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【完結】旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


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第七十話 網の中の魚


 検めから三日、屋敷の門は静かに忙しかった。


 御用聞きは日ごとに増え、ゲルト様の網は日ごとに細かくなった。門前で顔と名と店の筋を控え、急ぎの品だけを買い、あとは「追って沙汰する」で帰す。控えの紙は夕餉のあとにわたくしの帳面へ写される。どこの店が、誰の紹介で、何を売りに来たか。網の目を通った者は、まだひとりもいなかった。


 その男は、四日目の昼に来た。


 マティアスと名乗った。塩と香辛料の商いを長くやっていたという、腹の出た、よく笑う中年の男だった。よく笑うのに、笑うたびに目尻へ疲れの皺が寄った。潰れた店の主というものを、わたくしは初めて間近に見た。恨みではなく、疲れを着ている人だった。


「手前の店は、三年前に潰れましてございます」


 門前で男は荷も広げずにそう言った。


「潰したのは、リンデンの息のかかった専売の筋で。塩の卸から締め出されて、蔵を手放して、いまは口利きと運びで食っております。……北の御屋敷が開いたと聞いて、居ても立ってもいられませんで」


「売り込みなら、品書きを置いていけ」


 ゲルト様が言うと、男は首を振った。


「品書きは、ございません。売りに来たのではないので。──手前は、証言に参りました」


 証言。


 奥で聞いていたわたくしは、帳面を繰る手を止めた。


「塩の値が、どの年に、どの筋の指図で、どう段を付けて上がったか。手前は卸の帳場に十年おりました。数字も、名前も、覚えております。奥方様の再審とやらで、北を締めた者どもの手口が要り用になるなら──手前の覚えを、お使いください」


 男は深々と頭を下げて、その日は連絡の付け方だけを残して帰った。


 ゲルト様はすぐには動かなかった。


「話が良すぎますな」


「調べてくださいますか」


「無論。……本当の話ほど、よく調べるのが性分でして」


 裏取りには、五日かかった。


 旧い伝手が二筋、別々に同じ答えを持ち帰った。マティアスの店は実在した。三年前に潰れたのも、潰したのがリンデンの息のかかった専売の筋なのも、事実だった。卸の帳場に長くいたのも、数字に強いという評判も。


「……嘘が、ひとつもありません」


 夕餉のあとの居間で、ゲルト様は控えの紙を卓に並べた。


「網にかかった魚としては、上等すぎるほどで」


「通しますか」


 あの方は、紙を一枚ずつ検めてから言った。


「使えるものは使う。塩の数字は、向こうの手口を法廷で刻むのに要る。──ただし」


 紙を、卓の端へ寄せた。


「こちらの糸とは、別の籠に入れておけ。ゲルトの筋から来た話、ヨーゼフの筋から来た話、この男から来た話。混ぜるな。出どころごとに分けて持て」


「はい。……帳面も、頁を分けます」


 わたくしはその夜、帳面に新しい仕切りを立てた。


 一枚目、ゲルト様の旧い軍の筋。二枚目、ヨーゼフの商人筋。三枚目──今日からの、新しい線。一枚目にはすでに宴の給仕の行方の調べが載り、二枚目には、ヨーゼフからの最初の文が着いたばかりだった。北の家令の几帳面な字で、王都に店を持つ昔馴染みの名がふたつ。同じ話が二つの頁に載ることがあれば、それは裏が取れたということ。一つの頁にしか載らない話は、まだ、その頁の色をした話でしかない。


 塩の値を書き抜いたときと、同じ手つきで。


 仕切りを立ててから、わたくしはマティアスの語った数字を三枚目に写した。写しながら、指が、一度だけ引っかかった。


 値の段の付き方。あの人の覚えでは、最初の段は三年前の春。わたくしの書き抜きでは、三年前の、冬の入り。……小さなずれ。帳場を離れて三年経つ人の記憶なら、あって当たり前のずれ。


 人の覚えは、丸くなるものだから。


 わたくしはそう書き添えて、頁を閉じた。


 閉じてから、ふとゲルト様が昼間に落としていった小耳の話を思い出した。教会が、樽職人を呼んだらしい、という話。検めの間の、あの泣いていた樽。手当てをする気になったのなら、それはそれで、良いことだけれど。


 ──あの目の動かない人が、俗人の言葉で樽を直させる。


 その画を思い浮かべたら、なぜだか少しだけ、可笑しかった。


 数日して、マティアスは正式に出入りを許された。


 持ってくる話は、どれも筋が良かった。専売の帳場の作法。リンデンの荷の動き。教会への寄進の相場。三枚目の頁は、みるみる埋まっていった。二枚目の頁と重なる話も、いくつかあった。裏の取れる、良い魚。


 良すぎる、と言ったゲルト様の言葉だけが、頁の隅に、控えのまま残っていた。


 その夜、わたくしは三枚目の頁の頭にあらためて男の名を書いた。


 マティアス。


 書く前に、指が一度だけ止まった。なぜ止まったのかは、自分でも分からなかった。分からないまま、わたくしは名を書き、頁を閉じ、灯りを消した。


 網の中で、魚はおとなしく泳いでいる。


 どちらの網なのかは、まだ、誰にも見えていないのだろう。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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