第九話 夜ごとの儀式と、一言の芽
あの夜から、重湯の受け渡しは、夜ごとの決まりごとになった。
わたくしが盆を運ぶ。扉が内側から開く。検分の布を確かめ、わたくしが一匙を先に飲み、それから旦那様が、わたくしの見ている前で器を空ける。言葉はほとんどない。器が返り、扉が閉まる。それだけの、五分にも満たない儀式。
それでも、目は覚えていく。器を持つ手の震えが、初日より小さいこと。外套を羽織らずに扉を開けた夜が、一度あったこと。飲み干すまでの時間が、少しずつ短くなっていること。どれも誤差のような変化で、どれも、確かな変化だった。
儀式が始まって三晩目の夜に、旦那様が言った。
「……廊下は冷える。中で待て」
敷居の内側、扉から二歩のところに、いつのまにか小さな椅子が置かれていた。誰が運んだのかは聞かなかった。わたくしはその二歩ぶんだけ、部屋の温度に近づいた。
検分は、続いている。
ゲルト様は毎晩、変わらぬ手順で器を検める。正直に言えば、もう省いてもよいのではと思わないでもなくて、一度だけ、言いかけたことがある。
「ゲルト様。あの、検分はもう……」
「続けさせてくださいませ」
ゲルト様は手を止めずに、静かに言った。
「閣下は三年、決まりごとを一つずつ積んで、生きてこられました。積んだものを崩すのは、閣下ご自身のお役目にございます」
その横顔を見て、わたくしは考えを改めた。
あれは、旦那様の鎧なのだ。三年かけて編み上げた、生きるための決まりごと。鎧は、着ている本人が脱ごうと思う日まで、他人が剥がしてはいけない。わたくしにできるのは、鎧の下に、少しずつ体温を戻すことだけ。
変わったものは、ほかにもあった。
朝、厨房に降りると、竈の火がもう熾きている。大麦を選っていると、若い下女のリタが、黙って篩を差し出してくれる。井戸の水汲みは、いつのまにかわたくしの番が回ってこなくなった。
誰も、何も言わない。ただ、湯が先に沸いていて、道具が手の届くところにあって、皆の目がもう、こちらを測っていない。
城が、少しずつ、あたたかくなっていく。
テアなどは、もうすっかりこの城の水に馴染んで、洗濯場の主のような顔をした年嵩の女中と、干し場で笑い合うようになっていた。夜、髪を梳いてくれながら、今日は誰それがどうしたと城の小さな出来事を報告してくれる。その中に棘のある話が一つも混ざらなくなったことが、なによりの変化だった。
「奥方様。その炊き方ですけれどね」
四晩目の朝、ハンナが竈の前で、思い切ったように口を開いた。
「麦の粒が、踊らないぎりぎりの火加減。あれは、どうやって見極めていなさるんです」
「泡の大きさよ。鍋の縁に、こう、蟹の吹くような細かい泡が並んでいるうちは大丈夫。大きな泡がごぼりと来たら、火が強すぎるの」
「蟹の泡……」
ハンナは真剣な顔で鍋を覗き込み、前掛けの隅に指で何かを書きつけた。それから、ふんと鼻を鳴らして胸を張った。
「なら、こちらからも申し上げますがね。北の大麦は、王都のものより皮が厚うございます。今の浸け時間では、あとひと月もして麦が古くなったら足りませんよ。半刻、余計に浸けなさいませ」
「まあ。……ありがとう、ハンナ。書きつけておくわ」
教わったぶんだけ、教え返す。竈の前の貸し借りは、それでちゃんと釣り合うのだった。背後では下女のリタが、聞こえないふりをしながら、しっかり耳をこちらへ向けていた。四十年竈を守ってきた人が、嫁いで十日あまりの小娘の手元を、盗むのではなく、教わりに来る。その背中の正直さに、わたくしのほうが頭の下がる思いだった。
そして五晩目。
器を空けた旦那様が、盆を返す間際に、ふと言った。
「……今日のは、何が違う」
「お分かりになりました?」
わたくしは、少しだけ声が弾むのを止められなかった。
「大麦を、炊く前に乾いた鍋で軽く炒りましたの。香ばしさがほんのり移ります。それだけですわ」
「そうか」
旦那様はそれきり黙って、扉を閉めた。
廊下を戻りながら、わたくしは盆を抱えて、こみ上げるものを噛み殺した。
違いが、分かった。三年、薬湯だけで夜を凌いできた方が、炒った麦のかすかな違いを拾って、それを聞かずにいられなかった。
そして気づく。──香ばしさは、舌の仕事ではない。あれは香りだ。鼻が拾うものだ。
何がこの方から食を奪ったのか、わたくしはまだ知らない。けれど今夜、ひとつだけ確かなことが分かった。匂いの道は、生きている。
舌に届かないのなら、鼻から届ければいい。炒る。燻す。香草を使う。湯気を立てる。明日からの鍋の道筋が、いちどきに開けた気がした。
匂いの道が生きているのなら、いつか、舌を起こす道もきっとある。
帳簿の希望の欄が、また一行埋まる。
部屋へ戻る途中、回廊の窓から中庭を見下ろすと、白いものがちらついていた。
初霜ではない。あれは、雪だ。まだ根雪にはならない、季節の先触れの粉雪。
ハンナの言葉を思い出す。今年の冬は長うございますよ、奥方様。北の冬は、王都の冬とは別ものでございますからね──。
窓枠に肘をつくと、石の冷たさが袖越しに染みた。あの粉雪の向こうに、村々がある。土気色の頬をした人たちの、干し肉と乾パンだけの冬支度がある。
城の中の一人を、ようやく一段目に載せたばかりだというのに。
城の外では、もっと大きな冬が、領地ぜんたいの食卓に向かって近づいていた。
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