第五十五話 疑いの頁
夏の入りの雨が、三日続いた。
雨は、仕込みには悪くない。壺の中の温度がゆるやかになって、麹はゆっくり働く。畑には恵み、竈には少し湿気りの厄介。厨房の暮らしは、天気とともにある。
雨の合間に、谷から報せが来た。蔵の修繕が終わったという。新しい梁、葺き直した屋根、継ぎ直した床。ヨルンは杖をついて蔵をひと巡りし、それから木札をひとつ、新しく下げたそうだ。
カイの手紙には、その木札の文言が誇らしげに書き写してあった。
──この年、蔵、よみがえる。里の殿と、重湯の奥方の力による。
蔵の歴史の木札に里の人間の名が刻まれたのは、初めてのことだという。
わたくしは、その手紙を旦那様に見せた。あの方は長いこと木札の文言を見て、それからひどく短く言った。
「……重湯の奥方、か」
「あら。良い名でございましょう」
「ふん」
鼻を鳴らした横顔が、笑っていた。
名は、人が呼ぶうちに育つ。重湯の奥方。悪くない呼ばれ方だと、わたくしも思う。始まりの一杯の名前が、そのまま、わたくしの名前になった。
良い報せは続いた。村の壺は七つになり、マルテは近隣の女たちの師匠格になった。畑の豆は花をつけ、村の仕込みの算段も立ちはじめた。
そして、悪い報せも来た。
夕刻、ヨーゼフがわたくしの部屋を訪ねてきた。
老家令は扉を閉め、声を低くした。
「奥方様。……お尋ねの件、商い仲間から、返事が参りました」
わたくしは、手を止めた。
父の借財のこと。手紙の翌日、わたくしはヨーゼフにだけ調べを頼んでいた。家の恥を晒すことになるけれど、この老家令の口の堅さは、北へ来てからこちら、よく知っている。
「グランツ伯爵家の借財は……確かに、ございます。額は、家の身代に対して軽くはございません。期限の繰り延べを、二度」
「……お相手は」
ヨーゼフは、少し言い淀んだ。
「王都の金貸しにございます。表向きはリンデン商会という両替屋。ですが」
老家令の声が、さらに低くなった。
「商い仲間の調べでは、その両替屋の後ろ盾は──ザルツ商会にございます」
部屋の空気が、止まった。
「リンデンの株の過半は、ザルツの先代が買っております。いまは当代の──つまり、ザルツ商会の身内も同然の金蔵で。……グランツ様のご借財は、回りまわってザルツの帳面に載っているものかと」
わたくしは、椅子の背にそっと手をついた。
ザルツ。
わたくしを北へ追いやった一派と同じ名。北の塩を三倍に吊り上げた商会。そして、お父様の借財の貸し手。
「……いつからの、借財か、分かって?」
「三年ほど前からと。……ちょうど、先の戦の軍役の費えでどこの家も苦しかった時分にございます」
三年前。
また、三年前だ。
ヨーゼフが下がってから、わたくしは長いこと、窓の外の雨を見ていた。
それから、帳面を出した。いちばん後ろの疑いの頁。
書きつけてきた符合が並んでいる。塩の値の段差は三年前から。あの方の毒も、三年前。婚約破棄の芝居に、ザルツの娘。北への輿入れ。三倍の塩。
その下に今夜、新しい一行を書き足す。
──父の借財、三年前から。貸し手の後ろは、ザルツ。
筆を持つ手が、少し震えた。
偶然が、またひとつ重なった。いいえ。もう、偶然と呼ぶには重なりすぎている。
グランツの家は三年前から、ザルツに首根っこを押さえられていた。だとしたら、あの婚約破棄も、わたくしの輿入れも、お父様が抗えなかったのは王命だからだけでは、なかったのかもしれない。借財の鎖で、はじめからあの人たちの言いなりになるしか。
お父様。
あなたは、どこまで知っていてわたくしを北へ送ったのですか。
それとも、何も知らされないまま、鎖だけを握られていたのですか。
窓の外で、雨が強くなった。
わたくしは頁の上の墨が乾くのを待って、静かに帳面を閉じた。
繋がりはじめた符合は、まだ誰にも見せられない。確かな証しは、ひとつもない。あるのは、三年前という時とザルツという名が、何度も何度も同じ場所に現れるという、それだけのこと。
けれど、それだけのことが、こんなにも重い。
──王都。
いつか、行かなければならない日が来る気がした。
この符合の糸を、ひとつずつ確かめに。お父様の鎖の正体を、この目で見に。そして、もしも、あの方の毒とこの糸がどこかで結ばれているのなら──。
わたくしは帳面を文箱の底へしまった。父の手紙の、上に。
廊下の向こうから、夕餉を報せるテアの声がした。
わたくしは立ち上がって、鏡の前で頬を両手で、ぱん、と挟んだ。
今夜の膳は、鱒の塩麹焼き。あの方の舌に初めての魚だ。
疑いは、頁の中に。匙は、手の中に。
どちらも、わたくしの戦いだった。
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