表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【8/1完結予定】旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
68/104

第六十八話 二十日

 王都の朝は、鐘で始まる。


 北の朝が竈の火の匂いで始まるのなら、この街の朝は音で始まる。夜明けの鐘、水売りの声、隣の屋敷の馬の嘶き。わたくしは音の中で目を覚まし、まず厨房へ下りて火を確かめる。竈が生きていれば、この家は今日も動く。それが、この街へ来てからのわたくしの朝の検分になった。


 通いの管理人は、ヴィムという名の老爺だった。


 三年のあいだ、月に二度この家に風を入れ、雨漏りを繕い、誰に見せるでもない庭の薔薇を切り戻してきたという。給金は前払いの分がとうに尽き、あとは手弁当だったらしい。


「灯りが戻って、ようございました」


 皺の中で目を細めてそれだけ言った老爺を、わたくしは帳簿の目で一度だけ検分した。出入りの刻限、持ち物、目の配り。……何もない。あるのは、主のいない家を三年磨いてきた者の、手の胼胝だけだった。主の絶えた家の側で、この老爺も三年を耐えていたのだ。止まった家に風を入れ続けるという形で。疑う目で見た自分が少しだけ嫌になった。


「薔薇の切り戻しの仕方を、あとで教えてくださいな。北にはない花ですから」


「はあ、それはもう。……奥方様は、庭に出られますか」


「台所の裏に、香りのものを植えたいのです」


 ヴィム爺は、嬉しそうに何度も頷いた。この線は、白。わたくしは頭の帳簿にそう書いて、次の頁をめくった。


 人手は、要る。


 屋敷を回すには、通いの下女がふたり。洗い場と掃除に。人入れの店を通し、身元はゲルト様が検めた。ただし、厨房には誰も入れない。


「竈は、わたくしの陣地です。水汲みと、洗い場まで。鍋には触れさせません」


「賢明ですな」


 ゲルト様は短く言った。この街で、わたくしの鍋に誰かの手が入ることの意味を、ふたりとも口にはしなかった。


 昼前には、早くも御用聞きが門を叩きはじめた。


 酒屋、油屋、青物の仲買、それから塩と香辛料の商人。北の辺境伯家が屋敷を開けたという報せは、噂と同じ速さで商人の耳にも届いたらしい。門前で応対したテアの後ろから、わたくしは顔ぶれを目に写した。


「……向こうから、寄ってきますね」


「網にかかりに来る魚もおれば、網を張りに来る漁師もおりますな」


 ゲルト様は門の外へ目をやったまま言った。


「しばらくは全部、この爺が受けます。買うのは急ぎのものだけ。顔と名と、どこの筋の店かを控えてからだ」


 午後、わたくしは窓辺の小机で新しい帳面を一冊おろした。


 北から持ってきた奥向きの帳簿とは別の、この街のための頁。今日の御用聞きの名。市場で聞いた噂の文言と、聞いた場所と、話していた者の身なり。向かいの通りに立つ男が替わる刻限。煙突の煙を見上げていく人の数。それから、御用聞きたちが口々に落としていく世間話の中の、妙に揃った言い回し。


 塩の値を書き抜いたのと、同じ手つきで。


 噂の卸元へは、まだ手が届かない。けれど、仕入れ帳は今日から付けられる。数えられているなら、数え返す。この頁は、そのための陣地だった。


 夕刻、宮中から使者が来た。


 燭台の灯りの下で、あの方が書面を開く。今度は、読み上げる前に少しだけ長く黙った。


「期日が来た。──二十日ののち。宮中の法廷。裁き手は王命の審理官。教会の立会い付きだ」


「二十日……」


「ああ。長いと見るか、短いと見るか」


 あの方は書面を卓に置き、指で二度叩いた。


「向こうは支度の済んだ盤に、こちらを呼び込むつもりでいる。だが二十日あれば、張った糸をあと二十日ぶん手繰れる。ゲルト、旧い伝手の残りを全部起こせ。北のヨーゼフにも文を──あれの商人筋で、王都に店を持つ者がいたはずだ」


「はっ」


「二十日は、向こうの時間じゃない。こちらの時間だ」


 わたくしは膝の上で指を折った。


 二十日。漬けなら、浅いものがようやく食べ頃に届く日数。麹なら、起こして育てて、ひと仕事終えられる日数。樽の蓋にはまだ遠く、噂が育ちきるには十分な日数。指を折るうちに、怖さの置き場が少しずつ段取りに変わっていく。


 台所の時間で測れば、二十日は決して短くない。仕込めるものがいくつもある。


「旦那様。二十日のあいだの膳は、わたくしが締めて組みます。法廷の日に、体がいちばん良く動くように」


「……ほう。俺の体も、仕込みのうちか」


「一番の、仕込みでございます」


 あの方は、ふ、と笑った。笑ってから、書面の末尾をもう一度見て、笑いを消した。


「……最後に、一行ある」


「はい」


「──なお、審理に先立ち、被告の身は教会の検めを受くべし」


 教会の、検め。


 ゲルト様の眉が深く寄った。


「……穢れの検分ですな。腐りものを扱う女かどうか、坊主どもが検めると」


 法廷より先に、教会。わたくしの言い分より先に、わたくしの手と、わたくしの台所が、穢れかどうかを検められる。


 竈の火が、遠くで小さく爆ぜた。


 数え合いの盤の上に、向こうが先に一枚札を置いてきた。二十日の時計は、たったいま動きはじめたところだった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ