第一章 川から流れてきた子
その朝、エルド村の水汲み場には、いつもより濃い霧が立ちこめていた。
鍛冶屋の主人ガルドは、桶を肩にかついで、ぬかるんだ石段を降りていった。川は雪解け水で増水していて、茶色く濁った流れが、ごうごうと音を立てている。
「ひどい水だな。今日は井戸のほうがましか」
そうぼやいて引き返そうとしたとき、耳が妙な音を拾った。
水音ではない。細くて、頼りなくて、それでいて必死な声。
猫か、と思った。だが違う。ガルドは桶を投げ出して、岸辺の葦のなかへ駆け込んだ。
流れの淀みに、ひとつの籠が引っかかっていた。藁で編まれた丸い籠だ。上には焦げたような黒い布がかぶせてある。布を持ち上げた途端、ガルドは息を呑んだ。
赤ん坊がいた。
生まれて半年にもならないだろう。小さな顔を真っ赤にして、力いっぱい泣いている。全身がずぶ濡れなのに、不思議なことに籠のなかだけは水が入っていなかった。まるで誰かが、最後の力でこの子を守ったかのように。
「おい……おいおい、冗談だろう」
ガルドは震える手で赤ん坊を抱き上げた。冷え切った体が、腕のなかで必死にもがく。生きている。ガルドは自分の上着を脱いで、小さな体をくるんだ。
籠の底に、何か硬いものが残っていた。拾い上げると、木彫りの小さな鳥だった。翼を広げた、鷹のような形。素朴な、けれど丁寧な仕事だ。親が子のために彫ったものに違いない。
それから、赤ん坊をくるんでいた布。黒く焦げているように見えたのは、血と煤だった。端のほうに、かろうじて刺繍の跡が残っている。剣と翼を組み合わせた紋章。ガルドには見覚えがなかった。
「……上流で、何かあったな」
川の上流には、いくつもの村がある。だが、戦があったという話は聞いていない。ガルドは赤ん坊を抱いたまま、しばらく霧の向こうを睨んでいた。
やがて腕のなかの泣き声が、しゃくりあげるような小さな息に変わった。赤ん坊は濡れた睫毛のあいだから、ガルドを見上げていた。
深い、澄んだ、夜明けの空みたいな目だった。
「……そうか。お前、生きたいんだな」
ガルドは、ごつい指で赤ん坊の頬を撫でた。
「よし。わしが拾った。わしが育てる。文句のある奴は、この腕で相手になってやる」
子供はいない。妻には五年前に先立たれた。静かすぎる家に、ちょうど足りないものがあったような気がした。
名前は、川から来たから、リオにした。
リオが三歳になった年、隣の家に、同じ年頃の女の子が引っ越してきた。
名前はミナ。村の薬草師であるおばあさんの孫だった。両親は行商の途中で山賊に襲われ、帰らなかったのだという。
ミナは最初、誰とも口をきかなかった。いつも祖母の背中に隠れて、大きな目だけを出して外を見ている。
そんなある日、リオが鍛冶場の裏で、ひとりで泣いているミナを見つけた。
リオは何も言わなかった。ただ、ミナの隣にちょこんと座った。しばらくして、自分の宝物をポケットから出して、ミナの手のひらに乗せた。
あの木彫りの鳥だった。
「あげる」
「……リオの、だいじなものでしょ」
「うん。だからあげる」
ミナはきょとんとして、それから、ほんの少しだけ笑った。それが、この村に来て初めて見せた笑顔だった。
「やっぱり、いらない」
ミナは鳥をリオの手に返した。
「だいじなものは、もってないと、だめだよ。かわりに、わたしがいっしょにいてあげる」
それ以来、ふたりはいつも一緒だった。
川で魚を追い、森で木の実を拾い、ガルドの鍛冶場で火花を眺めた。ミナが転べばリオが起こし、リオが熱を出せばミナが祖母から習った薬草を煎じた。喧嘩をしても、日が暮れる前には必ず仲直りした。
ただ、リオには、ひとつだけ気になることがあった。
「ねえ、ミナ。おれ、どうして川から来たのかな」
十歳になった夏の夕暮れ、ふたりは川辺の石に腰かけて、足を水に浸していた。
「お父さんがね、拾ってくれたんだ。でも、おれの本当のお父さんとお母さんは、どこにいるんだろう」
ミナはしばらく黙っていた。それから、水面を蹴って、小さな飛沫を上げた。
「わたしは、リオがここにいてくれて、よかったと思ってるよ」
「……うん」
「会いたい? 本当のお父さんとお母さんに」
「わかんない。でも、なんでおれを川に流したのかは、知りたい」
リオは、首から下げた木彫りの鳥を握りしめた。ガルドが革紐を通してくれたものだ。
「捨てられたのか、守ってくれたのか。それだけ、知りたいんだ」
ミナは、リオの横顔を見つめた。それから、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
「守ってくれたんだよ、きっと」
根拠なんてない。でも、ミナがそう言うと、本当にそうだったような気がした。
十六歳になったリオは、背が伸び、肩幅も広くなって、鍛冶場でガルドの槌を振るうようになっていた。ミナは薬草師の見習いとして、村の誰からも頼りにされていた。
そして、あの日が来た。
村に、王都から神官がやってきたのだ。
世界各地を巡り、「勇者の資質を持つ者」を探しているのだという。神官は白い法衣の裾を泥で汚しながら、村の広場に全員を集めた。
「近い将来、北の果てに魔王が目覚めると、神託がありました。魔王を討てる者は、ただ一人。聖剣に選ばれた者だけです」
神官は、広場の中央に聖剣を突き立てた。青白い光を帯びた、美しい剣だった。
村の若者たちが、次々に挑んだ。だが、誰が柄を握っても、剣はびくとも動かない。
「ほれ、リオ。お前も行ってこい」
ガルドが背中を押した。
「おれ? 勇者なんて柄じゃないよ。鍛冶屋の息子だぞ」
「いいから行ってこい。減るもんじゃない」
リオは苦笑して、剣の前に立った。何の気なしに柄を握る。
その瞬間、世界が静まり返った。
剣が、歌った。
澄んだ高い音が広場を満たし、青白い光がリオの全身を包んだ。握った手のなかで、剣はまるで長い眠りから覚めたように、軽々と地面から抜けた。
村人たちが息を呑んだ。神官が膝をついて、震える声で叫んだ。
「……おお、選ばれし勇者よ! やはり、あなたこそが!」
リオは呆然と剣を見つめた。刀身に映った自分の顔が、ひどく他人のものに見えた。
「おれが……?」
ふと、神官がリオの首元に目を留めた。
「その鳥の彫り物は……」
「あ、これは、拾われたときから持ってたものです。たぶん、両親の」
「……そうですか」
神官は、何か言いかけて、やめた。ただ、深く頭を下げた。
その夜、ガルドは酒を飲まなかった。ひとり鍛冶場の火の前に座って、長いあいだ黙り込んでいた。
「お父さん」
リオが声をかけると、ガルドは振り向かずに言った。
「行くんだろう」
「……うん。おれにしかできないなら、行くよ」
「そうか」
ガルドは火に薪をくべた。
「リオ。お前は、わしの息子だ。川から来ようが、勇者だろうが、それは変わらん。いいか、必ず帰ってこい」
「うん。約束する」
ガルドは何も言わず、リオの肩を、ごつごつした手で一度だけ強く叩いた。
翌朝、村の入り口には、旅支度を整えたミナが立っていた。
「わたしも行く」
「ミナ、危ないよ」
「リオが危ないところに行くなら、なおさらでしょ。薬草師が必要になるよ、絶対」
ミナは頬を膨らませて、リオを睨んだ。
「それにね、約束したじゃない。いっしょにいてあげるって」
リオは言葉に詰まって、それから、観念したように笑った。
「……ありがとう」
こうして、ふたりは旅に出た。
のちに仲間は増え、剣士のダリオ、魔法使いのセレナを加えた四人は、「聖剣の勇者一行」として、世界にその名を知られるようになる。
旅は三年に及んだ。
その間、魔王の眷属は、世界のあちこちで暴れ始めた。四人は街を守り、砦を取り戻し、魔物の軍勢を打ち払った。リオの腕前は日に日に上がり、聖剣の光は、年を追うごとに強さを増していった。
誰もが信じていた。このまま行けば、魔王を倒せる、と。
だが、神託が告げた「北の果ての魔王」は、人々の想像を、はるかに超えていた。
北の大地、黒氷の城。
四人が城門をくぐったとき、空はすでに闇に閉ざされていた。吹きすさぶ風のなかに、血の匂いがまじっている。
「……おかしい」
ダリオが低い声でつぶやいた。
「ここまで、一匹の魔物にも会っていない」
「罠か?」
「いや。違う」
セレナが杖を握りしめた。
「魔物たちは、逃げたんだわ。この城の主を恐れて」
玉座の間は、巨大な円形の広間だった。天井は見えないほど高く、壁には骨のような白い柱が並んでいる。
その中央に、魔王は座っていた。
人の姿をしていた。黒い鎧に身を包み、長い外套を羽織り、顔は兜に隠れて見えない。ただ、その体から立ちのぼる気配が、広間の空気そのものを歪めていた。
「来たか。聖剣の勇者」
声は低く、静かだった。だが、一言ごとに、骨の髄まで冷えるような圧があった。
「我は魔王ヴァルザーク。……長かった。ようやく、この時が来た」
「お前が、世界を苦しめる元凶か」
リオは聖剣を構えた。光が刃に宿り、広間を青白く照らす。
「ここで終わらせる。みんな、行くぞ!」
「応!」
ダリオが先陣を切った。大剣が風を裂き、魔王の鎧に叩きつけられる。
だが。
音すらしなかった。
魔王は片手を上げただけで、大剣を受け止めていた。ダリオの顔から、血の気が引いていく。
「……軽いな」
魔王が指をひねった。
ダリオの体が、壁まで吹き飛んだ。柱が砕け、瓦礫が降り注ぐ。
「ダリオ!」
「《フレア・ランス》!」
セレナの杖から放たれた炎の槍が、魔王の胸を直撃した。爆炎が広間を満たす。だが、煙が晴れたあとも、魔王はまったく同じ姿勢のまま座っていた。鎧には、傷ひとつない。
「そんな……」
「魔法とは、こう使うものだ」
魔王が指を鳴らした。
空間が裂け、無数の黒い刃が降り注いだ。セレナの悲鳴が上がる。ミナが咄嗟に飛び出して、防護の術を展開した。薬草師でありながら、旅のなかで身につけた、祖母譲りの守りの術だ。
だが、黒い刃は光の壁をたやすく貫いた。
「ミナ!」
リオが飛び込み、ミナを抱えて転がった。背中に焼けるような痛みが走る。
「リオ……!」
「大丈夫。下がってて」
リオは歯を食いしばって立ち上がった。聖剣が、必死に光を放っている。
これまで、どんな敵も一太刀で斬り伏せてきた聖剣。それが、今は小さな灯火のように見えた。
「うおおおおっ!」
渾身の一撃を、魔王に叩き込んだ。
聖剣の刃が、魔王の肩に食い込んだ。——確かに、斬った。
だが、魔王は、笑っていた。
「ほう。この時代の聖剣は、この程度か」
「……この時代の?」
魔王の鎧の隙間から、黒い霧があふれ出した。霧は聖剣の刃にまとわりつき、斬られた傷を、見る間に塞いでいく。
「無駄だ。我の核は、この肉体にはない。いくら斬ろうと、我は死なぬ」
「核……?」
「教えてやる必要はない」
魔王が立ち上がった。ただそれだけで、広間の床が軋んだ。
リオは理解した。
勝てない。
力の差が、あまりに大きすぎる。技量や経験ではない。生き物としての、格が違う。
「退くぞ!」
叫んだのは、瓦礫のなかから這い出したダリオだった。血まみれの顔で、それでも剣を支えに立ち上がっている。
「このままじゃ全滅だ! リオ、勇者のお前が生き残らなきゃ意味がない!」
「でも——」
「早くしろ!」
ダリオが、魔王に向かって駆け出した。
「ここは俺が抑える! 行け!」
「ダリオさん!」
「馬鹿野郎……!」
セレナが涙を流しながら、転移の魔法陣を展開した。ミナがリオの腕を引く。
「リオ、行こう! お願い!」
「くそっ……くそおっ!」
光に包まれる直前、リオは見た。
ダリオの大剣が、魔王の腕の一振りで砕け散る瞬間を。
そして、魔王が、まるで何かを確かめるような目で、こちらを見ていたのを。
王都に戻ったリオたちを待っていたのは、誰も勝てなかったという事実と、それを報じる号外の山だった。
ダリオは戻らなかった。
聖剣の勇者が敗れたという知らせは、瞬く間に世界を駆け巡った。人々の希望は絶望に変わり、魔王の軍勢は、日に日に勢力を広げていった。
王都の周辺では、魔物による被害が相次いでいる。国王は兵を集めたが、魔王の眷属の前では、あまりに無力だった。
三か月が過ぎた。
リオとミナ、セレナの三人は、王城の一室で、神官たちと向かい合っていた。
「もう一度、魔王に挑むべきです」
リオは言った。
「今度は、全軍で。国中の騎士と魔法使いを集めて」
「無理です、勇者殿」
老いた神官が、首を振った。
「あなたも見たでしょう。あの力を。千人の兵を集めても、一瞬で灰になる」
「だったら、どうすれば!」
「……方法が、ひとつだけあります」
神官は、重々しく口を開いた。
「王家に伝わる、禁じられた祠の話をご存じですか」
「祠……?」
「はるか昔、時の賢者が築いたとされる、時を渡る祠です。北の山脈の奥に、今も崩れずに残っています」
セレナが目を見開いた。
「時を渡る……? そんな魔法、存在するはずが」
「存在するのです。ただし、行けるのは過去だけ。そして、一度きり。祠の力は、使うたびに消耗するのです」
神官は、リオを見据えた。
「魔王ヴァルザークは、一千年の眠りから目覚めたと言われています。しかし、実際には、その力は年ごとに強くなっているのです。目覚めたばかりの頃の魔王は、今ほど強大ではなかった。——今から二十年前、魔王が最初に姿を現した時代に戻れば」
「……弱いうちに、倒せる」
リオは、拳を握りしめた。
「そういうことです。今の勇者殿では、現在の魔王には勝てない。ならば、勝てる時代に戻って、勝つしかない」
部屋に、重い沈黙が降りた。
「それって、歴史を変えるってことよね」
ミナが、小さな声で言った。
「過去を変えたら、今は、どうなるの?」
「わかりません」
神官は正直に答えた。
「誰も、試したことがないのです。ただ、今を放っておけば、この世界は確実に滅びます。それだけは、はっきりしています」
リオは、窓の外を見た。
王都の空は、黒い雲に覆われていた。遠くで、火の手が上がっている。逃げ惑う人々の悲鳴が、風に乗って届いてくる。
脳裏に浮かんだのは、故郷の村の景色だった。川と、鍛冶場の火と、ガルドの大きな背中。
ガルドは、いまどうしているだろう。無事だろうか。
「……行こう」
リオは、振り返って言った。
「過去に行く。そして、魔王を倒す」
「リオ」
ミナが、リオの手を握った。
「怖くない?」
「怖いよ」
リオは、正直に答えた。
「でも、ここで何もしなかったら、もっと後悔する。ダリオさんが、命がけで逃がしてくれたんだ。あの人の死を、無駄にしたくない」
セレナが、深く息を吐いた。
「……わかったわ。付き合う。ダリオの仇も、取らなきゃいけないしね」
ミナが、リオの手を握る力を強めた。
「わたしも行く。最初から、そう決めてたもの」
リオは、ふたりに頭を下げた。
「ありがとう。……必ず、倒そう」
六、時の祠
北の山脈を越えるのに、七日かかった。
祠は、雪に埋もれた谷の底にあった。苔むした石造りの、小さな建物。入り口には、翼を広げた鳥の彫刻が刻まれている。
それを見たとき、リオは、はっとした。
「この鳥……」
首から下げた木彫りと、よく似ていた。偶然だろうか。リオは、胸の奥に、小さな引っかかりを覚えた。
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
祠のなかは、静寂に満ちていた。奥に、円形の石の台座があり、その中央に、青白い水晶が浮かんでいる。
神官から授かった呪文を、セレナが唱えた。
水晶が輝き、台座の上に、渦を巻く光の門が開いた。
「これが……時の門」
「二十年前に、繋がってるはずよ」
門の向こうには、霞んだ景色が見える。森と、川と、青い空。リオの知らない風景だった。
「行く前に、ひとつだけ」
リオは、振り返って言った。
「戻ってこられる保証はない。それでも、いいか?」
「何を今さら」
セレナが、肩をすくめて笑った。
「勇者様に、最後までついていくわよ」
「リオとなら、どこでも行けるよ」
ミナが、にっこりと微笑んだ。
リオは、ふたりの顔を順番に見て、それから、聖剣を鞘から抜いて、天に掲げた。
「行こう。世界を、救うために」
三人は、手を取り合った。
光の門に、足を踏み入れる。
視界が白く染まっていく。体が、ばらばらに溶けていくような感覚。遠くで、誰かが呼んでいるような声が聞こえた。
その声は、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。
——リオ。
……誰だ。
——生きて。
それは、誰の声だったのだろう。
光のなかで、リオは、何かを思い出しかけた。
揺れる籠。流れる水。遠ざかる、誰かの、血まみれの手。
だが、その記憶が形になる前に、世界は、白に呑まれた。




