第六十五話 召還状
昨夜の「秘密」の正体は、若い漬けと麦の煮こみだった。
仕込んだばかりの発酵キャベツをざくざくと刻み、骨を煮出した汁で麦と一緒に、とろりとするまで炊く。仕上げに谷の乾酪をひとかけ。酸味はまだ輪郭だけれど、煮こめばやわらかな旨みに化ける。歯の悪い人でも食べられる、村へ配る書き付けの一番手のつもりの椀だった。
夕餉の卓に出すと、旦那様はひと口めで匙を止め、ふた口めからは止まらなくなった。
「……これは、村の樽の漬けか」
「はい。刻んで、麦と煮ただけでございます。火を通せば、漬けの若いうちでも食べられます」
「ほう」
「作り方は、紙に書けます。竈と鍋さえあれば、どこの家でも同じものが」
わたくしは、半分は書き付けの話のつもりで言った。村に配る、普及の紙の話。
「王都の料理人にだって、作れましょう。種も要らず、手順も三つきりですもの。わたくしでなくとも──」
「知っている」
あの方は椀から顔を上げずに言った。
「留守の八日、俺はおまえの書き付けの飯で生きていた。理屈は他人の手でも動く。それは、俺の体がもう知っている」
「では」
「だが、おまえの飯じゃないと駄目だ」
食堂が、静かになった。
ゲルト様の匙が、汁の途中で止まった。給仕に立っていたリタが息を呑み、ハンナが目を伏せて、湯気の向こうで何も聞かなかった顔を作った。
当のあの方だけが、何も気づいていなかった。
「同じ書き付けで、同じ味は出るのだろう。現に八日、俺は生きた。……だが、腹の減り方が違う。おまえの膳の日は、夕刻を待たずに腹が鳴る。理屈の外で、体が待っている。……養生というのは、そういうものなのだろう」
養生の話。あの方の中では、あくまで。
昨夜、名前をつけてしまったものが、胸の蓋の下でごとりと動いた。名前をつけたものは、失える──そう怯えた翌日に、この方は、こういうことを平気で言う。
「……生意気になりましたのは、膳ではなくて、旦那様のお口では」
「ふん。誰に似たのだったか」
ゲルト様がわざとらしく咳をひとつして、食堂に匙の音が戻った。
その音を破ったのは、廊下を渡ってくる足音だった。
早馬だという。夜に入ってから駆けこんだ使いは、王都の印のある筒を渡し、水だけ飲んで厩へ下がった。
あの方は灯りの下で封を切り、黙って読んだ。
長い紙ではなかった。読み終えるのも、早かった。ただ、読み終えたあとの沈黙が、長かった。
「隠す話ではない。この城の者は、聞いておけ」
「リーゼロッテ・グランツ。偽証の疑いにつき、再審のため王都へ出頭せよ」
あの方は、文面を読み上げた。感情のない、報告の声だった。
「……わたくし、に」
「ああ。……北の名が、どこにもないな」
あの方は、紙の端を指で弾いた。嫁いだ女を、旧の名で呼びつける紙。
「それから、末尾に一筆ある。なお、北方辺境領における塩ならびに食料の商いに疑義これあり、あわせて糾すものなり」
ゲルト様が、低く唸った。
「再審の呼び出しに、商いの詮議を相乗りさせますか。……塩で締め損ねた者の、筆の跡ですな」
「値を四倍にしても、北は痩せなかった。銭で殺せなかったから、紙で呼びつけに来た。……来たか、というだけの話だ」
来たか、とあの方は言った。驚いていなかった。
その落ち着きが、かえってわたくしの膝を冷たくした。樽の夜からこちら、書斎の灯りの消えない晩が増えていた。今夜もまた。あの方は、この紙を待っていたのだ。
「話がある。食ったら、書斎へ来い」
書斎の卓には、書状の束が紐で括られて積まれていた。
わたくしは、帳簿を胸に抱えて立っていた。後ろに、誰にも見せたことのない頁のある帳簿を。
「座れ」
座る前に帳簿を卓に置き、後ろの頁を開いて、あの方の方へ回した。
「先に、わたくしの手札をお見せいたします」
あの方は、頁に目を落とした。
塩の値の書き抜き。三年前から段になって上がっていること。専売の商会の名。王都の宴の醜聞の一行。それから、父の借財。債権者は両替屋、その後ろ盾は──同じ商会の筋であること。父の借財が始まったのも、三年前であること。
「三年前、で揃っております。旦那様の毒と、塩の値と、父の借財と。……偶然と呼ぶには、重なりすぎています。けれど、証しはひとつもありません。名を指せるものは、この頁のどこにもない。だから、誰にも見せずにおりました」
疑いは頁の中に、匙は手の中に。そう決めて、蓋をしてきた頁だった。
あの方は長いこと、頁を見ていた。それから顔を上げ、書状の束の紐を解いた。
「なら、こちらの手札も開く。……三年、誰にも見せたことのないものだが」
一通ずつではなかった。束ごと、わたくしの方へ押して寄越した。
「三年前の宴で、俺に杯を運んだ給仕の列は、宴のあと散り散りに国境の外へ出された。俺を診た王都の医師は、任を解かれて口を閉ざした。ここまでは、倒れて動けん頃に、ゲルトが拾ってくれた糸だ。……ここからが、この春からの分だ。樽の夜のあたりから、俺は旧い軍の伝手で、王都に糸を張り直していた」
書状の山を、あの方の指がひとつずつ叩いていく。
「再審を言い出した筋。それを担いだ教会の署名。詮議の相乗りを書き加えさせた手。……どれも、まだ影絵だ。名を指せるところまでは、俺も行っていない。おまえと同じだ。重なりすぎている。だが、証しがない」
「……いつから、わたくしのために」
「おまえのため、とは言っておらん」
あの方はそっぽを向いた。それから、小さく言い直した。
「……最初は、俺の毒の出所を辿るだけのつもりだった。途中から、糸の先におまえの名前が絡みはじめた。それだけだ」
卓の上で、別々の三年を数えてきた二枚の手札が、同じ方角を指していた。
「行かせない、と言いたいところだが」
あの方は、召還状を指の先で押さえた。
「逃げれば、偽証がまことになります」
「──分かっている。だから、その先を言う」
あの方は、わたくしをまっすぐに見た。
「リーゼロッテ。二人で行く。おまえの疑いの頁と、俺の三年の束を持って。……向こうは、おまえ一人を呼びつけたつもりでいる。北の飯で立ち直った男が付いてくるとは、思っていまい」
二人で行く。
その言葉が、胸の蓋の上に静かに重しのように載った。怖さが消えたわけではない。王都。わたくしを廃棄した街。けれど。
「……はい。二人で、参ります」
「支度は五日。谷と村には俺から触れを出す。樽の番はハンナとカイに預ける」
「樽たちは、春まで蓋の中でございますから。……留守は、守ってくれましょう」
「ああ。……春の蓋の約束がある。長居をする旅ではない」
あの方は立ち上がり、窓の外の闇に目をやった。南の空の方角に。
王都までの道のりを、わたくしはまだ知らない。向こうで何が待つのかも。ただ、卓の上の二枚の手札が、初めて一枚に重なった夜だということだけは、分かっていた。
仕込む前には、もう戻れない。
それは樽の話で、胸の話で──たぶん今夜からは、この戦の話でもあるのだろう。




