第二話 硬い乾パンは、お粥にすればよろしいのよ
出立の朝、屋敷の玄関に家族の姿はなかった。
昨夜、せめてお別れをと父の書斎を訪ねたけれど、扉は最後まで開かなかった。ただ、扉の向こうで椅子のきしむ音がして、それきり沈黙が続いた。中にいらっしゃることだけは、分かってしまった。
見送りは白髪の門番がひとりきり。荷馬車に積まれた行李は花嫁のものとは思えないほど少なく、代わりにわたくしは、自分で詰めた木箱を三つ、決して人手に渡さず馬車へ運び込んだ。
豆と麦の種。塩の壺。乾かした香草の束。それから、厨房の隅で埃をかぶっていた古い鉄鍋がひとつ。
「お嬢様、本当にこれだけでよろしいんですか。ドレスも宝石も、みんな置いていかれて……」
向かいの席で、侍女のテアが泣きそうな顔をした。実家の使用人でただひとり、北行きへの同行を志願してくれた娘だ。
「よろしいのよ。北で役に立つのは、絹より種ですもの」
わたくしが笑ってみせると、テアはますます泣きそうな顔になった。
馬車は北街道を進む。三日も走れば畑は牧草地に変わり、五日目には針葉樹の森と、道の脇に残る雪だけになった。宿は日ごとにまばらになり、七日目の夜はとうとう、猟師小屋を借りて泊まることになった。
夕餉は兵糧の乾パンと、塩漬け肉の切れ端。
テアが乾パンにかじりつき、こつん、と音を立てて呻いた。
「歯が……お嬢様、これ、石です。石を焼いたものです」
「貸してごらんなさい」
「え……お、お嬢様が、なさるんですか? お料理を」
テアが乾パンと囲炉裏とを見比べて、目を丸くした。無理もない。貴族の令嬢は厨房の敷居をまたがない——それがこの国の常識だ。
「昔、料理番のばあやに教わったの。旅先でも、飢饉の年でも、工夫ひとつで温かいものは食べられるって」
わたくしはそう答えて、囲炉裏に鍋をかけ、湯を沸かした。乾パンを布に包んで砕き、湯へ落とす。塩漬け肉は薄く裂いて放り込み、香草の束からひとつまみ。あとは木べらで底を撫でながら、ことこと、ことこと。
硬いものは、ほどいてやればいい。
前世の私が、病院の厨房で幾度も教わったことだ。噛めないなら砕く。飲み込めないならとろみをつける。食べる側が弱いのではない。食べ物のほうを、その人に合わせて変えるのだ。
やがて鍋の中で、石のようだった乾パンがふっくらとほどけていく。塩漬け肉の脂がきらきらと浮いて、塩気が汁ぜんたいに丸く溶けた。仕上げに香草をもうひとつまみ。湯気がふわりと立ちのぼり、乾いた小屋の空気が、一瞬でやわらかな匂いに変わった。
「さ、召し上がれ」
テアは匙をくわえたまま、しばらく動かなかった。
「……おいしい。おいしいです、お嬢様! あの石が、どうして」
「石だって、ほどいてやれば粥になるのよ」
わたくしは澄まして答えた。前世の話は、こうして「ばあや仕込み」ということにしておく。嘘は心苦しいけれど、湯気の向こうで頬をゆるめるテアを見ていると、これでいいのだと思えた。
温かいものをお腹に入れると、人は眠れる。その夜のテアの寝息は、旅に出てからいちばん穏やかだった。
翌日からテアは、街道の噂話を仕入れてくるようになった。もっとも北へ近づくほど、その中身は不穏になっていったけれど。
「馬丁が言ってました。アイゼンファルク様は、三年前の戦からお姿を見た者がほとんどいないって。氷のように酷薄なお方だとか、いえ、本当はもう長くないのだとか……。それと、北の山には腐りものを口にする山者が棲むから近づくなって。お嬢様、怖くないんですか」
「そうねえ」
わたくしは窓の外の雪を眺めた。怖い、という感情は不思議と湧かなかった。頭にあるのは、王都の夜からずっと同じ問いだ。
誰も食事をとる姿を見たことがない方は、いったい何を召し上がって生きていらっしゃるのか。
九日目、アイゼンファルク領に入った。
最初の村を通り抜けるとき、わたくしは窓に額を寄せた。痩せた家々の屋根の上に、教会の尖塔だけが黒く立っている。畑は雪の下で痩せて、道端に積まれた冬越しの糧は、干し肉の束と黒っぽい乾パンの袋ばかり。すれ違う村人の頬は、そろって土気色をしていた。
北の冬は、王都で聞くよりずっと重い。木箱の種たちを、わたくしはそっと撫でた。
十日目の午後、森が切れた。
灰色の空の下、黒い岩山を背負うように、アイゼンファルクの城が立っていた。飾り気のない、戦うための城。鉄の門がきしみながら開き、馬車は前庭へ乗り入れる。
出迎えは驚くほど少なかった。年かさの家令と、数人の使用人。誰の顔にも歓迎の色はなく、ただ困惑と、こちらを測るような硬さがあった。お飾りの花嫁をどう扱えばいいのか、この城の誰も知らないのだ。進み出た体格のいい軍人が、副官のゲルトと名乗って頭を下げた。
「遠路、ようこそおいでくださいました。閣下は──」
言いかけたゲルト様の背後、城の石段の上に、その人は立っていた。
背の高い方だった。けれど軍服の肩は骨の形に浮き、頬は刃物で削いだように痩けている。風が黒い髪を揺らすたび、立っているのがやっとのように見えた。噂どおりの、幽鬼のような姿。
それなのに、こちらを見据える灰色の目だけが、狼のように鋭かった。
わたくしは息を呑んだ。恐ろしかったからではない。
その痩せ方に、見覚えがあったからだ。病院の白い寝台の上で、いくつも見てきた。筋肉が落ち、唇から色が消え、それでも目だけが生きている人の姿。
──ああ、この方は。
飢えて、いらっしゃる。
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