第六十一話 中庭の樽の日
その日、城の中庭に樽が二十、並んだ。
村じゅうの漬けをいちどきに仕込む日だ。荷車が朝からキャベツの山を運び込み、女たちが包丁を持って集まってくる。マルテが音頭を取り、ハンナが塩の目方を量り、カイが樽ごとに木札を配って回った。
刻む音が、中庭に満ちた。
とん、とん、とん。二十枚の俎板の音が、揃ったり、ずれたり、また揃ったりしながら秋の空に立ちのぼっていく。誰かが歌い出した。刈り入れの古い歌に誰かが違う節を重ねる。笑い声。子どもが刻み屑を摘まんで逃げて、叱られる。
わたくしは樽のあいだを回りながら、その音を聞いていた。
この音を、去年のわたくしは、知らなかった。
去年の秋、この中庭は静かだった。城は死にかけた領主の城で、村は塩の値に怯える村で、厨房の竈はひとつしか火が入らなかった。
一年で、ここまで来た。
いいえ──来たのではない。みんなで漬けてきたのだ。重湯の一杯から、少しずつ。時をかけて、蓋を守って、待つべきときを待って。人も村も、醸すものと同じだった。急に変わりはしない。けれど、変わりはじめたら止まらない。
「奥方様、塩はこれで足ります?」
「量ってみて。キャベツの目方の指二本ぶんよ」
「指二本。……ほんとに、それっぽっちで」
樽の列の端に、見慣れない顔があった。
十かそこらの男の子だ。おずおずと、けれど熱心に女たちの手元を覗き込んでいる。マルテがその子に気づいて、あら、と声を上げた。
「ヨナじゃないか。あんた、爺さまは」
「……来てない。おいら、勝手に来た」
男の子は口を尖らせた。
「面白そうだったから。……なあ、おばさん。おいらもキャベツ、刻んでいい?」
マルテが、わたくしを見た。その目で分かった。粉倉の番人の、孫だ。
「……いらっしゃい」
わたくしは笑って、小ぶりの包丁を差し出した。
「手を切らないように。猫の手で押さえるのよ」
ヨナは目を輝かせて、俎板の前に立った。手つきは危なっかしいけれど、筋がいい。何より、楽しそうだった。刻んだキャベツを樽に入れ、塩を振り、女たちに交じってぎゅうぎゅう押す。
「爺ちゃんには、内緒な」
誰にともなくそう言って、ヨナはにっと笑った。
女たちが顔を見合わせて、何も言わずに笑った。
昼には、炊き出しが出た。
豆腐と葱の汁。塩麹の蕪。焼きたてのパンに、谷から届いた漬け菜を刻んで混ぜたもの。働いた者たちが中庭の縁に腰かけて、湯気の立つ椀を抱える。
ヨナは、豆腐の汁を三杯おかわりした。
「うめえ……。なあ、これ、白いの、なに?」
「山豆の、豆腐というのよ」
「とうふ。……爺ちゃんにも食わせてえなあ。爺ちゃん、歯ぁ悪くて固いもん食えねえから」
あっけらかんと、そう言った。女たちが、また顔を見合わせた。今度は誰も笑わなかった。マルテがそっとヨナの椀に豆腐をもうひと切れ、足してやった。
その光景を、執務室の窓から旦那様が見下ろしていた。
あとで、ゲルト様に聞いた話だ。あの方は長いこと窓辺に立って、中庭の樽と人の輪と、立ちのぼる湯気を見ていたという。それから、ぽつりと言ったそうだ。
「……城というのは、ああいう音のするものだったか」
ゲルト様は、何も答えなかったという。答える代わりに隣に並んで、同じ景色を見ていた、と。
夕暮れ、樽は二十、すべて仕込み終わった。
樽にはひとつずつ、カイの木札が下がっている。家の名前。キャベツの目方。塩の量。仕込みの日付。
「三日は、毎日押すこと。水から顔を出させないこと」
わたくしが言うと、女たちは口々に復唱して、自分の家の樽を荷車に積んだ。樽は、村へ散っていく。二十の台所へ。二十の冬へ。
最後の荷車を見送っていると、マルテが隣に立った。
「奥方様。……あたしら、来月、谷へ行きます」
わたくしは、マルテを見た。
「礼参りです。漬けの先生に、礼を言いに。……女房連中で相談して決めました。粉と卵と、それから、うちの塩麹の壺のいちばん出来のいいのを持って」
里の女たちが、自分たちの足で峠を越える。六十年、誰も渡らなかった方向へ。
「……ええ」
わたくしは頷いた。それしか、言えなかった。
「きっと、驚かれるわ。それから、きっと喜ばれる」
空の樽がひとつ、中庭の隅に残っていた。
ヨナが帰り際、その樽を名残惜しそうに、ぽん、と叩いていった。
小さな手の音が、夕暮れの中庭にひとつ、響いた。
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