表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【8/1完結予定】旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
58/95

第五十八話 北の雪

 山豆を一晩、水に浸ける。


 ふやけた豆を、石臼で挽く。ごり、ごり、と重い音を立てて、豆は白い泥になっていく。挽き役はカイが買って出た。蔵番見習いの細い腕が午前じゅう、臼を回し続けた。


「奥方様。これ、ほんとに食べものになるんですか」


「なるわ。……たぶん」


「たぶん」


「初めて作るのよ、この国で。だからたぶん」


 挽いた豆の泥を、たっぷりの湯で煮る。鍋の縁に泡が立ち、青くさい匂いが少しずつ、甘い豆の匂いに変わっていく。それを、布で漉す。


 布の下に落ちてくるのは、白いとろりとした汁。


「……乳みたいでございますね」


 ハンナが、目を丸くした。


「ええ。豆の乳よ」


 前世では、豆乳と呼んだ。豆の滋養が、いちばん飲みやすい形に溶け出したもの。これだけでも優しい一杯になる。けれど、今日の狙いはこの先だ。


 わたくしは、小皿の上の灰色の塩を見た。


 谷の苦汁塩。正しくは、そこから苦い力だけを引き出した水。にがり、とばあやは呼んでいたわ、と胸の中で確かめる。塩の樽の底に溜まる、しっとり湿ったところを湯で溶いて上澄みを取った。舌が縮むほど苦いこの水が今日の主役だった。


「豆の乳をもう一度、温めます。煮立てては、だめ。指を入れて我慢できる熱さの、少し上」


 鍋の豆の乳が、静かに湯気を立てる。


 わたくしは、木杓子でにがりの水を掬った。


 手が、少しだけ震えた。


 分量は、前世の記憶の底の頼りない数字しかない。豆の濃さも、にがりの強さも、あちらとは違う。ここから先は、この土地との初めての対話だ。


「──お願い」


 小さく呟いて、にがりを鍋へ回し入れた。杓子で、ゆっくり十文字を切る。それきり、かき混ぜない。蓋をして、待つ。


 ひと呼吸。ふた呼吸。


 蓋を、開けた。


「…………」


 鍋の中は、白い汁のままだった。


 カイが、覗き込む。


「……固まって、ません」


「ええ」


「失敗、ですか」


「──いいえ」


 わたくしは、鍋の縁をじっと見た。ほんのわずか、汁の面にもろもろとした影が浮きはじめている。固まりたがっている。けれど、力が足りない。


 にがりが薄いか、湯がぬるいか。


「カイ。竈に薪をひとつ。……ハンナ、にがりの水を、もう半杓子」


 鍋をそっと温め直す。頃合いを見て、追いのにがりを、糸のように細く回し入れる。


 今度は蓋をして、ゆっくり百を数えた。


 六十を数えたあたりで、ハンナが我慢できずに身を乗り出した。カイは竈の前で、拳を握って固まっている。


 百。


 蓋を、開けた。


 白い雲が、鍋の中に生まれていた。


 澄んだ淡い黄色の湯の中に、白いやわらかな塊がふわりふわりと寄り集まっている。豆の乳が、にがりの力で形を持ったのだ。


「……で、できた?」


「できたわ」


 わたくしは、笑った。頬が勝手にゆるんだ。


 寄せ集めた白い塊を布を敷いた木箱に流し込み、軽く重石を載せる。水が切れるのを待って、箱を開けると──そこに、白い、四角いものが、静かに鎮座していた。


 指で押すと、ふるりと揺れる。


 匂いは、ほのかな豆の甘み。


 豆腐──ばあやが、そう呼んでいたもの。湯と豆と、にがりだけでできる、いちばん白くて、いちばん優しい食べもの。


 その晩の膳に、わたくしはそれを出した。


 湯の中で温めた、白い四角。上に、刻んだ葱と塩麹をほんのひと匙。それだけの一皿。


 旦那様は、皿の上の白を長いこと見ていた。


「……これは」


「山豆でございます」


「豆? ……これがか」


 あの方は、匙で端をすくった。ふるり、と白が揺れる。口へ運ぶ。


 噛む──というほどの、仕事もない。舌と上顎で、ほろりとほどけて、豆の甘みだけが、あとに残る。


 旦那様の目が、すこし見開かれた。


「……やわらかいな。噛む前に消えた」


「噛む労働の、お休みの日でございます」


 わたくしは、笑った。


「肉の日があって、こういう日もある。どちらも大事でございますよ」


 旦那様は二口目をすくって、それから、皿の上の白をあらためて見た。


 窓の外は、夏の宵。けれど、あの方が見ているのは、皿の上の小さな白い四角だった。


「……妙なものだ」


 低い声が、言った。


「北の雪みたいだな。……夏の膳の上に、雪がある」


 わたくしは手を止めた。


 北の、雪。


 この土地の冬をあれほど重く覆う、あの白。飢えと寒さの色だった白が、いま、あの方の言葉の中で膳の上の優しい白に変わった。


「これは何からできている。豆と……あとは」


「お湯と、豆と」


 わたくしは答えた。


「それから、谷の塩の苦いところ。……召し上がったのは、お湯と豆と、この土地の力だけですよ。王都のものはひとつも入っておりません」


 旦那様の匙が止まった。


「……使えない塩、と言ったな。あれか」


「はい。あの苦さにしかできない仕事でした」


 しばらく、沈黙があった。


 それから、あの方は静かに三口目をすくった。


「白いな」


 ぽつりと、言った。


「王都の塩が減っていく蔵の隅から、こんな白が出てくるとはな。……北の雪は春に解けて、畑を潤す。おまえの雪は、腹を潤すか」


 その晩、あの方は白い四角をふたつ食べた。


 厨房では、カイが木札に今日の仕込みを彫っていた。豆の量。湯の加減。にがりの半杓子。それから、覚えたての字で料理の名前。


 とうふ。


 北に、新しい白が生まれた日だった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ