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旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: P作


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第一話 婚約破棄された夜に、前世の味噌蔵を思い出しました

 「リーゼロッテ・グランツ。貴様との婚約を破棄する」


 王宮の大広間に、第二王子クラウス殿下の声が冷たく響いた。


 楽団の音が途切れる。


 ざわ、と人垣が揺れて、数百の視線がわたくしひとりに突き刺さった。


「殿下。理由をお聞かせいただけますか」


「白々しい。貴様がミレーヌにした仕打ちを、この場の全員が知らぬとでも思うのか」


 殿下の腕の中では、男爵令嬢ミレーヌ様が細い肩を震わせていた。


 淡い金の巻き毛に、涙に濡れた大きな瞳。守ってあげたくなる、と殿方が口を揃える愛らしさだった。


「ロッテ様……わたし、階段から突き落とされたこと、誰にも言わないつもりでした。ロッテ様がわたしを疎ましく思われるのは、当然ですもの……!」


 ミレーヌ様は白い指で目元を押さえ、ひとつ小さくしゃくりあげた。


「でも殿下が、青あざに気づいてくださって……わたし、わたし……」


 涙まじりの声が広間に染み渡る。


 ざわめきが波のように広がった。なんてひどい。グランツ家の令嬢が、嫉妬に狂ったのね。囁きのひとつひとつが、真綿のようにわたくしの首を絞めていく。


 身に覚えのない話だった。それどころか、社交界に不慣れな彼女に扇の作法を教え、お茶会では隣の席へ招いてさしあげたのは、ほかならぬわたくしだ。


 けれど彼女の目元は濡れて、頬は青ざめて、誰が見ても哀れな被害者そのものだった。俯いた胸元で、蔦を絡めた銀の香水瓶が揺れている。


「殿下、わたくしは──」


「黙れ。伯爵家の令嬢ともあろう者が、恥を知れ」


 その一言が、頭の芯を白く灼いた。


 口の中がからからに乾いて、味というものがひとつも分からない。晩餐の名残か、広間の空気には焼いた肉と蝋燭の匂いがまだ漂っているのに。


 ぐらりと視界が傾く。倒れる、と思った刹那。


 その匂いの向こうから、まったく別の匂いが立ちのぼった。


 ──湯気。煮える大豆の、甘くて優しい匂い。杉樽の並ぶ薄暗がりに、白い花のような麹がふわりと咲いている。


 わたくしは、思い出した。


 前世の私は、味噌蔵の娘だった。


 日本という国の、山あいの小さな蔵。蔵はいつも、湯気と麹の匂いがした。冬が来るたび蔵人たちと大豆を煮て、麹を合わせ、味噌を仕込んだ。醸すというのは待つことだと、蔵を守る祖母は言った。


 長じてからは、管理栄養士として病院に勤めた。病や歳月で食べられなくなった人たちの、最後の一匙を預かる仕事だった。


 重湯から始めて、粥へ、刻んだおかずへ。食べられるものがひとつ増えるたび、患者さんの頬に色が戻っていく。もう何も食べられないと医者に言われた老人が、ひと匙の重湯を飲み下して、うまいなあと泣いた。あの皺だらけの手を、私は何度も握った。


 食べることは、生きること。


 祖母の口癖が、リーゼロッテとして生きた十七年の底で、はじめて鳴った。


「……おい、聞いているのか」


 殿下の苛立った声で我に返る。広間の視線は、まだわたくしに突き刺さったままだ。


 不思議なほど、心は凪いでいた。


 前世でひとの生き死にの際に立ち会ってきた身からすれば、婚約破棄など嵐のうちにも入らない。むしろ、この方の妃として一生を終えずに済むのなら、それは。


「承知いたしました。婚約の破棄、謹んでお受けいたします」


 わたくしは背筋を伸ばし、完璧な淑女の礼をした。


 広間がしんと静まり返る。


 泣き崩れるでも、すがりつくでもない元婚約者を前に、殿下は毒気を抜かれた顔をしていた。ミレーヌ様の涙も止まっていた。濡れた瞳がほんの一瞬、値踏みするようにわたくしを見て、すぐまた哀れな被害者の顔へ戻る。


 あら、と思った。


「な……ずいぶんと殊勝ではないか。つまり、罪を認めるのだな」


「身に覚えはございません。ですが、この場で何を申し上げても、届かないことは分かりましてよ」


「開き直るか。……陛下は既にご存じだ。沙汰も出ている」


 殿下は口の端を吊り上げて、玉座の脇に控えた宰相閣下へ目をやった。


 宰相閣下が進み出て、羊皮紙を広げる。


「グランツ伯爵家息女リーゼロッテ。王家との婚約解消に伴い、北の辺境伯アイゼンファルク卿への輿入れを命ずる」


 広間が、今夜いちばん大きくどよめいた。


 出立は十日ののち、雪解けを待たず発て、との仰せだった。急ぎすぎている。まるで、わたくしを一日でも早く王都から消したいかのように。


「北の果てには、貴様のような女がお似合いだ。せいぜい雪に埋もれて、己の罪を悔いるがいい」


 勝ち誇った殿下の声を、わたくしは半分も聞いていなかった。


 視線だけが、広間の隅を探す。お父様は柱の陰で目を伏せたきり、一度もこちらを見なかった。かばう言葉の、ひとつもないのですね。胸の奥がきしんで、指先が冷えた。


 ──ロッテ、味見してみな。


 冷えた指先に、大豆を煮る鍋の熱が重なった気がした。前世の記憶が、痛みをそっと包んでくれる。大丈夫。わたくしには、あの蔵で覚えたすべてがある。


 北の辺境伯。


 その名は社交界でも、噂だけが独り歩きしている。三年前の戦で武勲を立てた英雄でありながら、以来ひとを遠ざけ、夜会にも一切姿を見せない。氷のように酷薄だと言う者もいれば、幽鬼のように痩せこけて、余命いくばくもないのだと囁く者もいた。


「まあ、お気の毒に。北の孤狼のもとへ嫁ぐくらいなら、わたくしなら修道院を選びますわ」


「あの雪と氷の土地で、王都育ちの姫君が生きられるものですか」


 扇の陰から憐れみの声が聞こえる。体のいい流刑。誰の目にもそう映る沙汰なのだろう。


 けれどわたくしの頭を占めていたのは、家のことでも、殿下のことでもなかった。


 幽鬼のように痩せている。ひとと食卓を囲まない。誰も、彼が食事をとる姿を見たことがない。


 ──その方はいったい、何を召し上がって生きていらっしゃるの。


 匙ひとつぶんの熱が、胸の奥に灯った。


 出立まで十日。荷造りの猶予は、仕込みの猶予でもある。


 北へ持っていくものは、もう決めていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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