第五十六話 冬を仕込む夏
夏が来た。
北の夏は、短くて慌ただしい。日は長く、畑は一日ごとに膨らみ、人は冬の支度に追われはじめる。この土地では、夏とは冬を仕込む季節の名前だった。
わたくしには、この夏、どうしても仕込みたいものがあった。
味噌――ばあやがそう呼んでいた、豆の醸しものだ。
山豆──谷と里の境の痩せた土地でも育つ、固くて小さな豆。里では家畜の餌か、飢えた年の腹ふさぎにしか使われてこなかった豆だ。けれど前世の知恵は知っている。豆と麹と塩を合わせて寝かせれば、それは来年からの冬の食卓を支える、味の柱になる。
塩の乏しい北で、少ない塩を何倍もの滋味に変える術。
汁に溶けば体を温め、菜に塗れば飯が進み、肉を漬ければ日持ちがする。そして何より──発酵の旨みは、あの方の焼かれた舌に、いちばん深く届く道だ。
「豆と、白花で、味の芯を仕込みます」
朝の厨房で、わたくしは宣言した。
「仕上がりは──早くて、春です。……長い仕込みです。けれど、できあがれば、塩の壺の減りが目に見えて変わります」
ハンナが、腕まくりをした。
「豆は、どれほど」
「まずは、樽にひとつ。……うまくいったら、来年は村じゅうの分を」
山豆は、ヨーゼフが村々から買い集めてくれた。家畜の餌の値で買える豆が味の柱になると聞いて、老家令の算盤は久しぶりに嬉しそうな音を立てた。
仕込みは、豆を煮るところから始まる。
固い山豆を一晩水に浸け、湯の中で、指で潰れるまでじっくりと。厨房じゅうに、豆の甘い匂いが立ちこめた。
潰した豆に、麹と、塩。
ここで、わたくしは手を止めてハンナと顔を見合わせた。
「……塩は」
「ええ。段で、まいりましょう」
塩麹の壺で学んだことだ。白花は六十年、塩を知らずに育った花。いきなり強い塩に当てれば、縮こまる。豆の醸しの塩は、本来なら仕込みで一度に入れるものだけれど、この北の花には、この北の花の慣らし方がある。
最初の塩は控えめに。ひと月見て、花の働きを確かめて二度目の塩。
前世の蔵の割と、この土地の花の性質。ふたつを繋ぐのは、帳面と舌だ。
樽の底に、潰した豆を敷き詰める。麹を混ぜ、塩を振り、掌で押して空気を抜く。また豆、麹、塩。層を重ねて樽の肩まで。
最後に布をかけ、重石を載せた。
「……あとは」
「ええ。待つだけ」
ハンナと二人、粗塩のついた手のまま樽を眺めた。
甘酒は半日。塩麹は十四日。そして味噌は──ひと夏、ひと秋、そしてひと冬。
時をかけて醸すものの、いちばん長い橋だ。この樽は、雪の下でひと冬を越す。夏の豆の力を抱えたまま、静かに。熟れて開くのは、雪をひとつ越えた先の、春だ。
「ハンナ。この樽の札に、名前を」
カイに倣って、わたくしたちも木札を作ることにした。仕込んだ日、豆の量、塩の段取り。それから、仕込んだ者の名前。
ハンナが、太い指で慣れない文字を一画ずつ彫った。
はんな。ろって。
わたくしの名前が、ハンナの手で樽の札に刻まれた。それを見ていたら、なぜだか少し泣きそうになった。
その晩、わたくしは旦那様の執務室を訪ねた。
味噌の樽の報告。それから──もうひとつ、決めてきたことがあった。
「旦那様。お耳に入れておきたいことが、ございます」
わたくしは、膝の上で手を揃えた。
「わたくしの家の──グランツの家の、恥のお話です」
旦那様が、書類から顔を上げた。
「父の家には、借財がございます。先日、父の家令から遠回しな無心の手紙が参りました。……お見せもせず、黙っておりました。まずは自分で調べてからと思いましたので」
旦那様は、何も言わずに聞いていた。
「額も貸し手も、およそのところは分かりました。ですが、お助けいただきたくて申し上げるのではありません。その逆です」
わたくしは、顔を上げた。
「この件に、この城の銭を使っていただきたくないのです。塩の値で締められている台所から、わたくしの実家に流れる銭など一文もあってはなりません。……ただ、隠しごとにはしたくありませんでした。それだけです」
長い沈黙のあとで、旦那様は短く言った。
「……分かった」
それから、少しだけ間を置いて。
「言いにくいことだったろう」
「……はい」
「よく、言った」
それだけだった。それだけで、十分だった。
助けを申し出るのでも詮索するのでもなく、ただ、打ち明けたことを受け取ってくれた。この方は、そういう受け取り方のできる人だった。
部屋へ戻る廊下で、窓の外の夏の月を見た。
樽の中では、豆と花がゆっくりと手を結びはじめている。
春までに、熟れますように。
いろんなものが、春までに。
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