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旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: P作


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第六十二話 峠を渡る礼

 礼参りの朝は、よく晴れた。


 里の女たちは、七人。マルテを先頭に、みな精いっぱいの晴れ着で、荷を背負っていた。粉の袋。卵の籠。塩麹の壺。焼き菓子の包み。誰かの家の、干した花の束まである。


 わたくしとカイが、道案内に立った。少し離れて、ゲルト様の選んだ兵がふたり、影のようについてきている。賑やかな女たちの列を、黙って守る影だった。


 峠の道は、女たちの足で半日と少し。カイが荷車を引き、途中の湧き水や休む岩の場所を、得意げに教えて回った。この道を、この一年で少年は何十回も往復している。


「……あたし、この峠越えるの、初めてだよ」


 登りの途中で、マルテがぽつりと言った。


「生まれてこのかた、ずっとあっち側で暮らして。山のこっちには来ちゃなんねえって、そう言われて育ったから」


 他の女たちも頷いた。七人が七人とも、初めての峠だった。


 六十年、里の者はこの峠を渡らなかった。渡るのは、いつも谷の側からだった。薬を届けるために。漬け菜を届けるために。命を助けるために。谷は何度も峠を越えてきたのに、里は一度も越え返さなかった。


 今日、初めて、礼が峠を渡る。


 谷が見えたとき、女たちは足を止めた。


 湯けむりの立つ、緑の谷。葺き直された蔵の屋根が午後の日を受けて、明るく光っていた。


「……きれいなとこだねえ」


 誰かが、言った。


 穢れの谷、と呼んできた場所を見下ろして、女たちはしばらく黙っていた。


 谷では、報せを受けたヨルンが蔵の前で待っていた。


 杖をついて、けれどまっすぐに立って。カイの字で報せが届いてから三日、谷じゅうがそわそわしていたという。


 マルテが、進み出た。


 荷を降ろし、背筋を伸ばして、それから深々と頭を下げた。


「里の粉挽きの女房で、マルテと申します。……あんたさまの谷の漬けと白い花に、うちの亭主は七年ぶりの肉を食いました。村じゅうの冬が、あんたさまの谷の知恵で変わろうとしています」


 声が、震えていた。


「六十年も遅くなって、申し訳ないことでした。……礼を言いに来ました。ありがとうございました」


 七人の女が、いっせいに頭を下げた。


 ヨルンは、長いこと動かなかった。


 杖を握る手が、小刻みに震えていた。皺だらけの顔がゆっくりと歪んで、それから、老人は絞り出すように言った。


「……顔を、上げてくだされ」


 声が、掠れていた。


「六十年、待っており申した。……いや、違うな。待つのも、やめており申した。里の衆がこの峠を越えて来なさる日が来るとは。わしの生きとるうちに、来るとは」


 老人の目から、涙が皺を伝った。


「爺様」


 カイが駆け寄って、その体を支えた。


「礼なら、こっちも言わにゃならん。奥方様と里の衆が、蔵を直してくだされた。わしらの花に名前をくだされた。……穢れ、と呼ばれんようになる日が来るなら、わしはもう、いつ死んでも」


「縁起でもねえこと言うない、爺様」


 カイが口を尖らせた。泣きながら。


 礼のあと、女たちは蔵に案内された。


 葺き直された屋根の下、白い花の箱が以前より数を増やして並んでいる。ヨルンは杖をつきながら、一箱ずつ蓋を開けて見せた。ここが六十年、花を守ってきた場所。冬でも温い、湯の上の蔵。


「触っても、いいんかね」


 誰かが、恐る恐る訊いた。


「そっとなら」


 女たちの手が、順番に白い花に触れていく。あったけえ、と誰かが小さく言った。生きてるんだねえ、と誰かが応えた。マルテだけが、触れる前に胸の前で小さく手を合わせた。教えの印ではない。ただの、拝む手だった。


 谷の女たちが湯を沸かし、里の女たちの荷が解かれた。粉と卵は、その場で焼き菓子になった。谷の漬け菜と里の塩麹の壺が、並んで卓に載った。


 言葉は、最初ぎこちなかった。


 六十年ぶんの、遠慮と気まずさと、恐る恐る。けれど、食べものの話になると、女たちの舌は面白いほど回りはじめた。漬けの塩加減。麹の花の咲かせ方。芋の煮え加減。子どもの好き嫌い。亭主の食べっぷり。


 台所の言葉に、峠はない。


 わたくしは、輪の少し外で湯気の立つ碗を持って、それを見ていた。


 ヨルンが、隣に来た。


「奥方様」


「はい」


「……あんたが来なすった日のことを、覚えておりますよ。倒れたわしに、重湯をくだされた。あのときは、まさかこんな日が来るとは」


 老人は、卓を囲む女たちを見た。谷の者と里の者の、区別のつかない輪を。


「醸すというのは、こういうことですかの」


 わたくしは、少し考えて頷いた。


「ええ。……時をかけて、別々のものがひとつの味になること。きっと、そういうことです」


 帰り道、峠の上で女たちは谷を振り返った。


 夕日の中で、湯けむりが金色に立ちのぼっていた。


「……また、来ような」


 誰かが言って、みんなが頷いた。


 六十年の峠は、渡ってしまえば半日の道だった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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