第七十一話 二つの頁
出廷まで、あと三日になった。
居間の卓は、この数日紙の畑だった。ゲルト様の筋の調べ。ヨーゼフからの二通目の文。マティアスの数字の写し。あの方の三年の束。それらの間を、わたくしの帳面が行き来する。
夏の宵は長く、鎧戸を細く開けた窓から、街の遠い喧噪と生ぬるい風が入ってくる。北の夜より、灯りの油の減りが早い。
その夜は、法廷に出すものを選り分ける夜だった。
「マティアスの数字は、どこまで使う」
あの方が写しの束を指で叩いた。
「卸の帳場の中身は、あれしか知らん話が多い。使えば審理は速い。……使うか」
わたくしは帳面の仕切りに指を掛けて、少しだけ考えた。それから、決めてあったことを口にした。
「法廷に出すのは、二つの頁に載った話だけにいたします」
「ほう」
「あの方の数字のうち、ヨーゼフの筋なり、ゲルト様の筋なりと重なって、裏の取れた分だけ。一つの頁にしか載っていない話は、どれほど筋が良くても、出しません。……人の口は、燃えることがあります。燃えない紙を、真ん中に置きます」
「燃えない紙」
「ヨーゼフの年次帳簿でございます。六十年、北の蔵で毎年書き継がれてきた数字。塩の値の段も、あそこに全部載っております。人の覚えは丸くなりますが、あの帳簿は丸くなりません」
あの方はしばらく黙って、それから口の端だけで笑った。
「……法廷のやり方を、誰に習った」
「台所でございます。怪しい壺は、蓋を開けても鍋には入れません」
「ふん。──それでいい。証言は飾りだ。柱は紙で立てろ」
その柱は、いま街道の上にある。ヨーゼフが年次帳簿の現物を、信の置ける手に護らせて南へ運ばせている最中だという。着くのは、出廷の前日の見込みだった。
卓の向こうで、ゲルト様が満足そうに髭を撫でた。
証人の名簿の話になったとき、部屋の隅で控えていたテアが一歩前へ出た。
「わたくしも、証言に立ちます」
湯を注ぎに来ただけの手が、盆をきつく握っていた。
「奥方様が北で何をなさってきたか。厨房で、蔵で、村で。この目で全部見てまいりました。見た者が言わないでいるのは、嘘をつくのと同じことですから」
「テア」
わたくしは、声を落とした。
「あなたの古い傷を、向こうは突いてきます。あなた自身の、この街での話を」
「存じています」
テアは盆を置いた。置いた手は、もう握られていなかった。
「存じていて、申しております。……それでも、です」
あの方が、名簿にテアの名を書き加えるのを、わたくしは黙って見ていた。止める言葉は、持っていなかった。同じ立場なら、わたくしも同じことを言う。
翌る日の昼、一通の文が届いた。
差出の名を見て、わたくしは廊下の途中で足を止めた。
父だった。
北へ来てからこちら、一度も来なかった便り。封を切る指が、少し冷たかった。中身は、短かった。
──証人として呼ばれた。行く。体は達者だ。おまえの不利になることは、二度と言わぬ。
それだけだった。時候の挨拶もなく、署名の字は昔より細かった。
わたくしは文を二度読んだ。二度読んでから、気がついた。
金の話が、ない。
物心ついてからこちら、父の手紙に金の話がなかったことは、一度もなかった。無心か、言い訳か、その両方か。それが、ない。ただ、行く、と。二度と言わぬ、と。
二度と。
その一語の下に、あの夜会の、伏せられた目が沈んでいた。言い訳も詫びもなく、ただ「二度と」だけがある。詫びの言葉より、よほど詫びに近い形をしていた。
わたくしは文を畳んで、帳面ではなく胸元にしまった。頁に写す種類の紙では、なかった。
夕刻、ゲルト様が小耳の続きを持ち帰った。
「例の樽、手当てが済んだそうで。職人には過分の手間賃が出たとか。……誰の指図かは、坊主どもは言いませんな」
「言わないでしょうね」
検めの間の、あの目の動かない人。俗人の女の言を容れて、聖別の樽を直させた人。指図の名を伏せたまま、あの人は二日ののち、法廷の教会側の席に座る。あの目が敵なのか、定規なのか、まだ分からない。分からないものは、分からないまま頁に書いておく。
厨房には、明日から三日分の仕込みを並べてある。法廷の日に、あの方の体がいちばん良く動くように。それも、わたくしの立証のうちだから。
夜、荷を検めていると、門の外からマティアスの声がした。明日の仕入れの繋ぎに寄ったという男は、帰り際に戸口で振り返った。
「出廷の日は、手前も傍聴に参ります。……帳場の数字が御役に立つところを、この目で見とうございますので」
よく笑う目尻に、疲れの皺が寄った。
わたくしは礼を言って、戸を閉めた。閉めてから、閂に掛けた手が、また一度だけ止まった。
二日ののち、法廷。
二つの頁と、燃えない紙と、それから、まだ色の分からない目がいくつか。持てるものは、全部持っていく。
足りるかどうかは、立ってみなければ分からないのだろう。
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