第八話 七晩目の問い
開いた扉の向こうに、旦那様が立っていた。
夜着の肩に外套を羽織ったまま。背後の卓の上には、あの土瓶と伏せた椀が出ている。ちょうど、薬湯を口にする前だったのだろう。暖炉の火は低く、部屋の空気は廊下とたいして変わらないほど冷えて見えた。
「……なぜこんな真似をする」
七日ぶりの言葉は、挨拶でも誰何でもなく、問いだった。扉を開けたのは、この問いをぶつけるためなのだ。低い声の底に、七日分の何かが溜まっていた。
「毎晩、毒見までして。手つかずの器を四晩も下げ続けて。王都育ちの令嬢が、何の得があってこんな真似をする」
わたくしは盆を小卓に置き、背筋を正した。
「金か。実家への手柄か。それとも──俺が早く死ねば、若い未亡人として王都へ帰れるからか」
ひどい言葉だった。けれど、声はひどくなかった。責めているのではない。この方は本当に、分からないのだ。分からないものを七日のあいだためつすがめつして、それでも分からなくて、とうとう扉を開けた。
「どれでもございません」
「なら、なぜだ」
「食べることは、生きることだからです」
わたくしは、それだけを言った。
「目の前に、食べられずにいらっしゃる方がいる。わたくしには、匙と鍋の心得がある。理由は、それでもう足りております」
旦那様は黙った。
暖炉の薪が、小さく爆ぜた。灰色の目がわたくしを見て、それから何かを探すように部屋の暗がりへ泳ぎ、結局どこにも答えを見つけられないまま、ふいと逸れた。
会話は、そこで死んだ。
沈黙は長かった。暖炉の灰の匂いと、卓の薬湯の苦い匂いが、冷えた空気の中で混ざっている。わたくしは急かさなかった。七日待ったのだ。あと少し待つことなど、なんでもない。
旦那様が半身を返す。扉の縁に手がかかる。今夜はここまで──そう思って一礼しかけた、その背中から、低い声が落ちてきた。
「……先に飲んだところで、遅効の毒もある」
背を向けたまま。ほとんど独り言のような小ささで。
ああ、とわたくしは思った。この方は七日間、ずっとこれを考えていたのだ。毒見を目の前で見せられて、それでもなお信じ切れない自分の理屈を、捨てることも呑み込むこともできずに抱えて。
「ええ。ございますとも」
わたくしは、その背中に向かって静かに認めた。
「ひと月後に効く毒も、半年かけて弱らせる毒もございます。先に一匙飲んだくらいでは、なんの証明にもなりません」
肩が、わずかに動いた。
「ですから、わたくしは」
息をひとつ、吸う。
「旦那様が生きていらっしゃる限り、この城で、同じ釜のものを食べ続けます。ひと月後も、半年後も、十年後も。旦那様に効く毒なら、いずれ必ず、わたくしにも効きますわ」
長い沈黙があった。
旦那様が、ゆっくりと振り向いた。
「……釜?」
「同じ鍋の、同じ食卓のもの、という意味ですわ」
言ってから、内心でひやりとした。今のは、この国の言い回しではなかったかもしれない。ばあやの故郷の言葉、ということにしておこう。
旦那様は、それ以上は聞かなかった。代わりに、信じがたいものを見る目でわたくしを長いこと見た。十年後、と口の中で繰り返したのが、唇の動きで分かった。
それから──なんの前触れもなく、小卓の器を取り上げた。
節の浮いた指が、白い器を包む。
その瞬間、わたくしの背筋を細い緊張が走った。もし、体が受けつけなかったら。初めての夜に聞いた、あの押し殺した音を、この方はわたくしの目の前で晒すことになる。それはきっと、毒の疑いよりも深くこの方を刺す。重湯をあれほど薄く、体温ほどのぬるさに作り続けたのは、味のためではない。この賭けを、一匙ぶんでも小さくするためだった。
持ち上げ、口をつけ、静かに傾ける。喉仏が、ゆっくりと三度動いた。
わたくしは、息をするのも忘れて見ていた。
見えるのは、それだけだ。骨の浮いた手と、動く喉と、器の傾き。あの薄い重湯が、三年ぶりの温かいものとしてこの方の中をどう通っていくのか、わたくしには見えないし、分からない。
ただ、飲み終えたあとも、旦那様は器を下ろさなかった。
空になった器の底を、長いこと見下ろしていた。
あの夜、湯気を見た目だった。飢えた冬の獣の目。それが今夜は、湯気ではなく、空の器の底に落ちている。
やがて旦那様は器を盆に戻し、匙を取り、検分の布の上に置いた。柄の向きを揃えて、まっすぐに。あの几帳面な手つきを、今夜は、わたくしの目の前で。
「……夜気に当たるな。下がれ」
それだけ言って、扉は静かに閉まった。
わたくしは冷えた廊下に一人残されて、それでもしばらく、動けなかった。
飲んだ。あの方が、わたくしの目の前で、わたくしの作ったものを、飲み干した。
勝ち誇る気持ちは、不思議なほど湧かなかった。胸にあったのは、もっと静かなものだ。夜勤明けの病棟で、朝日が差す頃にようやく熱の下がった患者さんの寝息を聞くときの、あの、そっと手を合わせたくなる静けさだった。
翌日の昼、中庭に面した回廊で、練兵を見回る旦那様を遠くに見かけた。
声の届く距離ではない。けれど、分かった。
一歩が、地を踏んでいた。
燃やすものを持たない人の、あの滑るような歩き方ではなく、踵がちゃんと石を鳴らす、重さのある一歩。たった一椀の重湯で、人の体が変わるはずはない。変わるはずはないけれど──歩き方は、嘘をつかないのだ。
弱った胃は、階段を一段ずつしか登れない。急げば、せっかくの一段が崩れてしまう。けれど昨夜、あの方は確かに、最初の一段に足を載せたのだ。
わたくしは帳簿の希望の欄に今日の一歩を書き足して、厨房へ降りた。
重湯の、次の支度を始めましょう。
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