第七十二話 眠れ
出廷の前日、夕暮れどきにそれは着いた。
埃まみれの旅装の若者が二人、油布で三重に包んだ木箱を居間の卓へ据えた。谷の手の者だという。箱の中には、革の背の大きな帳面が年の順に眠っていた。
ヨーゼフの年次帳簿。六十年ぶんの、燃えない紙。
一番上に、家令の几帳面な字の文が載っていた。──帳簿は嘘を申しません。行ってらっしゃいませ、奥方様。
わたくしはその夜、一番古い革の背を指で一度だけ撫でた。
法廷は、石の匂いがした。
宮中の裁きの間。高い天井。段の上に王命の審理官。右手に教会側の席、左手に申立人側の代言人。傍聴の席には、綺羅を飾った顔と、飾らない顔が半々に詰まっていた。よく笑う商人の顔も、その中にあった。
教会側の席には、あの目の動かない人が座っていた。アルノルト様は、わたくしを見ても、樽の話など初めからなかったような顔をしていた。それでいい。あの人の頁は、まだ色を書く段ではない。
あの方は、被告席の斜め後ろ、後見の席にいた。法廷に入る前、ただ一言、「盤の上では、駒の顔をしていろ。崩すのはこちらの番が来てからだ」と言った。
審理は、原審の記録の朗読から始まった。
「──前年、家門裁定において、リーゼロッテ・グランツの申し立てに偽りありと認定。よって婚約の破棄は正当とし……」
書記官の平坦な声が、石の壁に反響する。わたくしは、聞きながら、途中から自分の耳を疑った。
裁定の日付。裁定の場所。列席の名。そこに、わたくしの名だけがない。
「恐れながら」
気がつけば、声が出ていた。
「その裁定の場に、わたくしは呼ばれておりません。弁明の場を、いただいておりません」
「被告は発言を許されていない」
代言人の声が鞭のように被さった。
「記録の通り、裁定は書面審理である。被告の出席は要件ではない」
書面審理。
わたくしの偽りを認定した場に、わたくしはいなかった。紙だけが並び、紙だけが読まれ、紙がわたくしの偽りを決めた。そしていま、その紙のやり直しの場で、わたくしは口を開くことを許されない。
匙を封じられ、次は、言葉。
膝の上で、手が冷えていった。冷えながら、頭の隅の帳簿だけが勝手に動いて書き付けていた。──弁明なき原審。欠席のままの認定。この手続きの形、そのものが頁に載る。怒りは、あとで使う。いまは書き付けておく。
代言人は次に一枚の紙を掲げた。
「原審の証拠。被告が、かつての婚約者に宛てた文である」
読み上げられたのは、確かにわたくしの言葉だった。わたくしの字で、わたくしが書いた文。けれど、前と後ろを刈り取られ、真ん中だけを継がれて、書いた覚えのない意味の形に編み直されていた。
自分の言葉が、自分の知らない嘘の形をして、石の壁に響く。
それを、黙って聞いていなければならない。
盤の上では、駒の顔をしていろ──あの方の言葉に、わたくしは爪の先で掴まった。顔は、動かさなかった。動かさない顔の内側で、何かが軋んで、削れていった。
こちらの提出は、審理の終わりに目録の朗読だけが許された。
「北方辺境領家令ヨーゼフの年次帳簿、六十年分。塩の取引の記録。ならびに関連の書き付け──」
帳簿の名が読み上げられたとき、傍聴席の、あのよく笑う顔から笑いが引いているのが見えた。一度だけ。すぐに、また笑い皺に戻った。
審理官は目録を検分し、抑揚のない声で宣した。
「受理する。次回、証人尋問。両名、父グランツ伯ならびに侍女テアの出頭を命じる」
槌の音が、石に響いた。初日は、それで終わった。
屋敷に戻ったのは、日が落ちてからだった。
夕餉は、喉を通らなかった。半分も食べずに匙を置いて、それでもわたくしは厨房へ下りた。明日の仕込み。あさっての仕込み。あの方の膳は、わたくしの立証。手を動かしていれば、耳の奥の書記官の声が、少しは遠くなる気がした。
気がしただけだった。
刻んだ菜の大きさが揃わない。塩の加減を二度確かめて、二度とも忘れた。手が、わたくしの言うことを聞いていなかった。自分の言葉を知らない嘘に編まれた耳で、自分の手の言うことも聞こえなくなっていた。
どれほどそうしていたのか、階段に足音がした。
あの方だった。寝間着の上に上着を引っかけて、戸口からわたくしと、まな板の上の不揃いな菜を、順に見た。
「……もういい」
「まだ、明日の分が」
「もういい、と言った」
あの方は厨房に入ってきて、わたくしの手から包丁をゆっくりと取り上げた。取り上げて、まな板の向こうに置いた。
「座っていろ」
そして、あの方は竈の前にしゃがんだ。
火を、ご自分で熾された。覚束ない手つきで焚き付けを組み、小鍋に水瓶の湯を移し、それから壁の釘に掛けてあった書き付けの束から一枚を抜いた。村に配る紙。いちばん易しい、湯と蜜と火の加減だけの紙。
蜜湯だった。
あの方は書き付けを竈の縁に立てかけ、一行ずつ指で押さえながら、湯を沸かし、蜜を溶いた。火が強すぎて一度湯を煮立たせ、紙を睨み、鍋を持ち上げて加減をやり直した。長い時間がかかった。世界でいちばん時間のかかる蜜湯だった。
碗が、わたくしの前に置かれた。
「飲め」
ひと口。甘くて、少しだけ煮詰まりすぎていて、温かかった。
「温かいものを腹に入れれば、人は眠れる。……そうだろう」
わたくしの理屈だった。北の冬の入り口で、眠れない人に差し出した、わたくしの一番古い書き付け。それが、火の加減を間違えた蜜湯の形をして卓の向こうから帰ってきた。
目の奥が、熱くなった。碗の湯気のせいに、しておいた。
「……はい」
「飲んだら、眠れ」
あの方はそれだけ言って、わたくしが碗を空けるまで向かいに座っていた。空になった碗を検分して、頷いて、火の始末をした。その手つきだけは妙に堂に入っていた。それから、戸口で足を止めた。
「明日の膳は、休みだ。俺が言うのだから、間違いない。……おまえの立証は、逃げん」
寝台に入って、灯りを消して、わたくしは思った。
匙も、言葉も、封じられた日だった。それでも、湯と蜜と火の加減だけは、誰にも封じられずにわたくしのところへ帰ってきた。
眠れ、と言われた。
北の冬をひとつ挟んで、わたくしの理屈が、わたくしを眠らせに帰ってくる夜もあるのだろう。
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