来に、帰るんだろう?」
「……はい」
「その未来は、きっと、明るいぞ。リオと、ミナさんが、一緒にいるんだ。どんな世界だって、あたたかくなる」
ロイは、微笑んだ。
それから、ふたたび、リオに目を向けた。
「リオ」
「はい」
「首の、鷹を、見せてくれ」
リオは、首から、革紐を外して、木彫りの鷹を、ロイの手に乗せた。
ロイは、しばらく、それを、じっと見つめていた。
それから、もう片方の手に握っていた、もう一羽の鷹を、そっと、並べた。
「二羽、そろったな」
「父さん、それは」
「あの夜、彫りかけてな。お前の手には、渡せなかったんだ。……いや、握らせたと思ってたんだが、懐に、残ってたらしい」
ロイは、二羽の鷹を、リオの掌に、重ねて握らせた。
「持っていけ。お前の子に、また、受け継いでやってくれ」
「……はい」
「ガルドさんにも、よろしく伝えてくれ。『息子を、ありがとう』って」
「はい」
「それから」
ロイは、息を吸った。喉が、ひゅう、と音を立てた。
「エリスにも、会ったら、伝えてくれ。『守れなかった。でも、リオは、立派に育った』と」
「……会えますよ、きっと」
リオは、泣きながら、微笑んだ。
「父さんが、向こうで、直接、伝えてください」
「……そうだな」
ロイは、くすりと笑った。
「それも、悪くない」
窓から差し込む光が、広間を、やわらかく照らし始めた。
夜が、明けていく。
ロイの目が、ゆっくりと、閉じかけた。
「父さん!」
「リオ。……最後に、もう一度、呼んでくれ」
「え」
「『父さん』って。……ずっと、聞きたかった」
リオは、ロイの手を、両手で握りしめた。
「父さん」
「ああ」
「父さん。……ありがとう。僕を、守ってくれて」
「ああ」
「大好きです。……僕の、お父さん」
ロイの唇が、ゆるやかに、弧を描いた。
「……リオ」
「はい」
「お前の名前を、呼べて、よかった」
それが、最後の言葉だった。
ロイの手から、力が、すうっと、抜けていった。
目を閉じた顔は、穏やかだった。まるで、長い旅の果てに、ようやく、帰る場所を見つけた人のように。
窓から、朝日が、差し込んだ。
その光は、黒雲を、一枚、また一枚と、剥がしていった。
リオは、父の手を、握ったまま、動かなかった。
涙が、頬を伝って、ロイの手の甲に、落ちた。
ミナが、そっと、リオの肩に、手を置いた。
ロアが、反対側から、リオを、抱きしめた。
三人は、何も言わなかった。
ただ、静かに、泣き続けた。
翌日。
黒氷の城のそばの丘に、小さな墓が、築かれた。
石を積み、その上に、折れたロイの剣が、突き立てられている。リオが、鍛冶屋の息子として、自らの手で、刃を研ぎ直した。
「安らかに眠ってください」
ミナが、野の花を、墓前に供えた。
「エリスさんの隣に、行けるといいね」
「ああ」
リオは、墓の前に、跪いた。
首には、二羽の木彫りの鷹が、並んで下がっている。
「父さん。僕は、これから、生きていきます」
リオは、静かに、告げた。
「ガルドさんのところに、帰ります。それから、ミナと一緒に、ちゃんと、幸せになります」
「リオ」
「それが、父さんの、願いだったから」
風が、丘を吹き抜けた。
墓の上の剣が、かすかに、きらりと光った。
まるで、ロイが、笑ってくれたかのように。
空を見上げると、黒雲は、跡形もなく消えていた。
どこまでも青い空が、広がっている。
あの日、二十年前の森で見た空と、同じ色だった。
夜明けの空の色を、していた。
それから、十日後。
三人は、東の海に面した岬に立っていた。
断崖の上に、小さな石造りの祠が、ひっそりと佇んでいる。入り口には、翼を広げた鳥の彫刻。時の祠と、まったく同じ意匠だった。
「ここです」
ロアが、祠を、見上げた。
「僕は、ここから、来ました」
「そして、ここから、帰る」
「はい」
ロアは、振り返って、リオとミナを見た。
「でも、不思議なんです」
「何が?」
「歴史は、変わりました。魔王は、倒された。母さんは、死なず、父さんも、生きている」
ロアは、苦笑した。
「それなら、僕が育ったあの未来は、もう、存在しないはずなんです。僕が帰る先が、どうなっているのか、僕自身にも、わからない」
「ロア……」
ミナの顔が、曇った。
「もしかして、あなたは、帰ったら」
「消えてしまうかもしれない。あるいは、まったく別の人生が、始まっているかもしれない」
ロアは、明るく、笑った。
「でも、大丈夫です」
「どうして?」
「だって、父さんと母さんが、生きてるんですから。どんな未来だって、きっと、いい世界になってる」
ロアは、祠の台座に、一歩、近づいた。
「それに、僕は、確かに、ここにいた。こうして、おじいさんにも、会えた。父さんと母さんにも、会えた。……それだけで、十分です」
「ロア」
リオは、ロアの前に歩み寄った。
「これを、持っていけ」
リオは、首から、二羽の木彫りの鷹を外した。
そのうちの一羽を、ロアの掌に、乗せる。
「この鳥は、翼剣騎士団に代々伝わる、父親から子への贈り物だ。僕は、お前にも、贈りたい」
「でも、僕は、もう、持っていますから」
ロアは、首から、古びた鷹を、引き出した。リオが、これから先の未来で、彼に託したという、もうひとつの鷹。
「それは、僕が、いつか、お前に渡すもの。これは、今、僕が、お前に渡すもの」
リオは、微笑んだ。
「二羽、持っていけ。お前が、父親になったとき、子供に、贈ってやれるように」
「……っ」
ロアは、二羽の鷹を、胸に抱きしめた。肩が、小さく、震えている。
「父さん」
「うん」
「僕、あなたの子供に生まれて、本当によかった」
「僕もだ。お前が、僕の息子で、本当に、よかった」
リオは、ロアを、強く、抱きしめた。
ミナも、そこに加わった。三人が、ひとつの輪になって、しばらく、そのまま、動かなかった。
やがて、ロアは、そっと、体を離した。
「もう、行きます」
「ああ」
「母さん」
「うん」
「元気で。……僕の、大好きな、母さん」
「あなたも」
ミナは、ロアの頬を、両手で包んだ。
「幸せになってね。何があっても、あなたは、私たちの、自慢の息子よ」
「はい」
ロアは、涙を、拭った。
それから、祠の台座に、足を踏み入れた。
青白い光が、渦を巻いて、立ち上がる。
「ロア!」
リオが、叫んだ。
「また、会おう! どんな未来でも、必ず!」
「はい!」
ロアは、光のなかで、振り返った。
その顔は、涙に濡れていたが、満面の笑みだった。
「リオ。ミナ。……行ってきます!」
光が、弾けた。
ロアの姿が、まばゆい白のなかに、溶けていく。
やがて、光は、静かに、消えた。
祠の台座には、もう、誰もいなかった。
リオとミナは、しばらく、そこに立ち尽くしていた。
海風が、ふたりの髪を、揺らす。
波の音が、遠くから、聞こえていた。
「……行っちゃったね」
「ああ」
「大丈夫、かな」
「大丈夫さ」
リオは、ミナの手を、そっと、握った。
「あいつは、僕たちの子だ。どんな世界でも、きっと、笑って生きてる」
「……うん」
ミナが、リオの肩に、頭を預けた。
ふたりは、朝焼けの海を、いつまでも、眺めていた。
三週間の旅の末に、ふたりは、エルド村に、たどり着いた。
村は、無事だった。
川沿いの石段も、畑の畝も、鍛冶場の煙突も、リオが旅立った日のままだった。ただ、村人たちの顔は、どこか、痩せていた。それでも、リオたちを見つけると、誰もが、歓声を上げて駆け寄ってきた。
「リオだ! リオが、帰ってきた!」
「勇者様が、魔王を倒したんだ!」
「ミナちゃんも、一緒だぞ!」
人垣が、割れた。
その向こうから、一人の大男が、のしのしと歩いてきた。
白髪が増え、背中が少し丸くなったけれど、その腕は、相変わらず、丸太のように太かった。
「……お父さん」
リオが、呟いた。
「ガルド、さん」
ガルドは、リオの前で、立ち止まった。
何も、言わなかった。
ただ、じっと、息子の顔を、見つめている。
それから、ごつごつした大きな手で、リオの頬を、ぎゅっと、挟んだ。
「……痩せたな」
「うん」
「怪我は」
「少し」
「飯は、食ってたか」
「うん。ミナが、作ってくれた」
「そうか」
ガルドの目が、赤くなっていた。
「約束、守ったな」
「うん。必ず帰るって、言ったから」
「……この、馬鹿息子が」
ガルドは、リオを、がっしりと、抱きしめた。
骨が軋むほどの、力強い抱擁だった。
リオは、ガルドの肩に、顔を埋めた。
鍛冶場の、煤と鉄の匂いがした。
子供の頃から、ずっと、嗅いできた匂い。
安心して、泣けた。
「ただいま、お父さん」
「おう。……おかえり」
しばらくして、リオは、ガルドの腕から、そっと、離れた。
「お父さん。話したいことが、あるんだ」
「ああ。聞こう」
「僕の、本当の父さんのこと」
ガルドの表情が、ふっと、引き締まった。
「……会えたのか」
「うん。会えた」
リオは、首から下げた、一羽の鷹を、ガルドに見せた。
「立派な人だった。翼剣騎士団の、騎士だった」
「そうか」
「それで、伝言を、預かってる」
リオは、深呼吸をして、ロイの言葉を、ゆっくりと、伝えた。
「『息子を、ありがとう』って」
ガルドは、しばらく、黙っていた。
それから、ふいに、空を仰いだ。
「……そうか。そうか」
大きな肩が、小さく震えていた。
「会ってみたかったな。その人に」
「うん」
「酒でも、飲みながら、語り合いたかった。あんたの息子は、こんなに立派に育ったぞって」
ガルドは、顔を、ごしごしと袖で拭った。
「リオ」
「うん」
「お前の父親は、ひとりじゃない。わしと、その人と、二人だ」
「……うん」
「どっちも、お前の自慢の親父だ。そう思え」
「うん。思ってる」
リオは、満面の笑みで頷いた。
「ふたりとも、僕の、自慢の父さんだよ」
ガルドは、豪快に笑った。
「さあ、飯にするか。腹が減ったろう」
「うん!」
リオは、ミナの手を取った。
三人は、肩を並べて、鍛冶場へ向かって、歩き出した。
背後で、川が、きらきらと、朝日を反射していた。
九、それから
一年後。
エルド村の、川のほとり。
春の陽射しが、穏やかに、水面を照らしていた。
リオは、川辺の石に腰かけて、小刀を握っていた。手のなかには、木彫りの小さな鳥が、できあがりつつある。
「もう、ずいぶん上手になったじゃない」
背後から、ミナの声がした。
振り返ると、ミナが、大きく膨らんだお腹を撫でながら、ゆっくりと歩いてきた。
「あ、座ってて。無理しないで」
「大丈夫よ。ちょっとは、動かないと」
ミナは、笑って、リオの隣に腰を下ろした。
「何を、彫ってるの?」
「鷹だよ。翼剣騎士団の、伝統だから」
「そっか」
ミナは、リオの肩に、頭を預けた。
「もうすぐ、だね」
「ああ」
「男の子かな。女の子かな」
「どっちでも、いいよ」
「名前は、決めたの?」
「うん」
リオは、小刀を置いて、ミナを見た。
「どっちが、生まれてきても、いい名前を、考えてる」
「教えて」
「それは、生まれたときの、お楽しみ」
「ええー、ずるい」
ミナが、頬を膨らませた。リオは、笑った。
川面を、風が撫でていく。
その向こうの、遠い空に、一羽の鷹が、翼を広げて、舞っていた。
リオは、ふと、思い出した。
いつか、どこかの未来で、栗色の髪をした青年が、泣きながら笑っていたこと。
夜明けの空の色をした、澄んだ瞳を持つ、自分たちの、息子のこと。
「ねえ、ミナ」
「ん?」
「ロアは、元気にしてるかな」
「してるよ、きっと」
ミナは、お腹を撫でながら、微笑んだ。
「あの子は、私たちの子だもの」
「そうだな」
リオは、空を見上げた。
どこまでも青い、澄んだ空だった。
かつて、川から流れてきた、一人の捨て子がいた。
彼は、愛されて、守られて、育てられて、世界を救う勇者になった。
そして今、彼自身が、誰かの親になろうとしている。
二人の父が、彼に託したもの。
ひとりは、命を。ひとりは、名前を。
それは、これから、また、次の誰かへと、受け継がれていく。
川は、静かに流れていた。
どこまでも、どこまでも、遠い未来に向かって。
川面に、鷹の影が、ゆらりと映った。
その翼は、光を、まとっていた。




