表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
53/130

第五十三話 習いに来る手と、王都の便り

 肉の噂は、三日で村を一巡りした。


 御領主様が、肉を召し上がった。三年ぶりに。奥方様の白花の漬け床で。


 噂の走る速さは、いつもと同じだった。違ったのは、その先だ。四日目の朝、厨房の勝手口に村の女がふたり、立っていた。


「奥方様。……その、白花の塩の床とやらを」


 年かさのほう——粉挽きの女房のマルテが、思い切ったように言った。


「あたしらにも、教えてもらえませんか」


 わたくしは、一瞬、言葉を失った。


 教えてくれ、と。里の女が、白花のことを。あの、穢れの花のことを。


「……うちの人が、歯が悪くて」


 年かさの女は、目を伏せて続けた。


「固いものが噛めなくなって。塩漬けの肉なんて、もう何年も。……けど、御領主様が召し上がったって聞いて。あの、匙で切れる柔らかさだって。うちの人にも、もういっぺん肉を」


 隣の若いほうが、頷いた。


「うちは、姑が。……冬から粥ばっかりで、痩せる一方なんです」


 わたくしは、ふたりの手を見た。


 あかぎれの、節の太い、働く者の手。恐れよりも先に、家族の口を思って穢れの敷居をまたいできた手だった。


「……どうぞ、お入りになって」


 わたくしは、勝手口を大きく開けた。


「教えるなんて、大げさなことではないの。麹と塩と水を混ぜて、待つだけ。……ハンナ、壺をふたつ出してちょうだい」


 ハンナが、心得顔で棚へ向かった。その足取りの迷いのなさに、わたくしは少し笑ってしまった。四十年白花を恐れた人が、いまや配る側に立っている。


 女たちは、恐る恐る、それでも真剣に壺の中を覗き込んだ。


「これが、白花……」


「思ったより、その、ふつうですね」


「ふつうよ」


 わたくしは、笑って頷いた。


「腐らせるのではなくて、醸すの。塩を三度に分けて、花を慣らして。……歯の悪い方には、肉を漬けてとろ火で煮て差し上げて。匙で切れるところまで」


 帰りぎわ、マルテが深々と頭を下げた。


「奥方様。……あの、うちの人の肉が、うまく漬かったら」


「ええ」


「……谷の人に、礼を言いに行ってもいいもんでしょうか。花の、元の持ち主に」


 わたくしは、胸を突かれた。


 礼を。里の者が、谷へ。


「……きっと、喜ばれるわ」


 声が、少し掠れた。


 マルテたちの背中を見送りながら、わたくしはあの雨の朝のハンナを思い出していた。触れる手だ。偏見を崩すのは、論でも奇跡でもなく、家族の口を思って敷居をまたぐこの手なのだ。


 昼過ぎ、王都からの便りが届いた。


 二通あった。


 一通は、ヨーゼフ宛の商いの報せ。あの老家令が長年つきあいのある、商人仲間からのものだった。夕餉の前に旦那様の執務室で読み合わせがあり、わたくしも呼ばれた。


「他の塩商人は、動かんそうだ」


 旦那様は、書状を卓に置いた。


「ザルツ商会の縄張りを侵せば、王都で商いができなくなる。どの商会もそれを恐れている。……北への塩は、あの商会が握ったままだ」


「値は」


「三倍のまま、動かん。むしろ」


 旦那様は、書状の一節を指で示した。


「来年は、さらに上がるという噂が、もう流れているそうだ」


 締めつけは、続く。緩むどころか、強くなる。それを見越して、この夏の仕込みを組まなければならない。わたくしは頭の中の算盤を、また弾き直した。


 もう一通は──わたくし宛だった。


 差出人の名を見て、指が止まった。


 グランツ伯爵家。……お父様の、家令の名。


 部屋に戻って、ひとりで封を切った。


 時候の挨拶。お父様がわたくしの身を案じておられること。それから、遠回しな、けれど読み間違えようのない一文。


 ──家の借財のこと、旦那様におかれてもご賢察を賜りたく。


 借財。


 わたくしは便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。


 輿入れのとき、お父様は多くを語らなかった。王家の命に抗える家ではなかった。それだけだと、思っていた。けれど、この一文は別のことを言っている。グランツの家には、借財がある。そしてその返済に、婚家の──アイゼンファルクの助けを期待している。


 娘を北へ送った家が、その娘の婚家に金の無心をしている。


 頬が熱くなった。恥ずかしさで。


 この手紙を、旦那様に見せるべきだろうか。見せれば、あの方はきっと何も言わずに応じてしまう。妻の実家の借財くらい、と。塩の値で締めつけられている、この北の台所から。


 ──いやだわ。


 わたくしは、便箋を畳んだ。


 わたくしは、この城の妻だ。けれど、それは跡目の体裁のための婚姻で。あの方の優しさに、実家の借財まで寄りかかっていいはずがない。


 寄りかかりたく、ない。


 そう思ってから、わたくしは自分の胸の中のその声に、少したじろいだ。


 体裁のための妻なら、家同士の金の話はむしろ当たり前のことのはずだ。それを、いやだ、と感じるのは。あの方に、金の繋がりではないものを──。


 わたくしは、その先を考えるのをやめた。


 手紙は、文箱のいちばん底へ。


 借財の額も事情も、まだ何も分からない。調べもせずに、あの方の手を煩わせることはしない。まずは、わたくしが知ることからだ。


 窓の外は、もう初夏の色だった。


 畑の緑が、日ごとに濃くなっていく。谷の蔵は屋根が葺き上がり、村には塩麹の壺がふたつ育ちはじめている。


 北は、ゆっくりと良い方へ動いている。


 王都の影だけが、少しずつ濃くなっていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ