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旦那様は今日もよく食べる   作者: P作


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第四話 とんでもございません

 一夜明けて、わたくしは頭の中を整えた。


 口にするのは夜だけ、それも薬湯とわずかな流れもの。固形は受けつけない。人前では決して食べない。そして、あの痩せ方。


 前世の病棟でなら、すぐに食事の計画を立てる患者さんだ。けれどここは病院ではなく、あの方は患者ではなく、わたくしは「構うな」と言われたばかりの、名ばかりの妻だった。


 それでも、やることの順番は変わらない。まずは、この城の台所を知ること。


 弱った胃に最初に届けてよいのは、噛まなくてよく、匂いの立たない、体温より少し温かいものだけ。焦って滋養の強いものを出せば、かえって体は拒む。最初の一杯の答えは、とうに決まっていた。大麦の重湯。それも、上澄みだけの薄いもの。


 問題は、味ではない。あの方の警戒の網を、どうやって匙一本でくぐるかだ。


 厨房は東翼の一階にあった。石造りの広い部屋に、大鍋が三つ。吊るされた銅鍋はどれも鏡のように磨かれ、床には水の跡ひとつない。壁の高いところに、木彫りの聖印がかかっていた。


 良い厨房だ、とひと目で分かった。ここを預かる人は、仕事に誇りを持っている。


「──これは、奥方様」


 竈の前で振り向いたのは、白い前掛けの大柄な老婦人だった。料理長のハンナ、と昨夜テアから聞いていた。この城で四十年、竈の火を守ってきた人だという。皺深い顔がわたくしを認めて、みるみる困惑に固まっていく。背後では、若い下女がふたり、手を止めてこちらを盗み見ていた。


「厨房に、何か御用でございましょうか」


「見せていただきたいの。それから、できればお手伝いも」


「とんでもございません!」


 ハンナの声が石壁に響いた。


「奥方様が厨房など……煤で御髪が汚れます。刃物も火もございます。どうか、どうかお部屋へお戻りくださいませ」


 言葉は丁寧で、態度は岩のように硬い。テアの驚きと同じものが、ここでは城の掟の顔をしていた。


 わたくしは押さずに、まず尋ねることにした。食料庫を見せてもらう。大麦の袋、蜂蜜の壺、乳、根菜、塩漬け肉、乾パン。北の冬を支える顔ぶれが、きちんと積まれている。


 大麦がある。それだけで、今日のところは十分だった。


 けれどわたくしは、つい欲を出した。


「ねえ、ハンナ。この土地では、パンをやわらかく膨らませる工夫はないのかしら。麦を水に浸して、芽を出させて使うことは?」


 ハンナの顔から、すっと色が引いた。


 節くれだった指が、胸の前で素早く聖印を結ぶ。


「……芽出し麦は家畜の餌にございます。膨れたパンは腐れ膨れと申しまして、口にすれば腹の中まで腐ると。奥方様、王都のお生まれのお方が、よもやそのような」


 声の芯が震えていた。嫌悪ではない。あれは、恐怖だ。


「膨れてよいものは、教会様が聖別なさった葡萄酒と乾酪だけ。それが神の定めにございます。ほかの膨れは、みんな腐れの仕業……奥方様も、どうか、そのようなことは二度と」


 ハンナは聖印を握ったまま、幼子に言い聞かせるように繰り返した。この人は意地悪で言っているのではない。心の底から、わたくしの身を案じて怯えているのだ。


「ごめんなさいね。わたくし、ものを知らないだけなの。教えてくれてありがとう」


 わたくしはすぐに引いた。ハンナの肩から、少しだけ力が抜ける。


 腐ることと、醸すこと。ふたつの区別が、この国にはないのだ。膨れたパンさえ「腐れ膨れ」と呼ぶのなら、麹も、味噌も、この土地では穢れの側にいる。街道で聞いた「腐りものを口にする山者」の噂が、頭の中でかちりと嵌まった。


 急いではいけない。この壁は、鍋よりずっと厚い。


「お手伝いの話だけれど、皮むきと皿洗いならどうかしら」


「奥方様にそんな真似をさせては、わたくしが閣下に叱られます」


「あら。構うな、と仰せの閣下が?」


 ハンナが返事に詰まった。わたくしは畳みかけずに、磨かれた銅鍋を見上げる。


「ここは、とても良い厨房よ。鍋がみんな、こんなに大切にされているんですもの。良い厨房で手を動かすのは、気持ちのいいことだわ」


 長い沈黙のあと、ハンナは根負けしたように、芋の籠を一つ、わたくしの前に置いた。


「……お手を、切らないでくださいましよ」


 その日の午後、わたくしは芋の皮を剥き、皿を洗い、竈の灰をかき出した。慌てて袖をまくったテアと並んで手を動かしていると、下女たちの盗み見が、少しずつ怖いもの見たさから物珍しさに変わっていくのが分かった。手を動かせば、台所の癖が見えてくる。塩は強く、煮込みは長く、火は惜しみなく。すべては長い冬と戦うための、この土地の知恵だった。


 夕暮れどき、灰まみれの手を洗っていると、ハンナがそっと湯を足してくれた。


「……王都の奥方様というのは、みんな、そのようになさるのですか」


「いいえ、きっとわたくしだけよ」


 ハンナは呆れたように息をつき、それから初めて、ほんの少しだけ笑った。


 日が落ちてから、わたくしは食料庫の隅で大麦をひとすくい分けてもらい、選り、洗い、水に浸けた。


 水の底で、麦粒がゆっくりと目を覚ましていく。硬い殻の中に、ちゃんと春を蓄えている粒たちだ。一晩水を吸った大麦は、明日、いちばん優しい一杯の素になる。


 構うな、と旦那様はおっしゃった。


 ですから、構いません。──ただ、扉の前に置いてまいります。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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