↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/4

第二章 翼剣の戦士

最初に感じたのは、土の匂いだった。

 湿った落ち葉と、苔と、雨上がりの木の匂い。リオはゆっくりと目を開けた。梢の隙間から、やわらかな陽光が降りている。

「……ここが、過去?」

 隣で、ミナが身を起こした。髪に枯れ葉をつけたまま、きょろきょろと周囲を見回している。少し離れたところでは、セレナが杖を支えに立ち上がっていた。

「三人とも無事ね。……見て、空」

 見上げると、空は青かった。

 リオは、思わず息を呑んだ。現代の世界では、魔王の軍勢が広がるにつれて、空は黒雲に覆われつつあった。だがここには、雲ひとつない、抜けるような青空がある。

「世界が、こんなに明るかったなんて」

「まだ、魔王が目覚めて間もない頃だからでしょう」

 セレナが、懐から古びた地図を取り出した。神官から預かったものだ。

「祠の位置は、現代と変わらないはず。つまり、私たちは今、北の山脈の南麓にいる。魔王の居城は、ここから北へ三日ほど」

「三日……」

 リオは、腰の聖剣に手を置いた。刀身が、ほのかに温かい。まるで、この時代の空気に反応しているかのようだった。

「急ごう。魔王が力を蓄える前に、討たなきゃ」

 三人は荷をまとめ、森のなかを北へ向かった。

 時の祠は、背後で静かに光を失っていく。リオは、一度だけ振り返った。苔むした小さな建物は、何事もなかったかのように、森の木々に溶け込んでいた。

 帰り道は、必ずここにある。そう、信じていた。


 異変に気づいたのは、森を抜けて、小さな谷に差しかかったときだった。

 獣のうなり声。金属がぶつかり合う、甲高い音。

「戦ってる?」

 ミナが、小声で言った。リオは頷いて、岩陰からそっと谷底を覗き込んだ。

 一人の男が、魔物の群れに囲まれていた。

 狼に似た黒い獣が、十匹あまり。どれも体が牛ほどもあり、口から瘴気を吐いている。魔王の眷属だ。リオたちが現代で何度も戦ってきた相手より、むしろ手強そうに見えた。

 その真ん中で、男は剣を振るっていた。

 年は、三十前後だろうか。短く刈った黒髪に、日に焼けた浅黒い肌。使い込まれた革の鎧を着て、細身の剣を片手に持っている。動きに、まったく無駄がなかった。獣が飛びかかるたびに、紙一重で身をかわし、一太刀で急所を断つ。

 リオは、思わず見入っていた。

「すごい……」

「ええ。私たちのダリオより、ずっと上かも」

 セレナの声にも、素直な感嘆があった。

 最後の獣が倒れたとき、男は、ふうと息をついて剣を払った。そして、顔を上げて、岩陰のほうへ声を投げた。

「そこの三人。覗き見は趣味が悪いぞ」

 リオたちは顔を見合わせた。気づかれていたのだ。

 観念して岩陰から出ると、男は剣を鞘に収めながら、ふっと表情を和らげた。

「その装備、旅の者か。この辺りは今、魔物が多い。あまり深入りしないほうがいい」

「あ、えっと……助けが必要かと思って」

「ははっ、それは気を遣わせたな」

 男は、からりと笑った。その笑顔に、リオは不思議な安心感を覚えた。初対面なのに、ずっと前から知っているような。

「俺はロイ。翼剣騎士団の者だ」

 ロイの胸元に、紋章が刻まれていた。剣と翼を組み合わせた意匠。

 リオは、はっとした。

 その形を、見たことがある。ガルドが川で拾ったとき、赤ん坊をくるんでいた布。端に残っていた、刺繍の跡。

 あれと、同じだ。

「どうした? 顔色が悪いぞ」

「い、いえ、何でも」

 リオは、慌てて首を振った。偶然だ、と自分に言い聞かせる。翼剣騎士団というのは、この時代では広く知られた騎士団なのだろう。その紋章が、どこかで使われていたとしても不思議ではない。

 それでも、胸のなかに、小さなざわめきが残った。

「俺たちは、リオとミナ、セレナです。魔王の城に向かっている途中で」

 名乗ると、ロイは目を丸くした。

「魔王の城に? 三人だけでか?」

「ええ。信じてもらえないかもしれませんが、僕たちには、魔王を倒す力があります」

 リオは、聖剣を抜いて見せた。青白い光が、谷の薄闇を払う。

 ロイの視線が、剣に吸い寄せられた。

「それは……」

「聖剣です。僕は、この剣に選ばれました」

「……なるほどな」

 ロイは、しばらく無言で剣を見つめていた。やがて、深く息を吐いて、腰の剣を叩いた。

「ちょうどいい。実は、俺も魔王の城へ向かうところだったんだ」

「えっ」

「騎士団はもう、ほとんど壊滅した。生き残っているのは、俺くらいのものだ。だが、あの魔王を放っておけば、世界が終わる。だから、せめて一太刀でも浴びせてやろうと思ってな」

 言葉の端に、わずかな翳りがあった。リオは、それ以上聞けなかった。

「……一緒に来ませんか」

 気がつくと、リオは、そう口にしていた。

「ロイさんの腕があれば、心強いです」

「いいのか? 見ず知らずの俺を」

「ロイさんは、悪い人じゃない気がします」

 我ながら、根拠のない言い分だった。だがロイは、一瞬、きょとんとして、それから、愉快そうに声を上げて笑った。

「面白い奴だな、お前。いいだろう。乗った」

 ロイは、右手を差し出した。リオは、その手を握った。

 大きくて、硬くて、あたたかい手だった。

 どこか、鍛冶場で槌を振るうガルドの手に、似ていた。


 その夜、四人は谷間で野営をした。

 焚き火のそばで、ミナが夕食のスープを煮ている。セレナは少し離れて、魔法で周囲に結界を張っていた。ロイは、火の傍らに腰を下ろして、小刀で何かを削っていた。

「何を作ってるんですか?」

 リオが覗き込むと、ロイは手を止めて、掌のものを見せた。

 小さな木彫りの鳥だった。翼を大きく広げた、鷹の形。まだ未完成で、翼の先がざらざらしている。

 リオは、息を止めた。

 首から下げた、自分の鳥と、そっくりだったのだ。

「……鷹、ですか」

「ああ。翼剣騎士団では、子が生まれると、父親が鷹を彫って贈る習わしでな」

 ロイは、愛おしそうに鳥を撫でた。

「息子が生まれたんだ。半年前に。これは、そいつへの贈り物だ」

「息子さんが……」

「ああ。この戦いが終わったら、渡してやろうと思ってる。まだ、名前もつけてないんだ」

「どうして?」

 ミナが、スープをよそいながら尋ねた。

「名前を、つけてないんですか?」

「ああ。それがな」

 ロイは、少し照れくさそうに頭をかいた。

「魔王の脅威が消えて、平和になったら、あの子の名前を決めようと思っててさ。血なまぐさい世のなかで名前を呼んでやるのが、なんだか、嫌だったんだ。この子には、明るい世界で、胸を張って名前を呼んでやりたい」

 ロイは、焚き火の炎を見つめた。

「だから、俺は絶対に魔王を倒す。倒して、家に帰って、あの子の名前を呼ぶ」

 リオは、何も言えなかった。胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 ふと、ロイの視線が、リオの首元に向いた。

「……お前、その首飾り」

「あ」

 リオは、慌てて襟元を押さえた。だが、隠すには遅かった。ロイは、じっと木彫りの鳥を見つめている。

「鷹、だな」

「は、はい。あの、偶然だと思うんですけど」

「珍しい彫りだ。どこの工房のものだ?」

「それが……わからないんです。僕、拾われ子で」

 リオは、できるだけ平静を装って答えた。

「川に流されてきたところを、育ての親に拾われて。そのとき、籠のなかに、これだけが残ってたんです。たぶん、本当の親の形見だと思います」

 焚き火が、ぱちりと爆ぜた。

 ロイは、しばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと、視線を木彫りの鳥から外した。

「……そうか」

 その声は、少しだけ、掠れていた。

「いい親だったんだろうな。お前に、そんなものを遺して」

「そう、思いたいです」

「きっと、そうさ」

 ロイは、また、小刀を動かし始めた。

 削り屑が、ひとつ、またひとつと、火のなかに落ちていく。

 その横顔を、リオは見つめていた。なぜか、目が離せなかった。

「ロイさんの息子さんは、きっと、幸せですね」

「どうしてだ?」

「だって、名前をつける日を、お父さんがこんなに楽しみにしてるんですから」

 ロイは、手を止めた。

 それから、ほんの少しだけ、目元を緩めた。

「……ありがとうな」

 夜風が、焚き火の炎を揺らした。

 そのとき、リオには、なぜ自分が涙ぐみそうになっているのか、わからなかった。


 魔王の居城へ向かう途中、ロイは、一度だけ寄り道を提案した。

「この先の谷に、俺の家がある。妻と息子がいるんだ。少し顔を見せたい。……もしかしたら、これが最後になるかもしれないからな」

 その言葉に、誰も異を唱えなかった。

 谷間の川のほとりに、小さな木造の家が建っていた。屋根の煙突から、細い煙が立ちのぼっている。畑には、野菜が青々と茂り、庭先には洗濯物が揺れていた。

 ロイが扉を叩くと、中から、女性の声がした。

「はあい。……ロイ!」

 扉が開き、栗色の髪をした女性が、飛び出してきた。腕に、赤ん坊を抱いている。

「おかえりなさい! 無事だったのね!」

「ただいま、エリス」

 ロイは、妻と赤ん坊を、まとめて抱きしめた。エリスの目から、涙がこぼれる。

 ミナは、そっと目を逸らした。リオも、なんとなく気恥ずかしくて、空を見上げた。

「あら、お客様?」

 ひとしきり再会を喜んだあと、エリスが、こちらに気づいた。

「ああ。旅の仲間だ。魔王の城まで、一緒に行くことになった」

「まあ、それは。さあ、どうぞ上がって。狭いところですけど」

 エリスは、柔らかく微笑んだ。その笑顔は、陽だまりのようにあたたかかった。

 家のなかは、質素だが、きれいに整えられていた。窓辺には野の花が飾られ、棚には木彫りの動物が並んでいる。ロイが、これまでに彫ったものなのだろう。

 ミナとエリスは、すぐに打ち解けた。薬草の話で盛り上がり、台所に立って、昼食の支度を始める。セレナは、窓際で防御の結界を家に重ね掛けしていた。

 リオは、居間の隅に、ぽつんと座っていた。

「抱いてみるか?」

 ロイが、赤ん坊を差し出した。

「えっ、でも、僕、赤ん坊なんて」

「大丈夫だ。首を、こう支えてやれ」

 おそるおそる受け取ると、赤ん坊は、驚くほど軽かった。そして、あたたかかった。

 小さな手が、ぎゅっと、リオの指を握った。

 リオは、息を止めた。

 赤ん坊が、じっと、リオの顔を見上げている。

 深い、澄んだ、夜明けの空のような瞳だった。

 どこかで、同じ目を見たことがある気がした。ずっと昔、水面に映った——

「ほう。珍しいな」

 ロイが、目を丸くした。

「この子、普段は人見知りで、俺の顔を見ても泣くことがあるんだが。お前には、すっかり懐いてる」

「そう、ですか」

「何か、通じるものがあるのかもな」

 リオは、赤ん坊を抱いたまま、動けなかった。腕のなかの小さな命が、あまりに愛おしくて、胸が痛んだ。

 どうして、こんなに愛おしいのだろう。

 赤ん坊が、ふにゃ、と笑った。

 その瞬間、リオの視界が、じわりと滲んだ。

「リオ? どうしたの?」

 ミナが、心配そうに覗き込んできた。

「ううん。何でもない。ただ……」

 リオは、赤ん坊の頬に、そっと指で触れた。

「この子の世界を、守りたいなって思って」

 ロイは、静かに頷いた。

「俺もだ。……頼むぞ、勇者殿」

 ロイが、リオの肩を叩いた。その手は、ガルドの手とよく似ていた。

 エリスが、台所から顔を出した。

「ご飯ができましたよ。皆さん、お腹いっぱい食べていってくださいね」

 その日の食卓は、にぎやかで、あたたかかった。

 リオは、思った。

 こんな時間が、ずっと続けばいいのに、と。

 ずっと、この家族と一緒にいられたらいいのに、と。

 なぜそんなことを思うのか、自分でもわからなかった。


 魔王の居城、黒き塔は、まだ氷に閉ざされてはいなかった。

 ただ、黒い岩肌が、天を突くようにそびえ立っている。塔の周囲には、瘴気がたちこめ、魔物の群れが、うごめいていた。

「数が多いな。だが、これが最盛期ではないはずだ」

 ロイが、剣を抜いた。

「突破するぞ。リオ、お前は魔力を温存しろ。俺とセレナが、道を開く」

「わかりました!」

 戦いは、熾烈を極めた。

 ロイの剣は、鷹が獲物を狩るように、鋭く、滑らかだった。魔物の群れのなかを、風のように駆け抜け、一匹ずつ確実に屠っていく。セレナの魔法が、背後から援護した。ミナが、傷ついた仲間を癒した。

 三年の旅で鍛えたリオの剣も、冴えわたっていた。聖剣の光が、闇を切り裂く。

 いつしか、四人の呼吸は、ぴたりと合っていた。

 まるで、何年も一緒に戦ってきた仲間のように。

 塔の最上階。

 玉座の間は、現代で見たものとよく似ていた。だが、まだ氷はなく、床には黒い石が敷き詰められているだけだ。

 玉座に座っていたのは、一体の魔物だった。

 人の形をしていた。しかし、体はまだ、完全には定まっていない。黒い霧が、輪郭のまわりでゆらゆらと揺れている。胸の中央には、拳大の黒い結晶が、脈打つように光っていた。

「……来たか、翼剣の騎士」

 魔王が、口を開いた。声は、まだ幼さを残している。

「それに、見慣れぬ者たちが三人。ほう、時の匂いがする」

 リオは、息を呑んだ。

「俺たちが、未来から来たことに気づいたのか」

「我は、永い時を生きたもの。時間の匂いくらい、わかる」

 魔王は、にやりと笑った。

「だが、それがどうした。我は、お前たちを葬るだけだ」

 戦いが始まった。

 この時代の魔王は、確かに、現代の魔王よりはるかに弱かった。それでも、四人がかりでようやく互角、という強さだった。

 黒い刃が降り注ぎ、闇の波が押し寄せる。セレナが魔法で受け止め、ミナが癒しの術を重ねる。ロイが前線に立ち、リオがその背中を護る。

「リオ、右だ!」

「はい!」

 声が重なる。剣が閃く。互いの背中を預けて戦うとき、リオは、不思議なほど、心強かった。

 この人となら、勝てる。

 そう、確信できた。

「胸の結晶だ!」

 ロイが叫んだ。

「あれが、魔王の核だ! あれを砕けば、倒せる!」

「わかりました! ロイさん、僕が隙を作ります!」

「頼んだ!」

 リオは、聖剣を高く掲げた。

「《聖光斬》!」

 青白い光が、刃から迸った。光の奔流が、魔王の体を貫く。魔王が、苦悶の声を上げて、のけぞった。

「今だっ!」

 ロイが、跳んだ。

 細身の剣が、一直線に、魔王の胸の結晶へ突き込まれる。

 ぴしり、と、乾いた音がした。

 結晶に、亀裂が走る。

 黒い光が、爆発的に広がった。

 塔全体が、揺れた。壁が崩れ、天井が落ちてくる。リオたちは、とっさに身を伏せた。

 爆風が収まったとき、玉座の間には、静寂が戻っていた。

 魔王の姿は、なかった。

 床に、黒い灰が、うず高く積もっているだけだ。

「……倒した、のか」

 リオは、よろよろと立ち上がった。

 ロイが、剣を杖にして、荒い息をついている。その顔には、深い疲労と、それ以上の安堵が浮かんでいた。

「ああ。やった。やったぞ」

「やったあ!」

 ミナが、リオに飛びついた。セレナも、へなへなと床に座り込んで、安堵の笑みを浮かべる。

「勝った……私たち、勝ったのね」

「ああ。これで、世界は救われた」

 リオは、拳を握りしめた。胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。

 だが、そのとき、セレナが、ふと眉をひそめた。

「……待って」

「どうした?」

「魔力の残滓が、ほんのわずかに、まだ漂ってる気がするの。気のせいかしら」

 セレナは、灰の山に杖をかざした。しかし、何も反応はない。

「……ううん、やっぱり気のせいね。疲れてるのかも」

「戦いのあとは、神経が過敏になるからな」

 ロイが、苦笑した。

「大丈夫だ。確かに、核は砕けた。俺が、この手で感じた」

 四人は、顔を見合わせて、笑った。

 誰も、気づかなかった。

 灰のなかに、米粒ほどの黒い欠片が、ひとつだけ、残っていたことに。

 それが、ほんの一瞬、どくん、と脈打ったことに。

 そして、塔の崩落の混乱に紛れて、その欠片が、すうっと、ロイの外套の裾に、潜り込んだことに。


 塔を後にした四人は、三日かけて、祠まで戻ってきた。

 ロイは、リオたちを、最後まで見送ると言って聞かなかった。

「命を預け合った仲間だ。別れの挨拶くらい、させてくれ」

 祠の前で、ロイは、改めて三人の顔を見回した。

「お前たちは、未来から来たんだな。詳しい事情は聞かない。ただ、これだけは言わせてくれ」

 ロイは、深く頭を下げた。

「ありがとう。お前たちのおかげで、俺は、家族のもとに帰れる。あの子の名前を、呼んでやれる」

「そんな。僕たちこそ、ロイさんがいなければ」

 リオは、慌てて首を振った。

「ロイさんと戦えて、よかったです。……本当に」

「ああ。俺もだ」

 ロイは、リオの肩に、手を置いた。

「お前を見ていると、不思議と、他人のような気がしなくてな」

 リオの喉が、ぎゅっと詰まった。

「僕も、です」

 ロイは、少し驚いたように目を見開いた。それから、にっと笑って、リオの頭を、くしゃりと撫でた。

「元気でな、リオ。お前なら、きっと立派な男になる」

 リオは、何かを言おうとして、言えなかった。

 代わりに、深く、深く、頭を下げた。

 ミナが、ロイの手を握った。

「エリスさんと、赤ちゃんに、よろしくお伝えください」

「ああ。必ず」

 セレナが、時の門を開いた。

 光の渦が、祠の台座の上に広がる。

 三人は、一度だけ、振り返った。

 ロイは、祠の入り口に立って、静かに手を振っていた。逆光のなかで、その姿は、まるで、一羽の鷹が翼を広げているようだった。

 リオは、手を振り返した。

 それから、光のなかへ、足を踏み入れた。

 これが、父との別れだったとは、知らないまま。


 三人を見送ったあと、ロイは、祠の前にしばらく立ち尽くしていた。

 不思議な子供たちだった、と思う。

 あの勇者の少年。リオ。

 木彫りの鷹を首から下げた、拾われ子。

 どうして、あの子のことが、頭から離れないのだろう。

 目元が、どこか、息子に似ていた。いや、気のせいだ。ただ、息子のことを考えすぎているから、そう見えるだけだろう。

 ロイは、首を振って、帰路についた。

 夕暮れの道を、足早に歩く。早く帰りたかった。エリスの顔を見て、息子を抱いて、今日あったことを話したかった。魔王を倒したこと。不思議な仲間たちと出会ったこと。そして、息子の名前を、決めたこと。

 名前は、もう、決めていた。

 帰ったら、エリスに告げよう。そして、彫りかけの鷹を仕上げて、あの子の枕元に置こう。

 谷の入り口に着いたのは、日が暮れる頃だった。

 そして、ロイは、異変に気づいた。

 煙突から、煙が出ていない。

 窓に、灯りがない。

「……エリス?」

 駆け出した。

 家の扉は、開いていた。

 土間に、見慣れた足が、投げ出されていた。

 栗色の髪が、血の海のなかに広がっていた。

「エリス!」

 ロイは、妻に駆け寄った。抱き起こした体は、まだ、あたたかかった。だが、胸には、黒い穴が空いていた。

「ロ……イ……」

 エリスの唇が、かすかに動いた。

「ごめん、なさい……あの子を……」

「喋るな! すぐに手当てを——」

「にげて……あれは……」

 エリスの手が、ロイの手を握った。それから、ゆっくりと、力が抜けていった。

「エリス! エリス!」

 ロイの絶叫が、谷に響いた。

 背後で、嗤い声がした。

「——ようやく、見つけたぞ」

 ロイは、ゆっくりと、振り返った。

 部屋の隅に、黒い霧が、渦を巻いていた。霧の中心には、米粒ほどの黒い欠片が、不気味な光を放っている。

「貴様……!」

「我が核は、砕けてなどおらぬ。お前の外套に潜んで、ここまで来たのだ」

 核の声は、幼さのかけらもなく、底冷えがするほど低かった。

「感謝するぞ、翼剣の騎士。お前の記憶から、すべてを知った。未来から来た勇者のこと。時の祠のこと。我を倒すために、時を越えてくるという愚かな連中のことを」

「やめろ!」

「そして、お前の子のことも」

 ロイの背筋が、凍りついた。

 寝室から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

「やめろ……あの子には、手を出すな!」

「ならば、取引だ」

 核は、愉快そうに霧を揺らした。

「お前の体を、我に寄越せ。我が核を受け入れ、器となれ。そうすれば、あの子の命だけは、見逃してやろう」

「な……」

「断れば、あの子から、先に壊す」

 ロイは、歯を食いしばった。

 選択肢など、なかった。

 妻は、もう、いない。

 残されたのは、あの子だけだ。

「……本当に、約束を守るんだな」

「ああ。我は、嘘は言わぬ」

 嘘だ、とロイは直感した。この化け物が、約束を守るはずがない。たとえ自分が器となったあとでも、いずれ、あの子に手を出すだろう。

 だが、今は、時間を稼ぐしかない。

 ロイは、ゆっくりと、核に向かって歩き出した。

 そのまえに、一つだけ、やらなければならないことがあった。

「……ひとつだけ、頼みがある」

「何だ」

「息子に、最後の別れを言わせてくれ。それだけだ」

 核は、少しのあいだ沈黙した。

「……よかろう。一分だけ、待ってやる」

 ロイは、寝室に駆け込んだ。

 揺りかごのなかで、赤ん坊が、真っ赤な顔で泣いていた。ロイは、その小さな体を抱き上げた。

「大丈夫だ。大丈夫だぞ」

 あたたかな体を抱きしめる。ミルクと、日向の匂いがした。

 一分では、足りなかった。一生かけても、足りなかっただろう。

 ロイは、枕元の棚から、彫りかけの木彫りの鷹を取り上げた。小刀を握り、震える手で、最後の仕上げをする。翼の先を、鋭く、美しく。

 できあがった鷹を、赤ん坊の手に握らせた。

「お前の名前は、決めてたんだ。……でも、今は、呼べない」

 ロイの目から、涙がこぼれた。

「いつか、お前が大きくなって、世界が平和になったら。……そのときに、誰かが、お前の名前を呼んでくれる」

 ロイは、部屋の隅から、藁の籠を引っ張り出した。

 赤ん坊を、そっと、そのなかに寝かせる。毛布で包み、焦げた外套の切れ端を上からかけた。そこには、翼剣騎士団の紋章が、刺繍されている。

「頼む。生きてくれ」

 そして、ロイは、裏口から、籠を抱えて走った。

 川は、家のすぐ裏を流れている。雪解けで、水かさが増していた。

 背後から、核の怒号が追ってくる。

「待て! 約束が違う!」

「お前のような化け物との約束なんか、最初から守る気はなかったさ!」

 ロイは、籠を、川面にそっと置いた。

 籠は、ゆっくりと、流れに乗って、動き出した。

 ロイは、右手を、籠に向けてかざした。残された魔力のすべてを、その小さな籠に注ぎ込む。水が入らぬように。流れに呑まれぬように。どうか、どうか、この子が、遠くまで辿り着けるように。

「生きろ。……生きて、幸せになれ」

 籠は、霧の向こうへ、ゆっくりと消えていった。

 その瞬間、背後から、黒い霧が、ロイの体に襲いかかった。

「ぐ、あああああっ!」

 核が、ロイの胸に、潜り込んでくる。

 全身を、焼けつくような痛みが貫いた。意識が、黒く塗りつぶされていく。

 最後に、ロイは、見えなくなった籠の方向へ、手を伸ばした。

「——リ」

 名前を、呼びかけて。

 その声は、途中で、闇に呑まれた。

 翌朝。

 谷の家は、跡形もなく、焼け落ちていた。

 その中心に、黒い鎧に身を包んだ、一人の男が、立っていた。

 顔は、兜に覆われて見えない。ただ、その胸には、黒い結晶が、ぎらりと光っていた。

「……時の祠、か」

 男の唇から、二つの声が、重なって漏れた。

「破壊しておかねば。未来から、愚か者どもが、また来る」

 男は、北へ向かって、歩き出した。

 その背後で、焼け跡の灰のなかから、一輪の野の花が、ひっそりと、頭をもたげていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。