表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/45

第三話 構うな、と言われましても

 湯あみと着替えを済ませると、休む間もなく呼び出しがかかった。旅装を解いたその足で、当主にお目通りせよ、という。


 通されたのは、天井の高い謁見の広間だった。


 飾りは古い軍旗と、壁に掛かった大剣がひとつ。暖炉の火だけが赤々と燃えて、石造りの部屋をかろうじて温めている。


 その暖炉を背に、旦那様になる方は立っていた。


 近くで見ると、痩せ方はいっそう痛ましかった。軍服の詰襟から覗く首筋は筋が浮き、頬は削げ、唇にはほとんど色がない。齢二十八と聞いていたけれど、疲れだけならもっと老いて見え、目の光だけならもっと若く見えた。


「ヴォルフガング・アイゼンファルクだ。遠路、大儀だった」


 低い声で、その方は言った。噂に聞く酷薄さよりも先に、礼が来たことをわたくしは覚えておくことにした。


「リーゼロッテと申します。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


「先に言っておく」


 挨拶の続きを、その方は静かに断ち切った。


「この婚姻は跡目の体裁だ。部屋と衣食に不自由はさせん。奥向きのことも好きにするがいい。だが──私に構うな」


 灰色の目が、まっすぐにわたくしを見た。


「……どうせ、長くは生きん身だ。慣れる前に終わる暮らしと思え」


 広間が静まり返った。傍らのゲルト様が目を伏せ、テアが息を呑む音が聞こえた。


 長くは生きない。それを、この方は天気の話のように言った。


 わたくしは前世で、同じ言い方を何度も聞いた。もういいんです、と笑う患者さんの声だ。あれは諦めの言葉ではない。諦めたと自分に言い聞かせるための、祈りに似た言葉だ。


「承知いたしました」


 わたくしは頭を下げた。今はまだ、それしか言えることがない。


 顔を上げる寸前、旦那様の眉がわずかに動いたのが見えた。泣くか、すがるか、憤るか──そのどれでもない返事だったから、かもしれない。


 顔を上げたとき、旦那様の視線がわたくしの背後で止まっているのに気づいた。


 使用人が運び込んでいる荷物──三つの木箱。口の開いたひとつから、布に包んだ鉄鍋の取っ手と、種の袋が覗いている。


 灰色の目の温度が、すっと下がった。


「……嫁入り道具に、鍋か」


「はい。使い慣れたものですので」


「そうか」


 それきり旦那様は何も言わず、踵を返して広間を出ていった。けれどあの一瞬、こちらを向いた目が刃物のように細くなったのを、わたくしは確かに見た。


 値打ちを測る目ではない。あれは、警戒する目だ。


 その意味を知ったのは、夕餉の席だった。


 長い食卓に着いたのはわたくしひとり。旦那様は姿を見せず、それは覚悟していたことだったけれど、驚いたのは給仕の順序だった。


 皿がわたくしの前に置かれる前に、ゲルト様がひとつひとつに目を通す。蓋を開け、匂いを確かめ、銀の匙で一さじずつ検めてから、ようやく皿はこちらへ来る。


 皿の中身は、塩漬け肉と根菜の煮込みに、焼き締めた黒パン。厨房の仕事は丁寧で、けれどどれも味が濃く、塩辛い。舌を喜ばせるより先に、長い冬から体を守るための料理だった。この土地の台所が背負ってきたものが、一皿から伝わってくる。


「北の習いでございます。ご容赦を」


 ゲルト様は丁寧にそう言った。閣下のお体のことがあって以来、厨房を出る皿はひとつ残らず検める決まりなのだと、給仕の娘が小さな声で教えてくれた。


 これは客をもてなす作法ではない。傷が、そのまま城の決まりになった作法だ。検めなければならない何かが、かつてこの城で起きた。それも、食卓の上で。


 そして確信は、食後にやって来た。


 空になった水差しを娘に手渡そうとしたとき、差し出された手が一瞬、宙で止まった。わたくしの指から受け取ることを、ためらったのだ。娘ははっと我に返って頭を下げ、逃げるように下がっていった。


 部屋へ戻ると、テアが青い顔で待っていた。荷解きの途中だった木箱の紐が、結び直されている。わたくしの結び方ではない、几帳面な形に。


 この城の人たちは、食べ物を恐れている。


 そして──恐れられているのは、鍋と種を抱えて王都からやって来た、わたくし自身。


「お嬢様、あんまりです。お荷物まで検めるなんて、まるでお嬢様が何か盛るみたいな……」


 テアが目を赤くして憤った。わたくしは首を振った。


「よそのお家には、よその傷があるのよ。責めては駄目。あの検めようは、昨日今日の思いつきではないわ。検めなければ守れない何かが、かつてこの城で起きたのよ」


「起きた、って……何がです」


「さあ。でもね、テア。傷のある家で最初にすることは、詮索ではないの。台所を、きれいに保つことよ」


 幽鬼と噂される痩せ方。誰も見たことのない食事。食べ物への、あの張りつめた警戒。


 ばらばらだった欠片が、ひとつの絵に寄っていく。この方と食卓のあいだで、何かが起きたのだ。それも、とても悪いことが。


 その夜、わたくしは眠れなかった。


 水差しが空だったのを幸いに、燭台を手に廊下へ出る。しんと冷えた石の廊下の先、厨房のほうに、かすかな灯りが揺れていた。


 石壁の冷気が、夜着の裾から這い上がってくる。灯りに近づくにつれ、まず匂いがした。煮出した薬草の、苦い匂い。それから、音が聞こえた。


 水音。押し殺した咳。それから──堪えきれずに漏れる、吐き戻す音。


 長い、長い間があって、また水音。荒い息を必死に殺して、気配は静まっていく。誰にも聞かせまいとする静け方だった。


 ああ、と思った。


 この方は「食べない」のではない。「食べられない」のだ。そしてそれを、この城の誰にも、見せまいとしていらっしゃる。


 わたくしは燭台の火を手で囲い、音を立てずに踵を返した。


 今夜ではない。傷ついた警戒の中へ、いきなり踏み込んではいけない。それも前世で覚えたことだ。


 ──構うな、と旦那様はおっしゃった。


 けれどわたくしの木箱には、もう鍋が入っている。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ