第十話 塩の樽は命の数
村を見て回りたい、と願い出たとき、旦那様の返事は一言だった。
「ゲルトを付ける」
駄目だ、でも、好きにしろ、でもなく。危ないから供を付ける、という返事を、わたくしはありがたく頂戴した。奥向きは好きにするがいい、と初日におっしゃった言葉は、どうやら本当だったらしい。
まずは足元からと、粉雪から三日後、ハンナに誘われて、わたくしは初めて城の地下の食料庫に降りた。
石段を降りるほどに空気が冷えて、乾いた塩と木の匂いが濃くなっていく。
燭台の火に浮かび上がったのは、樽、樽、樽の列だった。天井の低い石室の奥まで、整然と、静かに。教会の並んだ長椅子を思わせる眺めだった。
「手前の列が、塩漬けの豚。奥が塩漬けの羊。壁際の細い樽は、川魚の塩蔵でございます」
ハンナは帳面を片手に、樽のひとつひとつを叩いて回る。こん、こん、と返る音の高さで、中身の詰まり具合が分かるのだという。
「城で冬を越すのは、兵と使用人を合わせて百と七人。ひと冬に要る塩漬けが、豚の樽で三十、羊で十二。乾パンの俵が四十。……今年は、豚があとふた樽足りません」
「足りないと、どうなるの」
「春先に、皆の椀が浅くなります」
ハンナの答えは短かった。浅くなった椀の意味を、この人は何度も見てきたのだろう。
樽の列の最後に、ひときわ厳重に錠の掛かった小部屋があった。ハンナが鍵を開けると、白い塊を詰めた壺が、棚にずらりと並んでいた。
「塩、でございます」
声まで、少し改まっていた。
「北では、塩は銀と同じ扱いでございますよ。塩がなければ肉も魚も冬を越せない。塩の壺が空く年は、人が減る年でございます」
王都の台所で、塩は味付けのものだった。この土地では違う。塩は、時を止めるためのものだ。夏の肉を冬まで、秋の魚を春まで運ぶための、たったひとつの舟。
翌日、その舟の値打ちを、わたくしは中庭で見ることになった。
王都から、冬前最後の塩の荷が着いたのだ。
幌をかけた荷馬車が三台。城の男たちが総出で、壺をひとつずつ、赤子でも抱くように運んでいく。荷の検めに立ち会ったゲルト様の顔は、砦の武器庫を検めるときと同じ顔だった。
城壁の上から兵たちが荷馬車を見下ろし、下働きの子どもらは井戸の陰から白い壺の列を数えていた。祭りの行列でも来たかのような眺めだったけれど、誰の顔にも浮かんでいるのは浮かれた色ではなく安堵だった。
「塩の道は、北の血の道にございますゆえ」
ゲルト様は帳面に壺の数を書きつけながら、そう言った。
「今年は、また少し値が上がりましてな。……まあ、王都の商人の言い値で買うほかございません。塩ばかりは」
言い値、という言葉が、小さな棘のように耳に残った。
午後は、ゲルト様の村回りに同行させてもらった。城から近い、川沿いの村。どの家の軒下にも、塩漬け肉の塊が吊るされ、戸口には塩蔵魚の樽が置かれている。城の食料庫と同じ風景が、貧しい規模で、家ごとに繰り返されていた。
ちょうど、秋の豚を潰したばかりの家があった。男たちが肉を切り分け、女たちが塩を揉み込んでいく。幼い子までが樽の脇に立って、肉の層と塩の層を交互に重ねる手元を、真剣な目で覚えようとしていた。この土地では、塩の仕事は遊びより先に覚えるものらしい。
村長の家で、白湯をいただいた。
「王都では、魔石とやらで、生の肉のまま冬を越せるそうでございますなあ」
村長は歯の抜けた口で、羨むでもなく言った。
「わしらには手の届かん話で。北の冬は、昔から塩だけが頼りでございます」
囲炉裏の端で、村長の孫だという女の子が、乾パンをしゃぶっていた。頬は赤いのに、唇の端が切れて、指のささくれが目立つ。前世の病棟なら、青いものが足りていませんね、と食事表を書き直すところだ。冬の後半、村の子たちの体が何で軋むのか、目に見えるようだった。塩辛いものと乾パンだけで越す冬が、あの小さな体から何を奪っていくか、前世のわたくしは知っている。
帰り道、馬車の窓から、雪をかぶり始めた畑を眺めた。
塩は、確かに命綱だ。この土地の冬は、塩の樽の数でできている。
けれど、塩は守るだけだ。腐らせない代わりに、何も足してはくれない。青いもの、甘いもの、命を作るもの──それらは樽の中にはない。春が遠のくほど、人の体は塩と乾パンだけで軋んでいく。あの女の子の切れた唇のように。
樽の数を増やすことなら、お金の話だ。けれど樽の中身を変えることは、たぶん、この土地の暮らしそのものの話になる。
馬車が城門をくぐる頃、日の落ちた雪原が、青白くどこまでも続いていた。
降り積もっては解けない、北の雪。すべてを埋めて、すべてを閉ざす冬の白。
ふと、前世の冬の景色が重なった。雪深い山あいの畑で祖母が笑っていた記憶がある。雪の下で野菜は凍らないんだよと言って、真っ白な畑から緑の葉を掘り出してみせた冬があった。
……いいえ。
わたくしは窓に手をついて、目を凝らした。
閉ざすだけかしら、この白は。
雪は、敵ではないのかもしれない。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




