第二章 翼剣の戦士
最初に感じたのは、土の匂いだった。
湿った落ち葉と、苔と、雨上がりの木の匂い。リオはゆっくりと目を開けた。梢の隙間から、やわらかな陽光が降りている。
「……ここが、過去?」
隣で、ミナが身を起こした。髪に枯れ葉をつけたまま、きょろきょろと周囲を見回している。少し離れたところでは、セレナが杖を支えに立ち上がっていた。
「三人とも無事ね。……見て、空」
見上げると、空は青かった。
リオは、思わず息を呑んだ。現代の世界では、魔王の軍勢が広がるにつれて、空は黒雲に覆われつつあった。だがここには、雲ひとつない、抜けるような青空がある。
「世界が、こんなに明るかったなんて」
「まだ、魔王が目覚めて間もない頃だからでしょう」
セレナが、懐から古びた地図を取り出した。神官から預かったものだ。
「祠の位置は、現代と変わらないはず。つまり、私たちは今、北の山脈の南麓にいる。魔王の居城は、ここから北へ三日ほど」
「三日……」
リオは、腰の聖剣に手を置いた。刀身が、ほのかに温かい。まるで、この時代の空気に反応しているかのようだった。
「急ごう。魔王が力を蓄える前に、討たなきゃ」
三人は荷をまとめ、森のなかを北へ向かった。
時の祠は、背後で静かに光を失っていく。リオは、一度だけ振り返った。苔むした小さな建物は、何事もなかったかのように、森の木々に溶け込んでいた。
帰り道は、必ずここにある。そう、信じていた。
異変に気づいたのは、森を抜けて、小さな谷に差しかかったときだった。
獣のうなり声。金属がぶつかり合う、甲高い音。
「戦ってる?」
ミナが、小声で言った。リオは頷いて、岩陰からそっと谷底を覗き込んだ。
一人の男が、魔物の群れに囲まれていた。
狼に似た黒い獣が、十匹あまり。どれも体が牛ほどもあり、口から瘴気を吐いている。魔王の眷属だ。リオたちが現代で何度も戦ってきた相手より、むしろ手強そうに見えた。
その真ん中で、男は剣を振るっていた。
年は、三十前後だろうか。短く刈った黒髪に、日に焼けた浅黒い肌。使い込まれた革の鎧を着て、細身の剣を片手に持っている。動きに、まったく無駄がなかった。獣が飛びかかるたびに、紙一重で身をかわし、一太刀で急所を断つ。
リオは、思わず見入っていた。
「すごい……」
「ええ。私たちのダリオより、ずっと上かも」
セレナの声にも、素直な感嘆があった。
最後の獣が倒れたとき、男は、ふうと息をついて剣を払った。そして、顔を上げて、岩陰のほうへ声を投げた。
「そこの三人。覗き見は趣味が悪いぞ」
リオたちは顔を見合わせた。気づかれていたのだ。
観念して岩陰から出ると、男は剣を鞘に収めながら、ふっと表情を和らげた。
「その装備、旅の者か。この辺りは今、魔物が多い。あまり深入りしないほうがいい」
「あ、えっと……助けが必要かと思って」
「ははっ、それは気を遣わせたな」
男は、からりと笑った。その笑顔に、リオは不思議な安心感を覚えた。初対面なのに、ずっと前から知っているような。
「俺はロイ。翼剣騎士団の者だ」
ロイの胸元に、紋章が刻まれていた。剣と翼を組み合わせた意匠。
リオは、はっとした。
その形を、見たことがある。ガルドが川で拾ったとき、赤ん坊をくるんでいた布。端に残っていた、刺繍の跡。
あれと、同じだ。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「い、いえ、何でも」
リオは、慌てて首を振った。偶然だ、と自分に言い聞かせる。翼剣騎士団というのは、この時代では広く知られた騎士団なのだろう。その紋章が、どこかで使われていたとしても不思議ではない。
それでも、胸のなかに、小さなざわめきが残った。
「俺たちは、リオとミナ、セレナです。魔王の城に向かっている途中で」
名乗ると、ロイは目を丸くした。
「魔王の城に? 三人だけでか?」
「ええ。信じてもらえないかもしれませんが、僕たちには、魔王を倒す力があります」
リオは、聖剣を抜いて見せた。青白い光が、谷の薄闇を払う。
ロイの視線が、剣に吸い寄せられた。
「それは……」
「聖剣です。僕は、この剣に選ばれました」
「……なるほどな」
ロイは、しばらく無言で剣を見つめていた。やがて、深く息を吐いて、腰の剣を叩いた。
「ちょうどいい。実は、俺も魔王の城へ向かうところだったんだ」
「えっ」
「騎士団はもう、ほとんど壊滅した。生き残っているのは、俺くらいのものだ。だが、あの魔王を放っておけば、世界が終わる。だから、せめて一太刀でも浴びせてやろうと思ってな」
言葉の端に、わずかな翳りがあった。リオは、それ以上聞けなかった。
「……一緒に来ませんか」
気がつくと、リオは、そう口にしていた。
「ロイさんの腕があれば、心強いです」
「いいのか? 見ず知らずの俺を」
「ロイさんは、悪い人じゃない気がします」
我ながら、根拠のない言い分だった。だがロイは、一瞬、きょとんとして、それから、愉快そうに声を上げて笑った。
「面白い奴だな、お前。いいだろう。乗った」
ロイは、右手を差し出した。リオは、その手を握った。
大きくて、硬くて、あたたかい手だった。
どこか、鍛冶場で槌を振るうガルドの手に、似ていた。
その夜、四人は谷間で野営をした。
焚き火のそばで、ミナが夕食のスープを煮ている。セレナは少し離れて、魔法で周囲に結界を張っていた。ロイは、火の傍らに腰を下ろして、小刀で何かを削っていた。
「何を作ってるんですか?」
リオが覗き込むと、ロイは手を止めて、掌のものを見せた。
小さな木彫りの鳥だった。翼を大きく広げた、鷹の形。まだ未完成で、翼の先がざらざらしている。
リオは、息を止めた。
首から下げた、自分の鳥と、そっくりだったのだ。
「……鷹、ですか」
「ああ。翼剣騎士団では、子が生まれると、父親が鷹を彫って贈る習わしでな」
ロイは、愛おしそうに鳥を撫でた。
「息子が生まれたんだ。半年前に。これは、そいつへの贈り物だ」
「息子さんが……」
「ああ。この戦いが終わったら、渡してやろうと思ってる。まだ、名前もつけてないんだ」
「どうして?」
ミナが、スープをよそいながら尋ねた。
「名前を、つけてないんですか?」
「ああ。それがな」
ロイは、少し照れくさそうに頭をかいた。
「魔王の脅威が消えて、平和になったら、あの子の名前を決めようと思っててさ。血なまぐさい世のなかで名前を呼んでやるのが、なんだか、嫌だったんだ。この子には、明るい世界で、胸を張って名前を呼んでやりたい」
ロイは、焚き火の炎を見つめた。
「だから、俺は絶対に魔王を倒す。倒して、家に帰って、あの子の名前を呼ぶ」
リオは、何も言えなかった。胸の奥が、じんわりと熱くなる。
ふと、ロイの視線が、リオの首元に向いた。
「……お前、その首飾り」
「あ」
リオは、慌てて襟元を押さえた。だが、隠すには遅かった。ロイは、じっと木彫りの鳥を見つめている。
「鷹、だな」
「は、はい。あの、偶然だと思うんですけど」
「珍しい彫りだ。どこの工房のものだ?」
「それが……わからないんです。僕、拾われ子で」
リオは、できるだけ平静を装って答えた。
「川に流されてきたところを、育ての親に拾われて。そのとき、籠のなかに、これだけが残ってたんです。たぶん、本当の親の形見だと思います」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
ロイは、しばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと、視線を木彫りの鳥から外した。
「……そうか」
その声は、少しだけ、掠れていた。
「いい親だったんだろうな。お前に、そんなものを遺して」
「そう、思いたいです」
「きっと、そうさ」
ロイは、また、小刀を動かし始めた。
削り屑が、ひとつ、またひとつと、火のなかに落ちていく。
その横顔を、リオは見つめていた。なぜか、目が離せなかった。
「ロイさんの息子さんは、きっと、幸せですね」
「どうしてだ?」
「だって、名前をつける日を、お父さんがこんなに楽しみにしてるんですから」
ロイは、手を止めた。
それから、ほんの少しだけ、目元を緩めた。
「……ありがとうな」
夜風が、焚き火の炎を揺らした。
そのとき、リオには、なぜ自分が涙ぐみそうになっているのか、わからなかった。
魔王の居城へ向かう途中、ロイは、一度だけ寄り道を提案した。
「この先の谷に、俺の家がある。妻と息子がいるんだ。少し顔を見せたい。……もしかしたら、これが最後になるかもしれないからな」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
谷間の川のほとりに、小さな木造の家が建っていた。屋根の煙突から、細い煙が立ちのぼっている。畑には、野菜が青々と茂り、庭先には洗濯物が揺れていた。
ロイが扉を叩くと、中から、女性の声がした。
「はあい。……ロイ!」
扉が開き、栗色の髪をした女性が、飛び出してきた。腕に、赤ん坊を抱いている。
「おかえりなさい! 無事だったのね!」
「ただいま、エリス」
ロイは、妻と赤ん坊を、まとめて抱きしめた。エリスの目から、涙がこぼれる。
ミナは、そっと目を逸らした。リオも、なんとなく気恥ずかしくて、空を見上げた。
「あら、お客様?」
ひとしきり再会を喜んだあと、エリスが、こちらに気づいた。
「ああ。旅の仲間だ。魔王の城まで、一緒に行くことになった」
「まあ、それは。さあ、どうぞ上がって。狭いところですけど」
エリスは、柔らかく微笑んだ。その笑顔は、陽だまりのようにあたたかかった。
家のなかは、質素だが、きれいに整えられていた。窓辺には野の花が飾られ、棚には木彫りの動物が並んでいる。ロイが、これまでに彫ったものなのだろう。
ミナとエリスは、すぐに打ち解けた。薬草の話で盛り上がり、台所に立って、昼食の支度を始める。セレナは、窓際で防御の結界を家に重ね掛けしていた。
リオは、居間の隅に、ぽつんと座っていた。
「抱いてみるか?」
ロイが、赤ん坊を差し出した。
「えっ、でも、僕、赤ん坊なんて」
「大丈夫だ。首を、こう支えてやれ」
おそるおそる受け取ると、赤ん坊は、驚くほど軽かった。そして、あたたかかった。
小さな手が、ぎゅっと、リオの指を握った。
リオは、息を止めた。
赤ん坊が、じっと、リオの顔を見上げている。
深い、澄んだ、夜明けの空のような瞳だった。
どこかで、同じ目を見たことがある気がした。ずっと昔、水面に映った——
「ほう。珍しいな」
ロイが、目を丸くした。
「この子、普段は人見知りで、俺の顔を見ても泣くことがあるんだが。お前には、すっかり懐いてる」
「そう、ですか」
「何か、通じるものがあるのかもな」
リオは、赤ん坊を抱いたまま、動けなかった。腕のなかの小さな命が、あまりに愛おしくて、胸が痛んだ。
どうして、こんなに愛おしいのだろう。
赤ん坊が、ふにゃ、と笑った。
その瞬間、リオの視界が、じわりと滲んだ。
「リオ? どうしたの?」
ミナが、心配そうに覗き込んできた。
「ううん。何でもない。ただ……」
リオは、赤ん坊の頬に、そっと指で触れた。
「この子の世界を、守りたいなって思って」
ロイは、静かに頷いた。
「俺もだ。……頼むぞ、勇者殿」
ロイが、リオの肩を叩いた。その手は、ガルドの手とよく似ていた。
エリスが、台所から顔を出した。
「ご飯ができましたよ。皆さん、お腹いっぱい食べていってくださいね」
その日の食卓は、にぎやかで、あたたかかった。
リオは、思った。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに、と。
ずっと、この家族と一緒にいられたらいいのに、と。
なぜそんなことを思うのか、自分でもわからなかった。
魔王の居城、黒き塔は、まだ氷に閉ざされてはいなかった。
ただ、黒い岩肌が、天を突くようにそびえ立っている。塔の周囲には、瘴気がたちこめ、魔物の群れが、うごめいていた。
「数が多いな。だが、これが最盛期ではないはずだ」
ロイが、剣を抜いた。
「突破するぞ。リオ、お前は魔力を温存しろ。俺とセレナが、道を開く」
「わかりました!」
戦いは、熾烈を極めた。
ロイの剣は、鷹が獲物を狩るように、鋭く、滑らかだった。魔物の群れのなかを、風のように駆け抜け、一匹ずつ確実に屠っていく。セレナの魔法が、背後から援護した。ミナが、傷ついた仲間を癒した。
三年の旅で鍛えたリオの剣も、冴えわたっていた。聖剣の光が、闇を切り裂く。
いつしか、四人の呼吸は、ぴたりと合っていた。
まるで、何年も一緒に戦ってきた仲間のように。
塔の最上階。
玉座の間は、現代で見たものとよく似ていた。だが、まだ氷はなく、床には黒い石が敷き詰められているだけだ。
玉座に座っていたのは、一体の魔物だった。
人の形をしていた。しかし、体はまだ、完全には定まっていない。黒い霧が、輪郭のまわりでゆらゆらと揺れている。胸の中央には、拳大の黒い結晶が、脈打つように光っていた。
「……来たか、翼剣の騎士」
魔王が、口を開いた。声は、まだ幼さを残している。
「それに、見慣れぬ者たちが三人。ほう、時の匂いがする」
リオは、息を呑んだ。
「俺たちが、未来から来たことに気づいたのか」
「我は、永い時を生きたもの。時間の匂いくらい、わかる」
魔王は、にやりと笑った。
「だが、それがどうした。我は、お前たちを葬るだけだ」
戦いが始まった。
この時代の魔王は、確かに、現代の魔王よりはるかに弱かった。それでも、四人がかりでようやく互角、という強さだった。
黒い刃が降り注ぎ、闇の波が押し寄せる。セレナが魔法で受け止め、ミナが癒しの術を重ねる。ロイが前線に立ち、リオがその背中を護る。
「リオ、右だ!」
「はい!」
声が重なる。剣が閃く。互いの背中を預けて戦うとき、リオは、不思議なほど、心強かった。
この人となら、勝てる。
そう、確信できた。
「胸の結晶だ!」
ロイが叫んだ。
「あれが、魔王の核だ! あれを砕けば、倒せる!」
「わかりました! ロイさん、僕が隙を作ります!」
「頼んだ!」
リオは、聖剣を高く掲げた。
「《聖光斬》!」
青白い光が、刃から迸った。光の奔流が、魔王の体を貫く。魔王が、苦悶の声を上げて、のけぞった。
「今だっ!」
ロイが、跳んだ。
細身の剣が、一直線に、魔王の胸の結晶へ突き込まれる。
ぴしり、と、乾いた音がした。
結晶に、亀裂が走る。
黒い光が、爆発的に広がった。
塔全体が、揺れた。壁が崩れ、天井が落ちてくる。リオたちは、とっさに身を伏せた。
爆風が収まったとき、玉座の間には、静寂が戻っていた。
魔王の姿は、なかった。
床に、黒い灰が、うず高く積もっているだけだ。
「……倒した、のか」
リオは、よろよろと立ち上がった。
ロイが、剣を杖にして、荒い息をついている。その顔には、深い疲労と、それ以上の安堵が浮かんでいた。
「ああ。やった。やったぞ」
「やったあ!」
ミナが、リオに飛びついた。セレナも、へなへなと床に座り込んで、安堵の笑みを浮かべる。
「勝った……私たち、勝ったのね」
「ああ。これで、世界は救われた」
リオは、拳を握りしめた。胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
だが、そのとき、セレナが、ふと眉をひそめた。
「……待って」
「どうした?」
「魔力の残滓が、ほんのわずかに、まだ漂ってる気がするの。気のせいかしら」
セレナは、灰の山に杖をかざした。しかし、何も反応はない。
「……ううん、やっぱり気のせいね。疲れてるのかも」
「戦いのあとは、神経が過敏になるからな」
ロイが、苦笑した。
「大丈夫だ。確かに、核は砕けた。俺が、この手で感じた」
四人は、顔を見合わせて、笑った。
誰も、気づかなかった。
灰のなかに、米粒ほどの黒い欠片が、ひとつだけ、残っていたことに。
それが、ほんの一瞬、どくん、と脈打ったことに。
そして、塔の崩落の混乱に紛れて、その欠片が、すうっと、ロイの外套の裾に、潜り込んだことに。
塔を後にした四人は、三日かけて、祠まで戻ってきた。
ロイは、リオたちを、最後まで見送ると言って聞かなかった。
「命を預け合った仲間だ。別れの挨拶くらい、させてくれ」
祠の前で、ロイは、改めて三人の顔を見回した。
「お前たちは、未来から来たんだな。詳しい事情は聞かない。ただ、これだけは言わせてくれ」
ロイは、深く頭を下げた。
「ありがとう。お前たちのおかげで、俺は、家族のもとに帰れる。あの子の名前を、呼んでやれる」
「そんな。僕たちこそ、ロイさんがいなければ」
リオは、慌てて首を振った。
「ロイさんと戦えて、よかったです。……本当に」
「ああ。俺もだ」
ロイは、リオの肩に、手を置いた。
「お前を見ていると、不思議と、他人のような気がしなくてな」
リオの喉が、ぎゅっと詰まった。
「僕も、です」
ロイは、少し驚いたように目を見開いた。それから、にっと笑って、リオの頭を、くしゃりと撫でた。
「元気でな、リオ。お前なら、きっと立派な男になる」
リオは、何かを言おうとして、言えなかった。
代わりに、深く、深く、頭を下げた。
ミナが、ロイの手を握った。
「エリスさんと、赤ちゃんに、よろしくお伝えください」
「ああ。必ず」
セレナが、時の門を開いた。
光の渦が、祠の台座の上に広がる。
三人は、一度だけ、振り返った。
ロイは、祠の入り口に立って、静かに手を振っていた。逆光のなかで、その姿は、まるで、一羽の鷹が翼を広げているようだった。
リオは、手を振り返した。
それから、光のなかへ、足を踏み入れた。
これが、父との別れだったとは、知らないまま。
三人を見送ったあと、ロイは、祠の前にしばらく立ち尽くしていた。
不思議な子供たちだった、と思う。
あの勇者の少年。リオ。
木彫りの鷹を首から下げた、拾われ子。
どうして、あの子のことが、頭から離れないのだろう。
目元が、どこか、息子に似ていた。いや、気のせいだ。ただ、息子のことを考えすぎているから、そう見えるだけだろう。
ロイは、首を振って、帰路についた。
夕暮れの道を、足早に歩く。早く帰りたかった。エリスの顔を見て、息子を抱いて、今日あったことを話したかった。魔王を倒したこと。不思議な仲間たちと出会ったこと。そして、息子の名前を、決めたこと。
名前は、もう、決めていた。
帰ったら、エリスに告げよう。そして、彫りかけの鷹を仕上げて、あの子の枕元に置こう。
谷の入り口に着いたのは、日が暮れる頃だった。
そして、ロイは、異変に気づいた。
煙突から、煙が出ていない。
窓に、灯りがない。
「……エリス?」
駆け出した。
家の扉は、開いていた。
土間に、見慣れた足が、投げ出されていた。
栗色の髪が、血の海のなかに広がっていた。
「エリス!」
ロイは、妻に駆け寄った。抱き起こした体は、まだ、あたたかかった。だが、胸には、黒い穴が空いていた。
「ロ……イ……」
エリスの唇が、かすかに動いた。
「ごめん、なさい……あの子を……」
「喋るな! すぐに手当てを——」
「にげて……あれは……」
エリスの手が、ロイの手を握った。それから、ゆっくりと、力が抜けていった。
「エリス! エリス!」
ロイの絶叫が、谷に響いた。
背後で、嗤い声がした。
「——ようやく、見つけたぞ」
ロイは、ゆっくりと、振り返った。
部屋の隅に、黒い霧が、渦を巻いていた。霧の中心には、米粒ほどの黒い欠片が、不気味な光を放っている。
「貴様……!」
「我が核は、砕けてなどおらぬ。お前の外套に潜んで、ここまで来たのだ」
核の声は、幼さのかけらもなく、底冷えがするほど低かった。
「感謝するぞ、翼剣の騎士。お前の記憶から、すべてを知った。未来から来た勇者のこと。時の祠のこと。我を倒すために、時を越えてくるという愚かな連中のことを」
「やめろ!」
「そして、お前の子のことも」
ロイの背筋が、凍りついた。
寝室から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「やめろ……あの子には、手を出すな!」
「ならば、取引だ」
核は、愉快そうに霧を揺らした。
「お前の体を、我に寄越せ。我が核を受け入れ、器となれ。そうすれば、あの子の命だけは、見逃してやろう」
「な……」
「断れば、あの子から、先に壊す」
ロイは、歯を食いしばった。
選択肢など、なかった。
妻は、もう、いない。
残されたのは、あの子だけだ。
「……本当に、約束を守るんだな」
「ああ。我は、嘘は言わぬ」
嘘だ、とロイは直感した。この化け物が、約束を守るはずがない。たとえ自分が器となったあとでも、いずれ、あの子に手を出すだろう。
だが、今は、時間を稼ぐしかない。
ロイは、ゆっくりと、核に向かって歩き出した。
そのまえに、一つだけ、やらなければならないことがあった。
「……ひとつだけ、頼みがある」
「何だ」
「息子に、最後の別れを言わせてくれ。それだけだ」
核は、少しのあいだ沈黙した。
「……よかろう。一分だけ、待ってやる」
ロイは、寝室に駆け込んだ。
揺りかごのなかで、赤ん坊が、真っ赤な顔で泣いていた。ロイは、その小さな体を抱き上げた。
「大丈夫だ。大丈夫だぞ」
あたたかな体を抱きしめる。ミルクと、日向の匂いがした。
一分では、足りなかった。一生かけても、足りなかっただろう。
ロイは、枕元の棚から、彫りかけの木彫りの鷹を取り上げた。小刀を握り、震える手で、最後の仕上げをする。翼の先を、鋭く、美しく。
できあがった鷹を、赤ん坊の手に握らせた。
「お前の名前は、決めてたんだ。……でも、今は、呼べない」
ロイの目から、涙がこぼれた。
「いつか、お前が大きくなって、世界が平和になったら。……そのときに、誰かが、お前の名前を呼んでくれる」
ロイは、部屋の隅から、藁の籠を引っ張り出した。
赤ん坊を、そっと、そのなかに寝かせる。毛布で包み、焦げた外套の切れ端を上からかけた。そこには、翼剣騎士団の紋章が、刺繍されている。
「頼む。生きてくれ」
そして、ロイは、裏口から、籠を抱えて走った。
川は、家のすぐ裏を流れている。雪解けで、水かさが増していた。
背後から、核の怒号が追ってくる。
「待て! 約束が違う!」
「お前のような化け物との約束なんか、最初から守る気はなかったさ!」
ロイは、籠を、川面にそっと置いた。
籠は、ゆっくりと、流れに乗って、動き出した。
ロイは、右手を、籠に向けてかざした。残された魔力のすべてを、その小さな籠に注ぎ込む。水が入らぬように。流れに呑まれぬように。どうか、どうか、この子が、遠くまで辿り着けるように。
「生きろ。……生きて、幸せになれ」
籠は、霧の向こうへ、ゆっくりと消えていった。
その瞬間、背後から、黒い霧が、ロイの体に襲いかかった。
「ぐ、あああああっ!」
核が、ロイの胸に、潜り込んでくる。
全身を、焼けつくような痛みが貫いた。意識が、黒く塗りつぶされていく。
最後に、ロイは、見えなくなった籠の方向へ、手を伸ばした。
「——リ」
名前を、呼びかけて。
その声は、途中で、闇に呑まれた。
翌朝。
谷の家は、跡形もなく、焼け落ちていた。
その中心に、黒い鎧に身を包んだ、一人の男が、立っていた。
顔は、兜に覆われて見えない。ただ、その胸には、黒い結晶が、ぎらりと光っていた。
「……時の祠、か」
男の唇から、二つの声が、重なって漏れた。
「破壊しておかねば。未来から、愚か者どもが、また来る」
男は、北へ向かって、歩き出した。
その背後で、焼け跡の灰のなかから、一輪の野の花が、ひっそりと、頭をもたげていた。




