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【8/1完結予定】旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


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第六十七話 閉じた家

 門をくぐると、音が変わった。


 石畳を叩く蹄の音。呼び売りの声。荷車の軋み。鐘。人の声、人の声。北の静けさに慣れた耳には、街そのものがひとつの大鍋で休みなく煮え立っているようだった。


 窓の外を市場の色が流れていく。


 南の果物の山。香辛料の袋。吊るされた肉。籠に盛られた海の魚。……かつてのわたくしなら、絹と扇の目でしか見なかった通りを、いまのわたくしは値と鮮度と仕入れ先の目で見ている。あの魚は今朝のものではない。あの香辛料の袋は、樽ひとつ分の塩より高い。


 変わったのは街ではなく、わたくしの目の方だった。


「着くぞ」


 馬車が停まったのは、貴族街の外れの石造りの屋敷の前だった。


 門扉に蔦が絡んでいた。窓という窓に鎧戸が下り、扉の把手は曇り、敷石の隙間から草が伸びている。三年、と聞かなくても分かる佇まいだった。この家は主と一緒に、時を止めていた。


「……開けるぞ。三年ぶりだ」


 あの方が自分の手で錠を回した。蝶番が長い眠りの不平のような音を立てた。


 中は、埃と布の匂いがした。


 家具にはすべて白い覆いが掛けられ、大時計は止まり、暖炉は冷たく黒い口を開けていた。先回りの書状で通いの管理人が風だけは入れていたらしく、荒れてはいない。ただ、死んではいないだけの家だった。


 あの方は玄関の広間に立ち、天井を見上げて短く言った。


「……こんなに狭かったか、ここは」


「狭いのではありません。閉まっているのです」


 わたくしは覆い布の端をひとつめくった。


「開けましょう。窓も、竈も」


 その足でわたくしは厨房へ下りた。


 広い厨房だった。北の城のものより新しく、道具も上等で、そして完全に死んでいた。竈の灰は固く冷え、鍋は伏せられたまま白く曇り、水瓶は空。ここで最後に火が焚かれたのは、いつなのだろう。


「テア。水を。ゲルト様、薪はどこに」


「はっ。……裏に、古いのが残っておりますな。乾きだけは良さそうだ」


 竈の灰を掻き出し、焚き付けを組み、火を入れる。


 最初の煙が渋々と立ちのぼり、それから、ふ、と焔が薪を掴んだ。冷え切った石がゆっくりと温もりを思い出していく。三年止まっていたこの家の時間が、竈からまた流れはじめる。


 湯が沸くまでのあいだに、ゲルト様が声を低くした。


「奥方様。ひとつだけ、王都での決めごとを」


「はい」


「人前で、閣下の膳に手をお出しになりませんように。取り分けも、毒見の真似も、匙を貸すことも」


 わたくしは手を止めた。


「……毒の疑いの、続きにされますか」


「されます。向こうの筋書きでは、奥方様は閣下に腐りものを食わせる女だ。人前のひと匙が、そのまま法廷の絵にされ申す」


 北では、わたくしの匙は仕事の道具だった。この街では、証拠の品になる。分かってはいたことが、決めごとの形で膝の上に置かれると、ずしりと重かった。


「……承知しました。人前では」


「人前では、で結構」


 ゲルト様は少しだけ笑って、それから真顔で付け足した。


「屋敷の中のことは、この爺は何も見ておりませんし、何も申しません」


 どういう意味です、と聞き返す前に、テアが目を伏せて水瓶を抱え直した。ふたりとも、それきり何も言わなかった。


 夕刻、足りないものを求めて、テアと市場の端へ出た。


 油と、塩と、今夜の青物。少し離れて、ゲルト様の若い部下がひとり、荷持ちの体でついてきていた。籠を提げて店先を回るわたくしは、どこから見てもただの奥向きの女のはずだった。無防備なのではない。無防備に見せているだけ。それでも、貴族街から来た荷馬車の御者が、店の女房に顎をしゃくるのが見えた。声は、低かったけれど、届いた。


「──北の魔女の家に、灯りが点いたとよ」


「魔女?」


「辺境伯のとこの。死にかけの旦那に、腐りものを食わせて操っとるんだと。婚約破棄の傷物の、あの」


 テアの手から、青物の束が落ちかけた。わたくしは、それを受け止めて、籠に戻した。


 北の魔女。


 あの街は、戻ってきたわたくしを、何と呼ぶのだろう──門の外で立てた問いに、街は初日のうちに答えを寄越した。速い。噂に足が生えている。わたくしたちより先に、わたくしたちの話がこの街に着いていたのだ。


 怖い、と思うより先に、手が帳簿を求めた。


 いつ、誰の口から、どの筋で。値の動きを書き抜いたときと同じ手つきで、わたくしは頭の中の頁に、いまの声を書き付けた。噂にも、仕入れ先がある。これほど足の速い噂には、必ず、卸元が。


 ──いけない。いまは、買い物。


「テア、帰りましょう。今夜は温かいものを作ります」


「……はい。奥方様」


 テアの声は、まだ少し震えていた。この子にとっても、ここは古傷の街なのだ。わたくしは籠を持ち直して、それから、わざと明るく言った。


「大丈夫。名前は、まだ向こうの好きにさせておきます。……台所は、もう、こちらのものですから」


 屋敷に戻ると、煙突から、白い煙がまっすぐに立ちのぼっていた。


 三年、冷たかった家の煙だった。通りの向かいで、誰かが足を止めてそれを見上げているのが、鎧戸の隙間から見えた。ひとりではない。夕闇の中に、二つ、三つ。


「……見られていますね」


「ああ。着いた日から数えられている。出入りも、荷も、煙もだ」


 あの方は、鎧戸の隙間を指で少し広げて、外を見た。


「構わん。数えさせておけ。──こちらも、数える」


 竈の火が、鍋の底を舐めている。


 閉じていた家に、湯気の匂いが戻りはじめる。この街がそれを何と呼ぶのかは、街に任せておけばいい。


 わたくしの戦は、たぶん、この竈から始まるのだろう。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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