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【完結】旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


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第五十四話 壺のある家

 村の壺は、ふたつが、五つになった。


 マルテの壺が最初に熟れた。塩を三度に分ける段仕込みを、あの人は几帳面に守った。十四日目に蓋を開けて、恐る恐る舐めて、それから粉挽き小屋じゅうに聞こえる声を上げたという。


 三日後、マルテは勝手口に鍋を抱えてやってきた。


「奥方様。……うちの人が、肉を食べました」


 鍋の中には、煮込みの残りが大事そうに入っていた。


「歯が悪いから、崩れるまで煮て。そしたら、匙で。……七年ぶりです。あの人が肉をひと切れ、丸ごと食べたのは」


 マルテの目が、赤かった。


「食べながら、泣くんです。うまい、うまいって。……歯の抜けた口で、うまいって」


 わたくしは、鍋の煮込みをひと匙、味見させてもらった。


 塩の加減は、少し強い。煮込みも、少し長い。けれど、麹の旨みがちゃんと肉の芯まで届いていた。七年ぶりの肉を食べさせたい一心の、力のこもった味だった。


「……美味しいわ、マルテ。とても」


「ほんとですか」


「ええ。次は、塩をほんの少しだけ控えると、麹の甘みがもっと出るわ」


 マルテは真剣な顔で頷いて、前掛けの端に指でその言葉を書きつける真似をした。字は、書けないのだという。けれどこの人は、体で覚える。粉挽きの女房の四十年が、そういう覚え方をこの人に叩き込んでいる。


 壺は、広がっていく。


 マルテの隣家へ。その親戚へ。井戸端の話を聞いた村はずれの家へ。


 けれど、広がる先には軋みも待っていた。


 その日の夕方、村の道で、わたくしは言い争いの声を聞いた。


 マルテと、年寄りの男だった。村の粉倉の番人で、確か村でいちばんの古株だ。


「──だから、あれは山者の呪いのもんだと言うとるんだ」


 男の声は、怒りというより怯えていた。


「白い黴を食わせるだと。正気か。おまえの亭主はいまに腹の中から腐るぞ。教会様がなんと言うた。穢れは穢れだ。昔からそう決まっとる」


「決まっとるって、誰が決めたんです」


 マルテの声も震えていた。怯えではない。怒りで。


「うちの人は、七年ぶりに肉を食ったんだ。泣いて食ったんだよ。あんた、あれを呪いだと言うのかい。だったらわたしは呪いで構わない。亭主が飯を食って泣く呪いなら、なんぼでもかけてもらう」


「おまえ……」


「触ったこともないくせに」


 マルテは、言い放った。


「あんた、白花に触ったことがあるのかい。匂いを嗅いだことは。ないだろう。わたしはある。あったかいんだ、あれは。生きてるんだ。触りもしないで、呪いだの穢れだの──」


 わたくしは、物陰から出ていかなかった。


 出ていっては、いけない場面だった。


 これは、わたくしの戦いではない。奥方様が出ていけば、身分が言葉を封じてしまう。この言い争いは、村の中で、村の言葉で闘われなければいけない。


 マルテは鼻息も荒く、粉倉の男に背を向けた。


 男は何か言いかけて、言えずに、つばを吐いて歩き去った。


 ──触ったこともないくせに。


 わたくしは、胸の中でマルテの言葉を繰り返していた。


 ハンナが白花に触れた朝、あの人は言った。怖がっていたんでございますね、よく知りもせずに、と。マルテは同じことを、喧嘩の言葉で言った。知らないくせに。触ってもいないくせに。


 偏見と戦う言葉は、教義でも理屈でもなかった。触った、という事実。あったかかった、という感触。亭主が泣いて食った、という記憶。


 手のひらの言葉だけが、偏見と同じ土俵で殴り合える。


 城へ戻る道すがら、畑の向こうに粉倉の男の後ろ姿が見えた。


 とぼとぼと、ひとりで歩いていた。曲がった背中が、夕日で長い影を引いていた。


 あの人は、悪人ではない。


 昔からそう決まっとる──あの言葉に、あの人の一生が入っている。決まりごとを守って六十年、生きてきた人。決まりごとの外へ出る怖さを、いちばん知っている人。


 ハンナも、そうだった。


 四十年の物差しは、一朝には変わらない。変わらないことを責めても、始まらない。


 夕餉の席で、村の壺の話をした。


 旦那様は、匙を止めて聞いていた。マルテの亭主の七年ぶりの肉のくだりで、あの方は、少しだけ目を細めた。


「……七年か。俺より、年季が上だな」


「ええ。ですから、先を越されました。泣いて食べる、というところは」


「俺は泣いておらん」


「あら。左様でございましたかしら」


 旦那様は、鼻を鳴らして、匙を進めた。その耳が、ほんの少し赤いのを、わたくしは見なかったことにした。


 いつか、あの曲がった背中が壺の前に立つ日が、来るだろうか。


 来るかもしれない。来ないかもしれない。


 それでも、村には今夜、五つの壺が静かに熟れていく。


 壺のある家から、順番に食卓が変わっていく。


 急がない。


 醸すものは、ゆっくりとしか育たないのだから。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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