第六話 王都の作法で、毒見をいたします
五晩目の重湯を炊きながら、わたくしはハンナとゲルト様に、今夜からのやり方を告げた。
検分はこれまでどおり通す。その上で、旦那様の目の前で、わたくしが先に一匙を飲む。
「奥方様が、そこまでなさることは……」
ハンナが痛ましげに言いよどんだ。ゲルト様は長いこと黙っていたけれど、止めはしなかった。代わりに、深く頭を下げた。止める立場の人が止めないというのは、それだけこの城の警戒が深いということでもあった。
五晩目の器を、わたくしは自分で運んだ。
いつもと同じ、検分の布を添えた薄い重湯。いつもと違うのは、盆にもうひとつ、銀の匙を伏せて添えてあることだった。
計画は単純だ。あの方の目のあるところで、わたくしが先にこれを飲む。皿を検める制度では、作った人間の疑いは晴れない。なら、検めるべきはわたくし自身。体で担保するより他に、警戒の内側へ届く道はない。
単純で、我ながら悪くない計画のはずだった。
旦那様の部屋へ続く廊下を曲がったところで、わたくしは足を止めた。
扉の前に、その方が立っていた。
夜着の上に外套を羽織り、手には小さな盆。土瓶と、伏せた椀。立ちのぼる湯気は薬草の苦い匂いがした。夜ごと厨房に降りて、ご自分で薬湯を運んでいらっしゃるのだ──誰にも、その姿を見せないために。土瓶の持ち手だけが、艶の出るほど使い込まれていた。三年、と胸の中で数える。この小さな盆が、三年分の夜を運んできたのだ。
旦那様も、わたくしに気づいて動きを止めていた。廊下の長さのぶんだけ、沈黙が横たわる。先に動いたのはわたくしのほうだった。一歩ごとに燭台の火が揺れて、石壁に二人ぶんの影が伸びる。
灰色の目が、わたくしと、わたくしの盆とを順に見た。
「……まだ続けるのか」
低い声に、咎める棘はなかった。ただ、本当に分からない、という響きだけがあった。
「今夜からは、少しやり方を変えますの」
わたくしは歩み寄り、扉の脇の小卓に盆を置いた。それから旦那様の目の前で、器の重湯を銀の匙にすくった。
「北の作法は存じませんので、王都の作法で──毒見でございます」
匙を持ち上げる。
白い湯気が、ゆらりと立った。
その瞬間、旦那様の視線がわたくしの顔から逸れて、湯気の先へ落ちるのが見えた。ほんの一拍。飢えた冬の獣が、遠くの火を見るような目だった。
わたくしは、自分のしていることに気づいた。
温かい湯気の立つ一匙を、三年間、温かいものをまともに口にできずにいる方の目の前へ、掲げている。これは証明であると同時に、見せつけだ。あなたの食べられないものを、わたくしは食べられます、という。
頬が冷たくなった。今さら匙を下ろせば、憐れみだけが残る。それはきっと、湯気よりも残酷だ。
わたくしは目を伏せ、音を立てずに一匙を飲み下した。ゆっくり味わうことも、ことさら平気な顔を作ることもせず、ただ事務のように。
「……ご覧のとおりでございます。今夜から毎晩、こうして先に飲んでから、お持ちいたします」
顔を上げると、灰色の目は、もう湯気を見てはいなかった。わたくしを見ていた。何かを、測り直すように。
器を置き直し、一礼して、わたくしは踵を返した。
呼び止める声はなかった。けれど廊下の角を曲がるまで、背中に視線を感じ続けた。
部屋に戻ってから、わたくしは長いこと、暗い天井を見上げていた。
計画そのものは、たぶん間違っていない。間違っていたのは、わたくしの想像力のほうだ。
前世の病棟では、患者さんの前で職員は物を食べない。休憩室の扉を閉め、匂いを廊下に出さないようにして、急いで食べる。それが決まりだった。
一度だけ、夜勤明けの明け方に、扉の隙間から握り飯の匂いを漏らしてしまったことがある。絶食中のおじいさんが、通りかかった車椅子の上で「いい匂いだねえ」と笑った。責める色のない、その笑顔のほうがずっと痛かった。
食べられない人の前で食べることは、それだけで刃になる。骨身に沁みて知っていたはずのことを、証明に気を取られて、すっかり忘れていた。
あの、湯気を見た目。
あの目を思い出すたび、胸の奥が軋んだ。あの方は食べたくないのではない。食べたいのだ。体が受けつけないだけで、飢えは、ずっとあの目の奥で生きている。
明日からの毒見は、変えよう。目を合わせず、掲げず、短く。証明は続ける。見せつけには、しない。
匙は、人を生かす道具にも、人を刺す刃にもなる。持ち方を、わたくしはこの城で学び直すのだ。
わたくしは寝返りを打ち、それでもひとつだけ、帳簿の希望の欄に書き足した。
今夜、あの方は「まだ続けるのか」とおっしゃった。
やめろ、では、なかった。
翌朝、扉の前の器を下げに行って、わたくしは立ち尽くした。
器の中の白い面が、わずかに下がっている。
減っていたのは、ちょうど──ひと匙ぶん。
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