第五十九話 樽を見る夜
夜半に目が覚めて、水を飲みに降りた厨房で、わたくしは足を止めた。
灯りが、ひとつ、点いていた。
竈の残り火でも、カイの夜なべでもない。手燭の小さな火が、貯蔵室の入り口に揺れている。
旦那様だった。
寝間着の上に上着を羽織っただけの姿で、あの方は味噌の樽の前に立っていた。
声をかけそびれて、わたくしは柱の陰で足を止めた。
あの方は、ただ樽を見ていた。
手燭を掲げて、木札の文字を読むでもなく、蓋に触れるでもなく。夏に仕込まれた樽が静かに時を溜めていくのを、確かめるように。長いこと、じっと。
昼間、この貯蔵室には白い四角の箱も並ぶようになった。豆腐は評判が良い。良すぎて、困りごとがひとつ増えた。日持ちがしないのだ。作ったその日か、翌日まで。水を張って冷やしても三日は保たない。保存を尊ぶこの北で、それだけが玉に瑕だと、ハンナがこぼしていた。
夜の貯蔵室は涼しくて、豆と麹の淡い匂いがする。樽はもう、ひと月を越えた。中では豆と花が手を結び、ゆっくりと、ゆっくりと色を深くしはじめている頃だ。
わたくしは、そっと歩み出た。
「……旦那様」
あの方は振り返らなかった。わたくしの足音に、とうに気づいていたのだろう。
「起こしたか」
「いいえ。水を、飲みに」
わたくしは、隣に並んだ。手燭の灯りの輪の中に、樽と木札と、ふたりぶんの影。
「……眠れなくてな」
あの方は、樽を見たまま言った。
このところ、あの方の机には王都からの書状が増えている。ゲルト様と、夜遅くまで何かを詰めている日もある。中身を、わたくしは知らない。ただ、灯りの消えるのが遅い夜が少しずつ増えていた。
「悪い眠れなさでは、ない。ただ、目が冴えた。……それで、なぜだかこれを見に来ていた」
「樽の見張りなら、昼のうちにハンナとカイが」
「見張りに来たのではない」
少し、間があった。
「……見たく、なっただけだ」
手燭の火が、ちり、と小さく鳴った。
樽の腹に、ハンナの彫った木札が下がっている。仕込みの日付。豆の量。塩の段取り。はんな。ろって。
あの方の目が、その木札の上をゆっくりと通り過ぎた。
「これは、いつ食える」
「──早くて、春です」
わたくしは答えた。仕込みの日に言ったのと、同じ言葉を。
「ひと夏、ひと秋、ひと冬。雪の下で年を越して、雪解けと一緒に開きます。……長うございますよ」
「春か」
あの方は、樽を見たまま繰り返した。
それから、少しの沈黙のあとで、静かに言った。
「……おまえは、春も、ここにいるのか」
わたくしは、あの方の横顔を見た。
手燭の灯りに照らされた横顔は樽に向けられたままで、こちらを見ない。声は、いつもの静かな声だった。けれど、その問いはいつもの問いではなかった。
春もここにいるのか。
問いの形をした、別の何かだった。
わたくしは、樽に目を戻した。
「いますよ」
自分でも思いがけないほど、迷いのない声が出た。
「約束ですから」
「……約束?」
「この樽の、仕込み手でございますもの」
わたくしは木札を指さした。ろって、と彫られた拙い文字を。
「仕込んだ者には、開ける務めがございます。豆の按配も塩の段も、この樽のことはわたくしがいちばん知っている。……春に蓋を開けて、いちばん最初に味を見るのはわたくしの仕事です。誰にも、譲りません」
あの方は、しばらく黙っていた。
それから、ふ、と息だけで笑った。
「……そうか。務めか」
「ええ。務めです」
「なら、いい」
それきり、あの方は何も言わなかった。
ふたりで、もう少しだけ樽を見ていた。夜の貯蔵室は静かで、樽の中の小さな仕事の音は耳には届かない。届かないけれど、そこにあることだけは、ふたりとも知っていた。
「……冷える。戻るぞ」
あの方が、先に踵を返した。
階段の下で、手燭をわたくしに持たせ、自分は先に上がりかけて、それから足を止めた。
「リーゼロッテ」
「はい」
「……春の蓋は、ふたりで開ける。おまえの務めなら、俺は立ち会う務めだ」
返事を待たずに、あの方は階段を上がっていった。
わたくしは、手燭の灯りの中にひとり残された。
頬が熱かった。
春の蓋は、ふたりで。
樽の中で熟れていくものと、名前をつけていないものと。どちらも、春までは蓋の中だ。
わたくしは、貯蔵室を振り返った。
闇の中で、樽は静かに時を溜めていた。
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