第六十三話 壺の前の背中
礼参りから戻った女たちの土産話は、三日で村を駆けめぐった。
谷はきれいなところだった。蔵は立派だった。白い花はあったかかった。爺さまは泣いていた。峠は、思ったより近かった──。
話は、井戸端から井戸端へ、粉倉の前も通り過ぎていった。
その粉倉の話を、わたくしはマルテから聞いた。
発端は、ヨナだった。
仕込みの日から、あの子はちょくちょく城の厨房に顔を出すようになっていた。カイと歳が近いのもあって、木札の字を教わったり、竈の火の番を任されたりしている。その日、ヨナは帰りぎわにハンナから包みをひとつ持たされた。
その日の豆腐の、余りだった。
「爺ちゃんに、って。……いいの?」
「お食べなさいって、奥方様が」
ヨナは、包みを抱えて、駆けていったという。
その晩のことは、あとからマルテが隣家のよしみで聞き集めてきた。
ヨナは、爺の膳に黙って豆腐を出した。汁に温めて葱を散らして。城で見た出し方を、子どもの手で真似て。
番人は、長いこと椀を見ていたという。
白い四角いもの。山の穢れの豆と、穢れの谷の苦い塩からできたあの白。触ったこともないくせに、と言われた男の前で、いま、それは湯気を立てている。
「……なんだ、これは」
「とうふ。うめえよ。爺ちゃんでも、噛まねえで食える」
孫はそれだけ言って、自分の椀をかき込みはじめた。
説得も、講釈もしなかった。十の子どもは、そんなものを知らない。ただ、うまいものを爺に食わせたかっただけだ。
番人は、椀を持ち上げた。
匙で白い角をすくう。しばらく、それを見る。それから──口に入れた。
歯のない口が、ゆっくりと動いた。噛む要のない白はほろりとほどけて、喉を降りていった。
番人は、何も言わなかったという。
うまいとも、まずいとも。穢れとも呪いとも。ただ、黙って椀を空にした。空にして、それから、長いこと囲炉裏の火を見ていた。
「……爺ちゃん、泣いてた?」
マルテがヨナに訊くと、子どもは首をかしげた。
「泣いてねえよ。ただ、汁まで飲んでた。……あと、明日もあるのかって聞かれた」
わたくしは、その話を聞いて厨房の窓の外を見た。
明日も、あるのか。
いつか聞いた言葉と同じ形をしていた。冬の初めの、あの方の「明日も、これか」と。欲の戻りは、いつも明日を訊くところから始まる。
数日後の夕方、わたくしは村の道で、その背中を見た。
マルテの家の前だった。粉倉の番人が、曲がった背中で立っていた。戸口の脇に置かれた塩麹の壺の前に。
番人は、壺に触れはしなかった。
ただ、立って見ていた。夕日が曲がった背中に、長い影を引かせていた。いつかと同じ影だ。けれど、影の向きが違った。あのときは、壺に背を向けて歩き去る影だった。今日は、壺に向かって立ち止まる影だった。
マルテが戸口から出てきて、番人に気づいて足を止めた。
しばらく、ふたりとも黙っていた。
やがて、番人がぼそりと言ったそうだ。
「……粉は、足りとるか」
「え?」
「漬けだの、醸しだの、豆を挽くだの。……粉倉の石臼は、夜は空いとる。豆くらい挽けんことはない」
それだけ言って、番人は返事も待たずに歩き去った。
マルテは、その背中に深々と頭を下げたという。
「……ああいう人なんですよ、昔から」
わたくしにその話をしながら、マルテは笑って、少し泣いた。
「口じゃ絶対に負けを認めない。決まりごとを六十年守ってきた人だから。……でも、石臼を貸すってのは、あの人にとっちゃ、その、つまり」
「ええ」
わたくしは、頷いた。
「分かるわ。……手を貸してくださるのね。手のひらから先に」
偏見は、論では崩れない。奇跡でも崩れきらない。崩すのは、触れる手だ。そして、変わる側にも変わる側の流儀がある。宣言も謝罪もなく、ただ、石臼を空けて待つ。それが、あの曲がった背中の精いっぱいの峠なのだ。
夕餉の席で、石臼の話をした。
旦那様は汁の椀を置いて、少しのあいだ黙っていた。
「……六十年か」
「はい」
「六十年決まりを守った男が、決まりの外へ石臼を貸す。……重いな、それは」
あの方はそれきり何も言わずに、膳の続きに戻った。けれど、その晩の食べっぷりは、心なしかいつもより良かった。
その冬、村の粉倉の石臼は、夜ごとに豆を挽く音を立てることだろう。
ごり、ごり、と。
決まりごとの外へ、ゆっくり回る音を。
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