第七十三話 小火の夜
証人尋問を二日後に控えた夕暮れの裏庭で、ヴィム爺が香草の苗に水をやっていた。
台所の裏の、猫の額ほどの土。植えたばかりの香りのものが、夏の乾きに負けないよう、朝と夕の二度、爺様は水の壺を提げてくる。頼んだのはわたくしだけれど、水やりの刻限を決めたのは爺様の方だった。
「根付きましてございますよ、奥方様。ほれ、この立ち上がり」
「本当。……北より、早いのですね」
「土が温うございますから。そのぶん、水を切らすとすぐ拗ねます」
薔薇の切り戻しを教わった礼に、香草の使い方をひとつ教えて、その日は別れた。穏やかな夕方だった。穏やかな夕方は、それで終わりだった。
夜半、叫び声で目が覚めた。
「火だっ、裏だっ」
ヴィム爺の声だった。忘れ物の手鎌を取りに戻った爺様が、裏手の物置から煙が這い出すのを見つけたのだという。半鐘より早く、屋敷中が起きた。若い護衛が水を運び、テアが桶を繋ぎ、わたくしは竈の火消し壺の灰を抱えて走った。
火は、大きくならないうちに死んだ。
物置の壁が一枚、黒く焦げた。損害はそれだけだった。焼け跡には油の染みた布が残っていて、それが何を意味するかは、誰の目にも明らかだった。
付け火。
「……焼きに、来ましたか」
ゲルト様が焦げ跡を検分しながら唸った。物置の隅には、例の木箱が転がっていた。谷の若者が運んできた、油布で三重に包んだ箱。荷を解いたあと、そのまま裏の物置に仕舞われていた──ように、見えた箱。蓋の端に、こじ開けようとして果たせなかった跡。その上に、油布の焦げ。開かなかったから、焼きにかかった──順の読める傷だった。
あの方は寝間着のまま、焦げた箱の前にしゃがみ、蓋を開けた。
中には、白い塩が詰まっていた。
「……塩、でございますか」
「ああ。焼けるものは入れておらん。──塩は、焼いても塩だ」
あの方は立ち上がって手を払った。
「帳簿は、受理された日のうちに法廷の保管庫へ移してある。判を三つ通してな。あそこの紙を焼くには、宮中ごと焼くしかない」
受理の日。目録が読み上げられた、あの日のうちに。わたくしが法廷で駒の顔を作っていたあいだに、あの方はもう、紙の逃げ道を通し終えていた。
「では、この箱は」
「餌だ。……焼きに来るなら、来た事実だけ貰っておく。北を締めた連中の欲しがったものを詰めておいたのは、まあ、座興だ」
塩。値を四倍にされた、北の白い荷。燃えない紙の囮に、燃えない塩。わたくしは焦げた蓋の塩を見下ろして、笑っていいのか分からないまま少しだけ笑った。
翌る朝の居間で、ゲルト様が渋い顔をした。
「筋を絞りますか。帳簿が柱だと知る者は限られ──」
「限られん」
あの方が遮った。
「法廷にいた全員だ。傍聴も、書記も、坊主も、綺羅を着た見物も。公開の場で目録を読ませるというのは、そういうことだ。……絞らせないための公開でもある。向こうにとってはな」
法廷にいた誰もが知っていた。だから、誰も疑えない。公開が、敵の隠れ蓑になる。わたくしは頭の帳簿にその理屈を書き付けて、頁をそのまま静かに閉じた。書ける名前は、まだ、ない。
「それより、申立ての筋の洗いはどうなった」
「書面の上は、縁組監督官の職名だけですな。判も職印。人の名が、どこにもありませぬ」
「名前のない紙か」
あの方は短く鼻を鳴らした。わたくしは、思わず口にしていた。
「……わたくしたちの紙には、名前ばかりが載っておりますのに」
帳簿の頁ごとのヨーゼフの署名。木札の曲がった名前。書き付けの端の、わたくしの控えの印。こちらの紙は、名前で出来ている。向こうの紙は、名前を消して出来ている。
「紙の性分の違いだ。覚えておけ。──名を書けん紙は、いつか名で破れる」
昼過ぎ、マティアスが見舞いに来た。
「物騒でございますなあ。御屋敷に付け火とは」
よく笑う顔が、今日は心配の形をしていた。界隈で妙な人足が金で雇われたという噂まで、律儀に拾ってきてくれた。わたくしは礼を言い、噂は三枚目の頁に写した。三枚目の頁は、また少し厚くなった。
厚くなった頁を眺めて、ふと思った。この頁は、よく育つ。よく育つ畑は、良い畑か、それとも。
考えは、そこで止めた。明日は、証人尋問。今夜考えるべきことは、他にある。
夜、テアの部屋の灯りがまだ点いていた。
戸を叩くと、テアは寝台の縁に座って、膝の上で手を組んでいた。明日の証言を、頭の中で稽古していたのだという。
「あの日のことも、北のことも、全部お話しします」
「全部で、なくていいのです」
わたくしは隣に座った。
「見たことだけで。覚えていることと、見たことは、別の頁ですから。見た頁だけ開けば、あなたの言葉は、誰にも破れません」
テアは、ゆっくり頷いた。組んだ手が、ほどけていた。
「……奥方様。明日、お父上も、いらっしゃいますね」
「ええ」
北へ来てからこちら、一度も見ていない顔。文の細い字だけを知っている、いまの父。あの伏せられた目が、明日、証言台の上でどこを見るのか。
それは明日、法廷で確かめればいいのだろう。
わたくしはテアの灯りを消して、自分の部屋へ戻った。廊下の窓の外で、焦げた物置の屋根が月に濡れて黒く光っていた。
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