第六十六話 南へ下る道
出立の朝は、よく晴れていた。
城の前庭に馬車と荷馬が並び、旅装のテアが誰よりも先に荷を括り終えて立っていた。
「お供いたします。奥方様の身の回りは、わたくしの務めですから」
当然の顔だった。連れて行くかどうかを迷っていたのは、わたくしの方だけだったらしい。王都はテアにとっても、良い思い出のある街ではないのに。
「頼みます」
それだけ言うと、テアは深く頷いて、馬車の踏み台を直しはじめた。
ハンナは、蔵の鍵の束を胸の前で握って立っていた。
「樽は、任されました。蓋には、指一本触れさせません」
「お願いします。……何かあれば、書き付けのとおりに」
「書き付けのとおりに、いたします」
その後ろでカイが新しい木札を一枚、蔵の扉に打ちつけていた。曲がった釘と、曲がった字で。「るす、あずかる。」──それを見たら少しだけ、胸の強張りがほどけた。
ゲルト様は騎馬で列の先頭にいた。旧い軍の伝手は元々この人のものだ。糸の手繰り役が同行し、城の武備は副長に預けられた。
村の道を下ると、畑の縁や戸口に人が出ていた。
マルテが手を振り、粉倉の前ではヨナが飛び跳ね、その後ろで爺様が黙って立っていた。誰も、行くなとは言わなかった。行ってらっしゃいと、早く帰れと、それだけを口々に言った。谷への峠の方角に、一度だけ目をやった。あちらには触れを受けたヨルン様から、餞別だと言って干した薬草の包みが届いていた。
北は、わたくしを送り出す側の土地になっていた。
旅は、速かった。
驚くほど、速かった。宿場に着けば部屋が取ってあり、替えの馬が繋いであり、そして必ずあの方宛ての書状が先回りして待っていた。あの方は夕餉の前にそれを読み、短い返事を書き、夜のうちに使いが発つ。
「……いつの間に、これだけの段取りを」
「言ったろう。この春からの分だ、と。糸は、張っておいた。あとは手繰りながら南へ下るだけでいい」
待つ側ではないのだ、この方は。呼びつけられて行くのではなく、張った糸を、回収しに行く。その速さが、わたくしには頼もしくて、同じだけ静かに恐ろしかった。この速さの分だけ、あの方はずっとこの日に備えていたのだから。
南へ下るほど、雪の記憶が土から消えていった。
畑は広く、道は乾き、行き交う荷馬車の数が増えていく。塩の荷を積んだ列とすれ違ったとき、テアと目が合った。北へ上っていく塩。あの値札の付いた、白い荷。わたくしは目礼だけして、窓の内に戻った。
そして、南へ下るほど、思い出したくないものが道の先から近づいてきた。
夜会の広間。読み上げられたわたくしの罪。扇の陰の囁き。父の、伏せられた目。それから、最後まで開かなかった、書斎の扉。
北へ来てからこちら、実家からの便りは一度もない。わたくしも、出さなかった。雪と樽と竈の日々が、あの街とのあいだに、厚い壁のように積もってくれていた。その壁が、車輪がひとつ回るごとに、薄くなっていく。
三日目の宿で、わたくしは夕餉をほとんど食べられなかった。
匙を持ったまま椀の中を見ていた。喉の奥が、狭くなっていた。あの街に近づいているというだけで、体が先に昔のわたくしに戻ろうとしている。
「手が止まっているぞ」
向かいの席から、声がした。
「……申し訳ありません。少し、旅の疲れが」
「疲れではないな」
あの方はわたくしの椀を引き寄せると、立って部屋の隅の小卓へ行き、鍋から何かをよそって戻ってきた。湯気の立つ、見覚えのあるとろみの椀だった。
「宿の台所に、おまえの書き付けで作らせた。谷と村への触れと一緒に、写しを持たせてある。麦と、漬けと。……味は落ちる。だが、理屈は動いている」
わたくしの前に椀が置かれた。
「食え。今度は、おまえの番だ」
いつか、雪の夜に。無理をするなと、あの方は言った。あの看病の夜にも、先に食えと、同じことを言った。あのときは消耗に。いまは恐怖に。温かいものを腹に入れれば人は眠れるとわたくしが教えた理屈を、この方はずっと覚えていて、いまわたくしに返している。
ひと口すすると、酸味の輪郭の向こうで旨みがやわらかくほどけた。宿の味だった。わたくしの味ではなかった。それでも、喉は、ちゃんと開いた。
「……理屈は、動いておりますね」
「だろう。だから怖がるな。おまえが向こうで倒れても、書き付けさえあれば、俺は食っていける」
冗談の形をした、励ましだった。わたくしは少し笑って、椀を最後まで空けた。
「王都では、わたくし、上手くやれるでしょうか」
器を置いてから、聞くつもりのなかったことが口から出た。
「知らん」
あの方は、あっさりと言った。
「だが、向こうが呼びつけたのは、婚約を破棄された小娘だ。来るのは、その両の手で、北の冬を越えさせた女だ。……人違いに気づくのは、向こうの方が先だろうよ」
五日目の昼、街道が丘を越えた。
テアが小さく息を呑み、わたくしは窓枠を握った。
丘の下に白い城壁が横たわっていた。幾重もの塔と、尖った聖堂の屋根と、市壁の外まで溢れた家々。鐘の音が、風に乗って切れ切れに届く。
王都。わたくしを廃棄した街。
たったひと冬あまり──いいえ。北へ来てからこちらの、雪と樽の日々をすべて挟んだ向こう側に、あの街はあった。
あの街は、戻ってきたわたくしを、何と呼ぶのだろう。
膝の上でわたくしは帳簿の包みを抱え直した。疑いは、頁の中に。匙は、手荷物の中に。
城壁の門が、ゆっくりと近づいてくる。
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