第七話 空の器と、濡れ衣の話
六晩目の朝の廊下は長かった。
昨日の器はひと匙ぶんだけ減っていた。今朝はどうだろうと考えるたび胸が浮き、期待しては駄目と抑えるたび足が重くなる。角を曲がる手前で一度立ち止まり、息を整えてから、わたくしは扉の前を見た。
器は、空になっていた。
白い内側に、匙が三筋ほど残した跡。飲み干された、ひと椀の重湯。
それだけなら、わたくしはきっと、その場で泣いてしまわない自信がなかった。けれど器の隣を見て、涙よりも先に、息が止まった。
銀の匙が、椀の中ではなく、検分の布の上に戻されていた。
柄の向きを揃え、布の端に沿わせて、まっすぐに。几帳面な、寸分の狂いもない置き方だった。
この手つきを、わたくしは知っている。初日の夜、木箱の紐を結び直していった、あの手だ。
あのときは、警戒の手つきだった。検める者の手つき。それが今朝は、器を検めるためではなく、返すために使われている。食べ終えた器を整えて戻す──それは、作法だ。作った者がいることを知っている人の、作法だ。
構うなと言った人が、器を返す作法だけは崩さなかった。言葉はまだひとつも届いていないのに、手つきだけが先に礼を覚えはじめている。人の心というものは、たぶんこういう端のほうから溶けていくのだ。
わたくしは廊下に膝をつき、空の器と揃えられた匙を、長いこと見つめていた。
帳簿の希望の欄が、今朝はじめて、黒々と埋まった。
下げてきた空の器を見たハンナは、しばらく声もなく立ち尽くしていた。それから濡れた手を前掛けで拭いもせずに器を受け取り、両手で抱えるようにして流しへ運んだ。まるで割れものではなく尊いものを扱う手つきだった。
廊下ではゲルト様とすれ違った。あの方は何も言わず、ただ立ち止まって、これまででいちばん深く頭を下げた。
空の器の話は、その日のうちに城中を駆けめぐったらしい。厨房に立つわたくしを見る下女たちの目から、怖いもの見たさの色が消え、ハンナは何も言わずに、大麦の袋をひとつ、わたくしの作業台の下へ移しておいてくれた。
午後、井戸端で器を洗っていると、隣で布巾を絞っていたテアが、ぽつりと言った。
「……お嬢様は、いつもそうなんです」
「なにが?」
「誰も見ていないところで、こつこつなさるところ。それで、ご本人はけろっと忘れてしまわれるところ」
テアは手を止めて、赤くなった指先を見つめた。
「わたし、忘れていません。三年前、お屋敷の銀器がなくなったとき。孤児院あがりの新入りはわたしだけで、みんながわたしを見ました。荷物を検められて、着ているものまで疑われて」
ああ、と思い出す。そんなことが、あった気がする。
「あのときお嬢様だけが、言ってくださったんです。『この子の手は、そういうことをする手ではないわ。毎朝いちばんに水を汲む手よ』って。……銀器は次の日、戸棚の裏から出てきました。誰も、わたしに謝りませんでしたけど」
「そうだったかしら。当たり前のことを言っただけよ」
「その当たり前を、言ってくれる人がいなかったんです。孤児院では冬になると食べものが減って、年上の子から順に我慢するのが決まりでした。我慢は得意です。でも信じてもらえないことにだけは、いつまでも慣れませんでした。わたしには、お嬢様だけ」
テアの声が、途中から震えた。
「だからわたし、悔しくて。濡れ衣の辛さを知っていて、人を庇える方が、よりにもよって濡れ衣で北へやられるなんて。神様は、目が悪いんです」
「テア」
「北の果てだって、氷の国だって、お供します。わたしがお嬢様の証人です。世界中が忘れても、わたしが覚えています」
濡れた指のまま、テアは拳を握った。わたくしは布巾を置いて、その赤い手を両手で包んだ。毎朝いちばんに水を汲んできた手は、三年経って、少し硬く、とても温かくなっていた。
「ありがとう。……ねえ、テア。わたくしね、この頃思うの。濡れ衣は、いつか乾くわ。急がなくていいの。乾くまで、わたくしたちは温かいものを食べて、ちゃんと眠って、待ちましょう」
証人、という言葉を、わたくしは胸の内で繰り返した。この子は知らないだろう。信じてもらえない痛みを知る人がひとりそばにいてくれることが、どれほど背骨の支えになるか。
その夜、七杯目の重湯を運んだ。
湯加減を確かめ、検分を通し、廊下を歩く。この七日間で体に染みついた道順は、いつのまにか祈りに似た手順になっていた。
いつものように毒見を済ませ、いつものように器を小卓へ置き、一礼して下がろうとした、そのとき。
扉が──内側から、開いた。
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