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旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: P作


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第五話 扉の前の手つかずの器

 浸けておいた大麦は、一晩でふっくらと水を含み、白く濁った水の底で静かに沈んでいた。


 夜明け前の厨房で、わたくしは鍋を火にかけた。


 一晩水を吸った大麦を、たっぷりの湯で、ことこと、ことこと。急がせてはいけない。粒が踊らない火加減で、殻がほどけ、芯が崩れ、白く濁ってとろみが出るまで。そこから布でゆっくり漉して、上澄みだけを取る。


 器に注いだのは、ほんのひと椀の、薄い薄い重湯だった。


 匂いはほとんど立たない。とろみは匙から糸を引かない程度。温度は、体温より少しだけ上。弱り切った胃に最初に触れてよいのは、これくらい遠慮深いものだけだ。


「……奥方様、それは」


 竈の火を熾しに来たハンナが、鍋を覗き込んで眉を寄せた。


「麦湯よ。浸した大麦を、崩れるまで煮て漉しただけ。膨らませても、寝かせてもいないわ」


 先回りしてそう言うと、ハンナは器の中をしばらく見つめ、それから困ったように首を振った。


「閣下にお出しするものは、すべて検分を通す決まりでございます」


「ええ、存じています。ですから、ゲルト様に検めていただきたいの」


 呼ばれてきたゲルト様は、湯気の立つ器を前に、明らかに戸惑っていた。


「これは……湯、でございますか」


「重湯と申します。麦の、いちばん優しいところですわ」


 ゲルト様は作法どおりに匂いを確かめ、銀の匙で一さじ検めて、妙な顔をした。毒どころか、味らしい味もない一杯だ。それでも決まりは決まりとして、検分済みの印に小さな布を器に添えてくれた。


 その夜、わたくしは器を盆にのせ、旦那様の部屋の扉の前に置いた。


 扉の向こうに、気配はあった。灯りの揺れる隙間、かすかな衣擦れ。中にいらっしゃる。それが分かっていて、わたくしは何も言わず、一礼だけして下がった。


 扉を叩かない。声もかけない。食べてください、と願うことさえ、今はまだ重荷になる。置いてあるだけのものなら、無視する自由が向こうに残る。その自由ごと、差し上げるのだ。


 翌朝、器はそのままの場所にあった。


 膜の張った白い表面が、冷え切って固まっている。手つかずの一杯を、わたくしは黙って下げた。


 二晩目も、同じだった。


 毎朝、新しく炊く。冷めて膜の張ったものを温め直したりはしない。誰に無駄と呼ばれても、そこだけは譲らないと決めていた。


 三晩目の朝、器はやはり手つかずだった。けれど盆の位置が、指二本ぶんだけずれていた。


 持ち上げて、思い直して、戻した跡。


 捨てられてはいない。蹴られてもいない。迷って、戻された。わたくしはそれを、希望のほうに数えることにした。


 城の人たちは、この朝夕の行き来を遠巻きに眺めていた。物好きな奥方様、というところだろう。ハンナだけは四晩目の朝、下げてきた器を受け取りながら、遠慮がちに言った。


「お召し上がりにならないものを、毎朝毎朝……お辛くはございませんか」


「冷めた器を下げるのも、大事な仕事のうちよ。器が教えてくれることも、あるんですもの」


 盆のずれのことは、言わなかった。あれはわたくしだけの帳簿につけておく。


「もう、あんまりです」


 同じ朝、冷えた器を見てテアが唇を噛んだ。


「せっかくお嬢様が、毎朝あんなに丁寧に……恥ずかしいんでしょうか、人前で召し上がるのが」


「いいえ」


 わたくしは器を引き取りながら、首を振った。


 恥なら、扉の内側に下げさせればいいだけのこと。手すらつけないのは、別のものだ。


 あの方は、警戒していらっしゃる。検分の布が添えてあっても、関係ない。わたくしの手が触れたものだから、口にできない。それだけのことなのだ。


 昼下がり、回廊でその方に行き合った。


 昼の光の下で見る旦那様は、夜よりさらに危うかった。歩幅は広いのに一歩が硬く、白い息が浅い。あれは体が燃やすものを持っていない人の歩き方だ。それでも背筋だけは、槍のように通っている。


 旦那様は歩みを止めず、すれ違いざまに、低い声だけを落とした。


「……無駄なことを」


「無駄かどうかは」


 わたくしは足を止め、遠ざかる背中に向けて言った。


「旦那様のお体が、決めることですわ」


 背中が一瞬だけ止まり、また歩き出した。振り向きはしなかったけれど、聞こえたことだけは分かった。


 部屋に戻って、わたくしは冷えた重湯を眺めた。


 検分は、皿の中身しか検められない。あの方が疑っているのは中身ではなく、それを作ったわたくしなのだから、布を何枚添えたところで届かない。


 制度の検めでは、人の疑いは晴れないのだ。


 腹立たしくは、ならなかった。あれほどの警戒は、一朝一夕には育たない。食卓の上で、一度深く裏切られた人の鎧だ。鎧を責めても仕方がない。脱ぎたくなる日を、作るしかない。


 なら、どうするか。答えは前世の病棟にはない。あそこでは、わたくしを疑う患者さんはいなかったから。


 考えて、考えて、夜更けにようやく、ひどく簡単なことに思い当たった。


 検めるべきは、器ではない。


 ──わたくし自身を、検めていただけばいい。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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