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旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: P作


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第六十話 樽と刻む音

 秋の気配が立つと、北の畑は、俄かに忙しくなる。


 いちばんの主役は、キャベツだ。石のように固く巻いた大きな玉。北の畑がいちばん得意とする作物で、どこの家もこれを塩漬けにして冬を越す。


 そして、その塩漬けこそが、塩食いの筆頭だった。


「例年ですと、キャベツの漬け込みだけで、村の塩の三割が消えまする」


 ヨーゼフの帳面が、そう告げた。


 わたくしは頷いた。今年は、そこを変える。


「今年の漬けは、塩をいつもの半分以下にします」


 厨房に集めた顔ぶれ──ハンナ、カイ、それにマルテと村の女たちがいっせいにざわめいた。


「半分。……奥方様、それじゃ腐っちまう」


「腐らないの。……そこが、この漬けの面白いところ」


 わたくしは、大きなキャベツをひとつ俎板に載せた。


「刻んで、塩をして、押す。それだけ。麹も要らない。……キャベツが自分で自分を漬けるのよ」


 千切りにしたキャベツに、重さを量った塩を振る。目方のうち、ほんのわずか。両手で揉むと、みるみる水が上がってくる。それを樽に詰めて、上がった水にキャベツが沈むまでぎゅうぎゅうと押す。重石を載せて、あとは待つ。


「塩が、キャベツの水を引き出します。その水の中で、目に見えない小さな働き手がキャベツを酸っぱく変えていく。酸っぱくなった漬け汁は、悪いものを寄せつけません。……塩で守るのではなく、酸っぱさで守る漬けなの」


 乳酸発酵。前世の言葉は、胸の中だけに置いた。


 この漬けの美点は、三つある。塩が少なくて済む。手順が、刻んで塩して押すだけで誰にでもできる。そして、冬のあいだ火を通さずに食べられる酸味と滋養──北の冬にいちばん欠ける生の野菜の力が、樽の中に生きたまま蓄えられる。


「……ほんとうに、これだけで?」


 マルテが、樽を覗き込んだ。


「ええ。白花の壺よりずっと簡単。……そのかわり、最初の三日が勝負よ。キャベツが水から顔を出したら、そこから傷む。毎日、押して、沈めて」


 マルテが、ふと手を止めた。


「それ……山の連中の、酸っぱい菜っ葉と、同じもんですか」


「ええ。同じ理屈の、由緒正しい漬けよ」


 わたくしは頷いた。隠す理由は、どこにもない。


「谷では六十年前から、これで冬を越してきたの。わたくしは、あの漬け菜を習って帳面に書き留めて、それをキャベツでやり直しているだけ。……先生は、谷よ」


 女たちが、顔を見合わせた。


 短い沈黙のあとで、マルテが、ぽつりと言った。


「……あの漬けで、あの人ら、あの飢饉を生き延びたんだったねえ」


 誰も、答えなかった。答えなかったけれど、その場の全員が同じことを思い出しているのが分かった。生き延びた者たちを、里が何と呼んできたか。


 樽に向き直ったマルテの手つきが、少しだけ丁寧になった。


「押して、沈める」


 マルテはまた前掛けに指で書いた。それから、顔を上げた。


「奥方様。これ、村の分も教わっていいですか。……うちの村、塩の買い付けで今年はどこも頭を抱えてて。漬けの塩が半分で済むなら、みんな泣いて喜びます」


「もちろんよ。そのために、樽をたくさん頼んであるの」


 中庭に村じゅうの樽を並べて、みんなで仕込む。その算段は、もうヨーゼフと詰めてあった。


 白花の壺との、いちばんの違いは、種の要らないことだ。


 麹は谷の蔵がなければ続かない。けれどこの漬けは、キャベツと塩さえあれば、どこの家でも、誰の手でも立ち上がる。広めるための漬け、と言ってもいい。北じゅうの台所に届く脚の速さは、こちらのほうが、ずっと上だ。


 仕込みの帳面に、ヨーゼフが新しい頁を起こした。


 キャベツの漬けが村じゅうに広まれば、冬の塩の三割が、一割に減る。塩麹の壺の節約と合わせて、来年の塩の買い付けは、値が四倍になっても今年より安く上がる勘定になる。老家令は、その数字を三度検算して、それから、めずらしく声を出して笑った。


「値を吊り上げた者は、さぞ首をかしげましょうな。締めたはずの北が、痩せもせずに」


 夕餉に、わたくしは試しに漬けた三日目の若い漬けを、少しだけ出した。


 まだ浅い。酸味はほのか、キャベツの甘みが際立つ頃合いだ。


 旦那様は、ひと箸で目を上げた。


「……酸っぱいのか、これは」


 わたくしは息を呑んだ。


 酸味。まだあの方の舌に戻っていない道。甘み、塩気、そして旨みの厚み。そこまでは開いた。けれど酸味は、まだのはずだった。


「……感じ、られますか」


「いや」


 あの方は、首を振った。


「酸っぱくは、ない。だが……匂いだ。鼻の奥で、なにかがつんとする。懐かしいような、妙な」


 匂い。


 酸の香りが、鼻から届いている。舌の道より先に、鼻の道が酸を捉えはじめている。


「それは、もうすぐ、という報せでございますよ」


 わたくしは、笑った。声が少し揺れた。


「舌より先に、鼻が思い出すのです。……冬の頃には、この漬けの酸っぱさがきっと分かるようになります。楽しみにしていてくださいまし」


「ふん。……ならば冬まで、樽の番でもするか」


 あの方は素っ気なく言って、二箸目を取った。


 厨房の隅では、カイが新しい木札を彫っていた。今日の仕込みの塩の目方と、押しの手順。


 樽が、増えていく。


 味噌の樽。塩麹の壺。豆腐の箱。そして、キャベツの樽。


 貯蔵室の棚は、いつのまにか時を溜めるものたちで埋まりはじめていた。王都の塩に頼らない北の冬の形が、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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