第五十八話 北の雪
山豆を一晩、水に浸ける。
ふやけた豆を、石臼で挽く。ごり、ごり、と重い音を立てて、豆は白い泥になっていく。挽き役はカイが買って出た。蔵番見習いの細い腕が午前じゅう、臼を回し続けた。
「奥方様。これ、ほんとに食べものになるんですか」
「なるわ。……たぶん」
「たぶん」
「初めて作るのよ、この国で。だからたぶん」
挽いた豆の泥を、たっぷりの湯で煮る。鍋の縁に泡が立ち、青くさい匂いが少しずつ、甘い豆の匂いに変わっていく。それを、布で漉す。
布の下に落ちてくるのは、白いとろりとした汁。
「……乳みたいでございますね」
ハンナが、目を丸くした。
「ええ。豆の乳よ」
前世では、豆乳と呼んだ。豆の滋養が、いちばん飲みやすい形に溶け出したもの。これだけでも優しい一杯になる。けれど、今日の狙いはこの先だ。
わたくしは、小皿の上の灰色の塩を見た。
谷の苦汁塩。正しくは、そこから苦い力だけを引き出した水。にがり、とばあやは呼んでいたわ、と胸の中で確かめる。塩の樽の底に溜まる、しっとり湿ったところを湯で溶いて上澄みを取った。舌が縮むほど苦いこの水が今日の主役だった。
「豆の乳をもう一度、温めます。煮立てては、だめ。指を入れて我慢できる熱さの、少し上」
鍋の豆の乳が、静かに湯気を立てる。
わたくしは、木杓子でにがりの水を掬った。
手が、少しだけ震えた。
分量は、前世の記憶の底の頼りない数字しかない。豆の濃さも、にがりの強さも、あちらとは違う。ここから先は、この土地との初めての対話だ。
「──お願い」
小さく呟いて、にがりを鍋へ回し入れた。杓子で、ゆっくり十文字を切る。それきり、かき混ぜない。蓋をして、待つ。
ひと呼吸。ふた呼吸。
蓋を、開けた。
「…………」
鍋の中は、白い汁のままだった。
カイが、覗き込む。
「……固まって、ません」
「ええ」
「失敗、ですか」
「──いいえ」
わたくしは、鍋の縁をじっと見た。ほんのわずか、汁の面にもろもろとした影が浮きはじめている。固まりたがっている。けれど、力が足りない。
にがりが薄いか、湯がぬるいか。
「カイ。竈に薪をひとつ。……ハンナ、にがりの水を、もう半杓子」
鍋をそっと温め直す。頃合いを見て、追いのにがりを、糸のように細く回し入れる。
今度は蓋をして、ゆっくり百を数えた。
六十を数えたあたりで、ハンナが我慢できずに身を乗り出した。カイは竈の前で、拳を握って固まっている。
百。
蓋を、開けた。
白い雲が、鍋の中に生まれていた。
澄んだ淡い黄色の湯の中に、白いやわらかな塊がふわりふわりと寄り集まっている。豆の乳が、にがりの力で形を持ったのだ。
「……で、できた?」
「できたわ」
わたくしは、笑った。頬が勝手にゆるんだ。
寄せ集めた白い塊を布を敷いた木箱に流し込み、軽く重石を載せる。水が切れるのを待って、箱を開けると──そこに、白い、四角いものが、静かに鎮座していた。
指で押すと、ふるりと揺れる。
匂いは、ほのかな豆の甘み。
豆腐──ばあやが、そう呼んでいたもの。湯と豆と、にがりだけでできる、いちばん白くて、いちばん優しい食べもの。
その晩の膳に、わたくしはそれを出した。
湯の中で温めた、白い四角。上に、刻んだ葱と塩麹をほんのひと匙。それだけの一皿。
旦那様は、皿の上の白を長いこと見ていた。
「……これは」
「山豆でございます」
「豆? ……これがか」
あの方は、匙で端をすくった。ふるり、と白が揺れる。口へ運ぶ。
噛む──というほどの、仕事もない。舌と上顎で、ほろりとほどけて、豆の甘みだけが、あとに残る。
旦那様の目が、すこし見開かれた。
「……やわらかいな。噛む前に消えた」
「噛む労働の、お休みの日でございます」
わたくしは、笑った。
「肉の日があって、こういう日もある。どちらも大事でございますよ」
旦那様は二口目をすくって、それから、皿の上の白をあらためて見た。
窓の外は、夏の宵。けれど、あの方が見ているのは、皿の上の小さな白い四角だった。
「……妙なものだ」
低い声が、言った。
「北の雪みたいだな。……夏の膳の上に、雪がある」
わたくしは手を止めた。
北の、雪。
この土地の冬をあれほど重く覆う、あの白。飢えと寒さの色だった白が、いま、あの方の言葉の中で膳の上の優しい白に変わった。
「これは何からできている。豆と……あとは」
「お湯と、豆と」
わたくしは答えた。
「それから、谷の塩の苦いところ。……召し上がったのは、お湯と豆と、この土地の力だけですよ。王都のものはひとつも入っておりません」
旦那様の匙が止まった。
「……使えない塩、と言ったな。あれか」
「はい。あの苦さにしかできない仕事でした」
しばらく、沈黙があった。
それから、あの方は静かに三口目をすくった。
「白いな」
ぽつりと、言った。
「王都の塩が減っていく蔵の隅から、こんな白が出てくるとはな。……北の雪は春に解けて、畑を潤す。おまえの雪は、腹を潤すか」
その晩、あの方は白い四角をふたつ食べた。
厨房では、カイが木札に今日の仕込みを彫っていた。豆の量。湯の加減。にがりの半杓子。それから、覚えたての字で料理の名前。
とうふ。
北に、新しい白が生まれた日だった。
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