第三話 構うな、と言われましても
湯あみと着替えを済ませると、休む間もなく呼び出しがかかった。旅装を解いたその足で、当主にお目通りせよ、という。
通されたのは、天井の高い謁見の広間だった。
飾りは古い軍旗と、壁に掛かった大剣がひとつ。暖炉の火だけが赤々と燃えて、石造りの部屋をかろうじて温めている。
その暖炉を背に、旦那様になる方は立っていた。
近くで見ると、痩せ方はいっそう痛ましかった。軍服の詰襟から覗く首筋は筋が浮き、頬は削げ、唇にはほとんど色がない。齢二十八と聞いていたけれど、疲れだけならもっと老いて見え、目の光だけならもっと若く見えた。
「ヴォルフガング・アイゼンファルクだ。遠路、大儀だった」
低い声で、その方は言った。噂に聞く酷薄さよりも先に、礼が来たことをわたくしは覚えておくことにした。
「リーゼロッテと申します。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「先に言っておく」
挨拶の続きを、その方は静かに断ち切った。
「この婚姻は跡目の体裁だ。部屋と衣食に不自由はさせん。奥向きのことも好きにするがいい。だが──私に構うな」
灰色の目が、まっすぐにわたくしを見た。
「……どうせ、長くは生きん身だ。慣れる前に終わる暮らしと思え」
広間が静まり返った。傍らのゲルト様が目を伏せ、テアが息を呑む音が聞こえた。
長くは生きない。それを、この方は天気の話のように言った。
わたくしは前世で、同じ言い方を何度も聞いた。もういいんです、と笑う患者さんの声だ。あれは諦めの言葉ではない。諦めたと自分に言い聞かせるための、祈りに似た言葉だ。
「承知いたしました」
わたくしは頭を下げた。今はまだ、それしか言えることがない。
顔を上げる寸前、旦那様の眉がわずかに動いたのが見えた。泣くか、すがるか、憤るか──そのどれでもない返事だったから、かもしれない。
顔を上げたとき、旦那様の視線がわたくしの背後で止まっているのに気づいた。
使用人が運び込んでいる荷物──三つの木箱。口の開いたひとつから、布に包んだ鉄鍋の取っ手と、種の袋が覗いている。
灰色の目の温度が、すっと下がった。
「……嫁入り道具に、鍋か」
「はい。使い慣れたものですので」
「そうか」
それきり旦那様は何も言わず、踵を返して広間を出ていった。けれどあの一瞬、こちらを向いた目が刃物のように細くなったのを、わたくしは確かに見た。
値打ちを測る目ではない。あれは、警戒する目だ。
その意味を知ったのは、夕餉の席だった。
長い食卓に着いたのはわたくしひとり。旦那様は姿を見せず、それは覚悟していたことだったけれど、驚いたのは給仕の順序だった。
皿がわたくしの前に置かれる前に、ゲルト様がひとつひとつに目を通す。蓋を開け、匂いを確かめ、銀の匙で一さじずつ検めてから、ようやく皿はこちらへ来る。
皿の中身は、塩漬け肉と根菜の煮込みに、焼き締めた黒パン。厨房の仕事は丁寧で、けれどどれも味が濃く、塩辛い。舌を喜ばせるより先に、長い冬から体を守るための料理だった。この土地の台所が背負ってきたものが、一皿から伝わってくる。
「北の習いでございます。ご容赦を」
ゲルト様は丁寧にそう言った。閣下のお体のことがあって以来、厨房を出る皿はひとつ残らず検める決まりなのだと、給仕の娘が小さな声で教えてくれた。
これは客をもてなす作法ではない。傷が、そのまま城の決まりになった作法だ。検めなければならない何かが、かつてこの城で起きた。それも、食卓の上で。
そして確信は、食後にやって来た。
空になった水差しを娘に手渡そうとしたとき、差し出された手が一瞬、宙で止まった。わたくしの指から受け取ることを、ためらったのだ。娘ははっと我に返って頭を下げ、逃げるように下がっていった。
部屋へ戻ると、テアが青い顔で待っていた。荷解きの途中だった木箱の紐が、結び直されている。わたくしの結び方ではない、几帳面な形に。
この城の人たちは、食べ物を恐れている。
そして──恐れられているのは、鍋と種を抱えて王都からやって来た、わたくし自身。
「お嬢様、あんまりです。お荷物まで検めるなんて、まるでお嬢様が何か盛るみたいな……」
テアが目を赤くして憤った。わたくしは首を振った。
「よそのお家には、よその傷があるのよ。責めては駄目。あの検めようは、昨日今日の思いつきではないわ。検めなければ守れない何かが、かつてこの城で起きたのよ」
「起きた、って……何がです」
「さあ。でもね、テア。傷のある家で最初にすることは、詮索ではないの。台所を、きれいに保つことよ」
幽鬼と噂される痩せ方。誰も見たことのない食事。食べ物への、あの張りつめた警戒。
ばらばらだった欠片が、ひとつの絵に寄っていく。この方と食卓のあいだで、何かが起きたのだ。それも、とても悪いことが。
その夜、わたくしは眠れなかった。
水差しが空だったのを幸いに、燭台を手に廊下へ出る。しんと冷えた石の廊下の先、厨房のほうに、かすかな灯りが揺れていた。
石壁の冷気が、夜着の裾から這い上がってくる。灯りに近づくにつれ、まず匂いがした。煮出した薬草の、苦い匂い。それから、音が聞こえた。
水音。押し殺した咳。それから──堪えきれずに漏れる、吐き戻す音。
長い、長い間があって、また水音。荒い息を必死に殺して、気配は静まっていく。誰にも聞かせまいとする静け方だった。
ああ、と思った。
この方は「食べない」のではない。「食べられない」のだ。そしてそれを、この城の誰にも、見せまいとしていらっしゃる。
わたくしは燭台の火を手で囲い、音を立てずに踵を返した。
今夜ではない。傷ついた警戒の中へ、いきなり踏み込んではいけない。それも前世で覚えたことだ。
──構うな、と旦那様はおっしゃった。
けれどわたくしの木箱には、もう鍋が入っている。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




