第五十七話 減っていく白
塩蔵の扉を開けて、ヨーゼフはしばらく黙っていた。
棚の上の塩の壺が並んでいる。半分は、空だ。
「……奥方様。ご覧の通りにございます」
老家令は帳面を開いた。几帳面な字が、容赦のない数字を並べている。
「三倍の値になってから、買い足しは最少に抑えてまいりました。城の料理の塩は塩麹と漬け菜のやりくりで、以前の六割まで減らせております。……それでも」
骨ばった指が、頁の一点を叩いた。
「村の壺が、増えました」
わたくしは、その数字を見つめた。
村の塩麹の壺は、七つが十二になっていた。マルテの評判が隣村まで歩いて、習いに来る女が絶えない。喜ばしいことだ。喜ばしいことの、はずだった。
「仕込みには、塩が要ります。少なくて済むとはいえ、壺の数だけは確かに。……村の塩の買い付けが、この夏、例年の一割五分増しに」
普及が、進むほど。
塩の需要が、増える。
わたくしは唇を噛んだ。塩麹は、料理に使う塩を減らす。けれど、仕込みの立ち上げにはまとまった塩が要る。壺が増える速さに、節約が追いつかない。いずれ壺が回りはじめれば、村全体の塩は減っていく。けれど、その「いずれ」までの峠を、この蔵の白い山は越えられるのか。
「来年の値のことも、ございます」
ヨーゼフの声が、低くなった。
「商い仲間の文では……この秋にも、もうひと上げ来るのではと。三倍が、四倍に」
いつかの便りの噂が、現実の輪郭を持ちはじめていた。
夕刻、執務室で旦那様に数字を並べた。
あの方は帳面を長いこと見て、それから口を開いた。
「──削るところは、もう、ないのだな」
「料理の塩は、六割まで。これ以上削れば冬の漬け込みが痩せます。保存が痩せれば、春に飢えます」
「村の壺を、止めるか」
「それは」
わたくしは、言葉に詰まった。
止められる。奥方様のお声があれば、と言って村は従うだろう。マルテの隣村の女たちに、来年まで待ってと言えばいい。
けれど、それは。
「……止めたく、ありません」
わたくしは、正直に言った。
「歯の悪い人が、七年ぶりに肉を食べたのです。粥ばかりだったお姑さんが太りはじめたのです。あの壺は、贅沢の壺ではありません。……あれを止めるのは、いちばん最後にしとうございます」
旦那様はわたくしをじっと見て、それから、ふ、と息を吐いた。
「言うと思った」
「……申し訳ございません」
「責めておらん。俺も、同じ考えだ」
あの方は、帳面を閉じた。
「北の食卓が変わりはじめている。それを、塩の値ごときで止めてたまるか。……問題は塩だ。王都の塩に、頼らん道はないのか」
王都の塩に、頼らない道。
わたくしの頭の中で、何かがことりと音を立てた。
塩なら、あるのだ。この北に。使えない塩、と呼ばれているものが。谷の湯から採れる、あの苦い灰色の塩が。
肉を漬ければ腐り、菜を漬ければぬめる。ゲルト様がそう言った。そのとおりなのだろう。あれは、漬け物のための塩にはなれない。
けれど──苦い、ということは。
海の水を煮詰めたあとに残る、あの、にがいもの。前世の記憶の底で一度だけ光って、書状の影に消えたあの連想。
あの、白くて、やわらかい――。
名前は、まだ言わない。確かめてからだ。けれど、もしあの苦さがわたくしの思うものなら。山豆とあの苦い塩とで、この北に、誰も見たことのない白い一皿が作れる。
「旦那様」
声が上ずった。
「湯霧の谷の塩を……あの、苦くて使えないと言われている塩を、樽でひとつ取り寄せていただけませんか」
旦那様の眉が、寄った。
「あれは、漬け物には使えんぞ」
「漬け物には、使いません」
わたくしは、まっすぐにあの方を見た。
「あの苦さにしか、できない仕事が、あるかもしれないのです。……確かめたいことが、ございます。うまくいけば──使えない塩が、北の宝に変わります」
旦那様は、しばらくわたくしを見ていた。
それから、机の呼び鈴を鳴らした。
「ゲルト。谷へ、遣いを」
三日後、カイが荷車とともに峠を越えてきた。
荷台には、灰色の塩の樽。それから、少年自身の小さな荷物。
「爺様が、行って学んでこいと」
カイは、照れくさそうにうつむいた。
「蔵番は、蔵のことだけ知ってればいい時代じゃないと。蔵が生き返って、谷に手が戻ったから、行ってこいって。城の台所で、字と帳面と、それから奥方様の仕込みを覚えてこいって。……あの、しばらく置いてもらえますか」
わたくしは、思わず笑顔になった。
「もちろんよ。ハンナが、鍛えてくれるわ」
厨房の奥で、ハンナが腕まくりをするのが見えた。
夕餉のあと、わたくしは灰色の塩を小皿に取って、ひと粒舐めてみた。
しょっぱい。そして、その奥に、舌の根を掴むような強い苦み。
──にがり。
間違いない。この苦さは、あれだ。
白い山が減っていく塩蔵の隅で、灰色の樽だけが静かに出番を待っていた。
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