第六十九話 検めの間
検めの日の朝、わたくしは指の先まで手を洗い、それからいつもどおりに竈の火を確かめた。
支度は、飾らないことに決めていた。北織りの簡素な衣。結わずにまとめただけの髪。働く者の手のまま。取り繕った手は、検める者の思う壺の中でしか戦えない。
「送る」
あの方は短く言って、馬車に乗り込んだ。検めの間に入れるのは被告の身ひとりと、記録の者だけ。それでも、聖堂の門まで一緒に行くと言って譲らなかった。
「中では、ひとりだ。……いいか。何を言われても」
「旦那様」
わたくしはその先を引き取った。
「わたくしは、検めるのは得意でございます。される側も、する側も」
あの方は一拍黙り、それからふ、と鼻から息を抜いた。
「……そうだったな。行ってこい」
聖堂の脇の、石造りの小部屋だった。
高い小窓がひとつ。長机がひとつ。壁際に、寄進の品らしい蜜蝋の蝋燭が並び、部屋の奥には聖別の葡萄酒の樽が二つ、静かに据えられていた。葡萄酒と、乾酪。教会が聖別の名の下に管理を許した、ただ二つの醸しもの──その一方の並ぶ部屋で、わたくしの醸しが検められる。
監察司祭は、アルノルトと名乗った。
白髪を短く刈った、目の動かない男だった。北の里の司祭様のような疲れは、この人にはない。制度が人の形をして座っている、そういう顔だった。傍らで若い書記が筆を構えている。
「リーゼロッテ・グランツ。検めに先立ち、申し開きがあれば」
旧の名。わたくしは、静かに息を吸った。
言葉は、決めてあった。北の城の、あの雪の朝に一度使った言葉。あのときは、疑いの真ん中で、他に差し出せるものが何もなかった。いまは違う。他にいくらでも言いようがある中から、わたくしはこれを選ぶ。
「ございません。──どうぞ。わたくし自身を、検めていただけばいい」
書記の筆が、わずかに止まって、また動いた。
検めは、手から始まった。
両の手を机に載せさせられ、アルノルト様は燭台を寄せて長いことそれを見た。指の節。塩の染みた爪の際。竈の火に炙られ続けた甲。水仕事で厚くなった掌。
「……傷んだ手だ」
「働いた手でございます」
「北では、奥方が自ら竈に立つと」
「立ちます。それがわたくしの務めですので」
次に、持ち込みの品の目録が読み上げられた。北から屋敷に運び込んだ荷を、教会はすでに書き抜いていたらしい。塩、油、麦、乾酪、干した山菜、それから。
「──麹、なる種。ならびに、これを湯に醸したる甘き腐り水の類」
腐り水。
その語を、わたくしは知っている。北の里で生まれた言葉だ。雪解けの頃、蔵の再建を咎めに来た里の司祭様が口にした、北の土地の蔑称。市場の噂は「腐りもの」だった。ここでは「腐り水」。語が口伝てから公文書へ、階段を上っている。そして北の里の言葉が王都の監察の書面に写っているということは、誰かが北の話を、言葉の端まで拾って王都へ運んでいるということ。
目録の乾酪は咎められず、麹だけが腐り水と呼ばれる。線引きの手が、どちら側にあるかの話だった。わたくしは頭の帳簿に、語の来た道の影を書き付けた。噂の卸元へ、また一歩。
「腐り水、と、その書面が呼んでいるものは」
わたくしは目録から顔を上げた。
「甘酒と申します。麦と麹を湯で醸した、冬の養生の飲みものです。腐ってはおりません。醸してあるのです」
「腐りと醸しに、俗人の区別があると?」
「ございます。鼻と、目と、手に」
わたくしは自分の鼻先を軽く指した。
「腐りは、刺す匂いがいたします。泡が濁り、糸が汚く引き、器の縁が煤けたように黒ずむ。醸しは、匂いが丸い。泡が細かく澄んで、色が明るい。……六十年、蔵を守ってきた谷の民は、この区別で命を繋いでまいりました。区別を失えば、彼らはとうに死に絶えております」
アルノルト様の目が、初めて動いた。品定めの目ではない。定規を当て直す者の目だった。
「口が回る」
「恐れながら、口ではございません。手と鼻でございます。──たとえば」
言うべきか、言わざるべきか。半瞬だけ迷って、わたくしは奥の樽を見た。
「あの、奥の樽。向かって二つめの。蓋の際が、泣いております」
部屋が、静かになった。
「聖別の葡萄酒に、口を利くか」
「利いてはおりません。案じております。入ったときから、酢の匂いの走りがしております。蓋の際に涙の跡。木の呼吸が乱れています。手当てをなさらないと、ひと月持たずに酢へ落ちましょう。……聖別されたものでも、樽は樽。醸しの理は、教会の内と外を区別いたしません」
書記が筆を持ったまま樽を見た。アルノルト様は、見なかった。わたくしから、目を離さなかった。
長い沈黙のあと、あの目の動かない人は短く言った。
「検めは、以上」
それだけだった。穢れの有無も、可も不可も、口にされなかった。書記が扉を開け、わたくしは一礼して部屋を出た。
門の前で、あの方が待っていた。
「どうだった」
「検められて、まいりました。……それから、ひとつ」
馬車が動き出してから、わたくしは声を低くした。
「検めの間の蝋燭、上等の蜜蝋でした。寄進の札が付いておりました。──リンデン、と」
あの方の目が、すっと細くなった。
両替商の名が、教会の燭台に。父の借財の後ろにいた筋が、わたくしを検める部屋を照らしていた。証しには、まだ遠い。けれど、頁には書ける。
疑いの頁が、王都に来て、初めての一行を得た夜だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




