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旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


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第六十四話 恵みの卓

 初夏の膳が、にわかに賑やかになった。


 畑からは春の名残の青物と新豆と初物の菜。谷からは新しい麹と湯の恵みの卵。村からは礼だと言って粉やら山菜やら川魚やらが、ひっきりなしに勝手口へ届く。貯蔵室の棚は、この春からの仕込みの樽と壺と箱で、もう隙間がない。


 その晩の膳をわたくしは少しだけ贅沢に組んだ。


 特別な日ではない。ただ、台所の恵みがいちばん膨らんだ夜に、その全部をひと卓に載せてみたかった。


 鱒の塩麹焼き。豆腐と山菜の汁。塩麹の蕪と谷の漬け菜。新豆の煮もの。焼きたてのパンに、湯の卵。それから、器に半分の若いキャベツの漬け。


 厨房も、この初夏は賑やかだった。


 日が長くなって、夕餉の支度をはじめる刻限になってもまだ窓の外が明るい。開け放した窓からは川の匂いのする風が入り、竈の熱を運び出していく。ハンナは三つの竈を同時に回し、カイは木札の束を紐で綴じて初めての帳面らしきものを拵えた。ゲルト様は相変わらず、味見と称して汁を二杯飲んでいく。ヨナが顔を出せば、リタが焼き菓子の端をこっそり握らせる。人の出入りと、湯気と、匂いと、長い夕暮れの光と。厨房というより、小さな市場のようだった。


 旦那様は卓を見て、少し眉を上げた。


「……祭りか」


「いいえ。ただの、初夏でございます」


「初夏、か」


 あの方は匙を取った。


 汁から、鱒へ。蕪から、漬け菜へ。豆へ、卵へ。ひと品ずつ、確かめるように、けれど迷いなく。ひと冬前には器一杯の重湯だった人が、いま、七品の膳を当たり前の顔で渡り歩いていく。


 キャベツの器に、匙が伸びた。


 ひと口。あの方の動きが止まった。


「……酸っぱい」


 わたくしは顔を上げた。


「……分かるのですか」


「ああ。……いや」


 あの方はもうひと口確かめた。


「舌の先が、ほんのわずかにひやりとする。酸いという味の、輪郭の端だけ。……鼻は、とうに知っている匂いだ。それが、やっと舌にも触りはじめた」


 酸味の、輪郭。


 冬には、と言った予感より早い。動きはじめた時は、もう止められない──あの方の言葉のとおりに、あの方の体は季節を追い越して、道を開けていく。


「冬には、もっとはっきり分かるようになります。この漬けの酸味は、冬に深くなりますから。……ちょうど良い競走でございますね。漬けの熟れと、舌の戻りと」


「競走か」


 あの方はふ、と息で笑って、それからキャベツをもうひと口食べた。


 仕込んだばかりの若い漬けは、まだ酸味の入り口に立ったところだ。この人の舌と、どちらが先に冬へ届くのか。壺の中と体の中で、同じだけの時が、同じ向きに流れている。


 食後、あの方はすぐには立たなかった。


 空になった器の並ぶ卓をしばらく眺めていた。


「……去年の今ごろ、俺は」


 低い声が、言いかけてやめた。


「いや。……いい。ごちそうだった」


 立ち上がって、扉のところでいつものように足を止める。


「明日は、何だ」


「秘密でございます」


「……ほう。言えんのか」


「言えば、楽しみがひとつ減りますでしょう」


「ふん。生意気になったな、おまえの膳は」


 わたくしも、真似て鼻を鳴らしてみせた。


 あの方は片眉を上げ、もうひとつ鼻を鳴らして、出ていった。その背中を見送って、わたくしはひとりで器を重ねはじめた。


 湯気の残る食堂は、静かであたたかかった。


 廊下の先、あの方の書斎には、今夜も灯りが残っていた。


 北へ来る前のわたくしがこの光景を見たら、信じるだろうか。婚約を破棄されて、死にゆく辺境伯のもとへ廃棄同然に送られた娘が、ひと冬を越えた初夏に、七品の膳を空にした夫の軽口を聞いて笑っている。北は流刑地ではなかった。ここは、わたくしの台所になった。


 器を洗いながら、ふいに思った。


 ──幸せだわ。


 思ってしまってから、手が、止まった。


 幸せ。その言葉を、わたくしはいま、はっきりと考えてしまった。


 この日々。竈の火と樽の並ぶ貯蔵室と、勝手口に届く村の礼と、夕餉の「明日は、何だ」と。名前をつけずに、ただ続けてきたこの日々に、わたくしはいま名前をつけてしまった。


 怖い、と思った。


 名前をつけたものは、失える。


 名前も知らないうちは、失いようがなかったのに。幸せだと分かってしまったら、これを失う日のことを考えられるようになってしまう。


 白い結婚。名ばかりの妻。いつか、あの方が本当の伴侶を選ぶ日。そうしたら、わたくしはこの厨房を、あの席の向かいを、あの「明日は、何だ」を──。


 器を持つ手が震えた。


 ──いけない。


 わたくしは息を吸って、手もとに目を戻した。


 考えない。まだ、考えない。樽の蓋は春まで開けない。それと同じ。この胸の蓋も、まだ。


 けれど、蓋の下で何かが確かに熟れはじめている。塩の段を踏んで、時をかけて、もう仕込む前には戻れない何かが。


 窓の外で初夏の月が貯蔵室の屋根を照らしていた。


 この春からの樽たちの眠る屋根を。


 恵みの季節は、夏へ向かって静かに膨らんでいく。


 この夜が、ずっと続けばいいのに──そう思ってしまったことを、わたくしは誰にも言わなかった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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