第六十八話 二十日
王都の朝は、鐘で始まる。
北の朝が竈の火の匂いで始まるのなら、この街の朝は音で始まる。夜明けの鐘、水売りの声、隣の屋敷の馬の嘶き。わたくしは音の中で目を覚まし、まず厨房へ下りて火を確かめる。竈が生きていれば、この家は今日も動く。それが、この街へ来てからのわたくしの朝の検分になった。
通いの管理人は、ヴィムという名の老爺だった。
三年のあいだ、月に二度この家に風を入れ、雨漏りを繕い、誰に見せるでもない庭の薔薇を切り戻してきたという。給金は前払いの分がとうに尽き、あとは手弁当だったらしい。
「灯りが戻って、ようございました」
皺の中で目を細めてそれだけ言った老爺を、わたくしは帳簿の目で一度だけ検分した。出入りの刻限、持ち物、目の配り。……何もない。あるのは、主のいない家を三年磨いてきた者の、手の胼胝だけだった。主の絶えた家の側で、この老爺も三年を耐えていたのだ。止まった家に風を入れ続けるという形で。疑う目で見た自分が少しだけ嫌になった。
「薔薇の切り戻しの仕方を、あとで教えてくださいな。北にはない花ですから」
「はあ、それはもう。……奥方様は、庭に出られますか」
「台所の裏に、香りのものを植えたいのです」
ヴィム爺は、嬉しそうに何度も頷いた。この線は、白。わたくしは頭の帳簿にそう書いて、次の頁をめくった。
人手は、要る。
屋敷を回すには、通いの下女がふたり。洗い場と掃除に。人入れの店を通し、身元はゲルト様が検めた。ただし、厨房には誰も入れない。
「竈は、わたくしの陣地です。水汲みと、洗い場まで。鍋には触れさせません」
「賢明ですな」
ゲルト様は短く言った。この街で、わたくしの鍋に誰かの手が入ることの意味を、ふたりとも口にはしなかった。
昼前には、早くも御用聞きが門を叩きはじめた。
酒屋、油屋、青物の仲買、それから塩と香辛料の商人。北の辺境伯家が屋敷を開けたという報せは、噂と同じ速さで商人の耳にも届いたらしい。門前で応対したテアの後ろから、わたくしは顔ぶれを目に写した。
「……向こうから、寄ってきますね」
「網にかかりに来る魚もおれば、網を張りに来る漁師もおりますな」
ゲルト様は門の外へ目をやったまま言った。
「しばらくは全部、この爺が受けます。買うのは急ぎのものだけ。顔と名と、どこの筋の店かを控えてからだ」
午後、わたくしは窓辺の小机で新しい帳面を一冊おろした。
北から持ってきた奥向きの帳簿とは別の、この街のための頁。今日の御用聞きの名。市場で聞いた噂の文言と、聞いた場所と、話していた者の身なり。向かいの通りに立つ男が替わる刻限。煙突の煙を見上げていく人の数。それから、御用聞きたちが口々に落としていく世間話の中の、妙に揃った言い回し。
塩の値を書き抜いたのと、同じ手つきで。
噂の卸元へは、まだ手が届かない。けれど、仕入れ帳は今日から付けられる。数えられているなら、数え返す。この頁は、そのための陣地だった。
夕刻、宮中から使者が来た。
燭台の灯りの下で、あの方が書面を開く。今度は、読み上げる前に少しだけ長く黙った。
「期日が来た。──二十日ののち。宮中の法廷。裁き手は王命の審理官。教会の立会い付きだ」
「二十日……」
「ああ。長いと見るか、短いと見るか」
あの方は書面を卓に置き、指で二度叩いた。
「向こうは支度の済んだ盤に、こちらを呼び込むつもりでいる。だが二十日あれば、張った糸をあと二十日ぶん手繰れる。ゲルト、旧い伝手の残りを全部起こせ。北のヨーゼフにも文を──あれの商人筋で、王都に店を持つ者がいたはずだ」
「はっ」
「二十日は、向こうの時間じゃない。こちらの時間だ」
わたくしは膝の上で指を折った。
二十日。漬けなら、浅いものがようやく食べ頃に届く日数。麹なら、起こして育てて、ひと仕事終えられる日数。樽の蓋にはまだ遠く、噂が育ちきるには十分な日数。指を折るうちに、怖さの置き場が少しずつ段取りに変わっていく。
台所の時間で測れば、二十日は決して短くない。仕込めるものがいくつもある。
「旦那様。二十日のあいだの膳は、わたくしが締めて組みます。法廷の日に、体がいちばん良く動くように」
「……ほう。俺の体も、仕込みのうちか」
「一番の、仕込みでございます」
あの方は、ふ、と笑った。笑ってから、書面の末尾をもう一度見て、笑いを消した。
「……最後に、一行ある」
「はい」
「──なお、審理に先立ち、被告の身は教会の検めを受くべし」
教会の、検め。
ゲルト様の眉が深く寄った。
「……穢れの検分ですな。腐りものを扱う女かどうか、坊主どもが検めると」
法廷より先に、教会。わたくしの言い分より先に、わたくしの手と、わたくしの台所が、穢れかどうかを検められる。
竈の火が、遠くで小さく爆ぜた。
数え合いの盤の上に、向こうが先に一枚札を置いてきた。二十日の時計は、たったいま動きはじめたところだった。
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