第五十三話 習いに来る手と、王都の便り
肉の噂は、三日で村を一巡りした。
御領主様が、肉を召し上がった。三年ぶりに。奥方様の白花の漬け床で。
噂の走る速さは、いつもと同じだった。違ったのは、その先だ。四日目の朝、厨房の勝手口に村の女がふたり、立っていた。
「奥方様。……その、白花の塩の床とやらを」
年かさのほう——粉挽きの女房のマルテが、思い切ったように言った。
「あたしらにも、教えてもらえませんか」
わたくしは、一瞬、言葉を失った。
教えてくれ、と。里の女が、白花のことを。あの、穢れの花のことを。
「……うちの人が、歯が悪くて」
年かさの女は、目を伏せて続けた。
「固いものが噛めなくなって。塩漬けの肉なんて、もう何年も。……けど、御領主様が召し上がったって聞いて。あの、匙で切れる柔らかさだって。うちの人にも、もういっぺん肉を」
隣の若いほうが、頷いた。
「うちは、姑が。……冬から粥ばっかりで、痩せる一方なんです」
わたくしは、ふたりの手を見た。
あかぎれの、節の太い、働く者の手。恐れよりも先に、家族の口を思って穢れの敷居をまたいできた手だった。
「……どうぞ、お入りになって」
わたくしは、勝手口を大きく開けた。
「教えるなんて、大げさなことではないの。麹と塩と水を混ぜて、待つだけ。……ハンナ、壺をふたつ出してちょうだい」
ハンナが、心得顔で棚へ向かった。その足取りの迷いのなさに、わたくしは少し笑ってしまった。四十年白花を恐れた人が、いまや配る側に立っている。
女たちは、恐る恐る、それでも真剣に壺の中を覗き込んだ。
「これが、白花……」
「思ったより、その、ふつうですね」
「ふつうよ」
わたくしは、笑って頷いた。
「腐らせるのではなくて、醸すの。塩を三度に分けて、花を慣らして。……歯の悪い方には、肉を漬けてとろ火で煮て差し上げて。匙で切れるところまで」
帰りぎわ、マルテが深々と頭を下げた。
「奥方様。……あの、うちの人の肉が、うまく漬かったら」
「ええ」
「……谷の人に、礼を言いに行ってもいいもんでしょうか。花の、元の持ち主に」
わたくしは、胸を突かれた。
礼を。里の者が、谷へ。
「……きっと、喜ばれるわ」
声が、少し掠れた。
マルテたちの背中を見送りながら、わたくしはあの雨の朝のハンナを思い出していた。触れる手だ。偏見を崩すのは、論でも奇跡でもなく、家族の口を思って敷居をまたぐこの手なのだ。
昼過ぎ、王都からの便りが届いた。
二通あった。
一通は、ヨーゼフ宛の商いの報せ。あの老家令が長年つきあいのある、商人仲間からのものだった。夕餉の前に旦那様の執務室で読み合わせがあり、わたくしも呼ばれた。
「他の塩商人は、動かんそうだ」
旦那様は、書状を卓に置いた。
「ザルツ商会の縄張りを侵せば、王都で商いができなくなる。どの商会もそれを恐れている。……北への塩は、あの商会が握ったままだ」
「値は」
「三倍のまま、動かん。むしろ」
旦那様は、書状の一節を指で示した。
「来年は、さらに上がるという噂が、もう流れているそうだ」
締めつけは、続く。緩むどころか、強くなる。それを見越して、この夏の仕込みを組まなければならない。わたくしは頭の中の算盤を、また弾き直した。
もう一通は──わたくし宛だった。
差出人の名を見て、指が止まった。
グランツ伯爵家。……お父様の、家令の名。
部屋に戻って、ひとりで封を切った。
時候の挨拶。お父様がわたくしの身を案じておられること。それから、遠回しな、けれど読み間違えようのない一文。
──家の借財のこと、旦那様におかれてもご賢察を賜りたく。
借財。
わたくしは便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
輿入れのとき、お父様は多くを語らなかった。王家の命に抗える家ではなかった。それだけだと、思っていた。けれど、この一文は別のことを言っている。グランツの家には、借財がある。そしてその返済に、婚家の──アイゼンファルクの助けを期待している。
娘を北へ送った家が、その娘の婚家に金の無心をしている。
頬が熱くなった。恥ずかしさで。
この手紙を、旦那様に見せるべきだろうか。見せれば、あの方はきっと何も言わずに応じてしまう。妻の実家の借財くらい、と。塩の値で締めつけられている、この北の台所から。
──いやだわ。
わたくしは、便箋を畳んだ。
わたくしは、この城の妻だ。けれど、それは跡目の体裁のための婚姻で。あの方の優しさに、実家の借財まで寄りかかっていいはずがない。
寄りかかりたく、ない。
そう思ってから、わたくしは自分の胸の中のその声に、少したじろいだ。
体裁のための妻なら、家同士の金の話はむしろ当たり前のことのはずだ。それを、いやだ、と感じるのは。あの方に、金の繋がりではないものを──。
わたくしは、その先を考えるのをやめた。
手紙は、文箱のいちばん底へ。
借財の額も事情も、まだ何も分からない。調べもせずに、あの方の手を煩わせることはしない。まずは、わたくしが知ることからだ。
窓の外は、もう初夏の色だった。
畑の緑が、日ごとに濃くなっていく。谷の蔵は屋根が葺き上がり、村には塩麹の壺がふたつ育ちはじめている。
北は、ゆっくりと良い方へ動いている。
王都の影だけが、少しずつ濃くなっていた。
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