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【完結】旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


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第五十二話 三年ぶりの肉

 肉を出すと決めた日、わたくしは夜明け前から厨房にいた。


 豚の肩の肉。ヨーゼフが帳面と睨み合って、いちばん良いところを分けてくれた。それを塩麹に、まる二日漬けてある。


 布を開くと、肉は色を深くしてしっとりと重かった。麹の白が繊維の間に染み込んでいる。指で押すと、漬ける前とはまるで違う柔らかな戻りがあった。


 麹は、二日かけて肉の中で働いた。固い繊維をほどいて、崩して、旨みに変えて。


 けれど、それでも肉は肉だ。


 噛まなければ、食べられない。


 三年。あの方は、噛むことをほとんどしていない。重湯に、粥に、すり流しに軟菜。わたくしが組んできた階段は、飲み込む力の階段だった。噛む力は、その先にある。三年使わなかった顎は、三年寝ていた足と同じ。いきなり走らせてはいけない。


 だから、煮る。


 塩麹の肉を、香味の野菜とたっぷりの水で、とろ火で。煮汁がまるくなって、肉の繊維が匙で押せばほどけるところまで。けれど、形は残す。崩れる寸前の、噛むという仕事がちゃんと残る柔らかさ。


 匙で切れて、歯で味わえる。その一点を狙う。


「奥方様。灰汁が」


「ええ。掬って。……火は、そのまま」


 ハンナと二人、鍋の前で午後じゅうを過ごした。竈の火を睨み、灰汁を掬い、煮汁を舐め、塩を一粒ずつ足すような細かさで味を作っていく。


 塩気の戻った舌に届ける、最初の煮込みだ。濃くしてはいけない。薄すぎても届かない。三年ぶりの塩味が三年ぶりの肉にまとう、その加減。


 夕暮れどき、鍋の中で肉はほろりと揺れていた。


 夕餉の席に、わたくしはその一皿を運んだ。


 深皿に、煮汁と肉がひと切れ。付け合わせはいつもの蒸し蕪。それだけの静かな膳だ。


 旦那様は、皿を見た。


 それから、わたくしを見た。


「……肉か」


「はい」


 わたくしは、向かいに座った。


「塩麹に二日漬けて、午後じゅう煮ました。匙で切れます。……ゆっくり噛んでくださいまし。急がずに。合わなければ、残してくださってかまいません」


 旦那様は、しばらく皿を見ていた。


 三年。この方の膳に、肉の塊が載ったことは一度もない。挽いて団子にしたものも、まだ出したことがなかった。団子から、が定石だ。けれどこの方に要るのは、肉の形をした肉。膳の上の姿も薬のうちだから。目の前の一皿がどれほど遠い場所から来たか、この方は誰よりも知っている。


 匙が、動いた。


 肉の端に、匙の縁が当てられる。ほろり、と繊維がほどけて、ひと口分が切り分けられた。


 煮汁ごと、口へ。


 わたくしは、手を膝に置いて待った。


 あの方の顎が、ゆっくりと動いた。


 一度。二度。三度。


 噛んでいる。


 三年使わなかった顎が、肉の繊維を噛んでいる。ゆっくりと、慎重に、けれど確かに。喉が動いて、ひと口目が降りていった。


 旦那様は、匙を持ったまま目を閉じた。


 長い息が、鼻から漏れた。


「……肉だ」


 掠れた声だった。


「肉の味が、する。……塩と、脂と。それから、これは」


「麹でございます。二日、肉の中で働きました」


「……ああ」


 目が、開いた。


「分かる。甘酒の、あの奥の甘さと同じものがいる。……肉の中に」


 二口目は、少しだけ速かった。三口目は、もう少し。


 噛むたびに、顎が思い出していくのが見えるようだった。歯応えという言葉の意味を。飲み込むだけではない食事を。皿の上のものと格闘して、勝ち取る味を。


「……妙だな」


 四口目の前で、あの方はふと手を止めた。


「疲れる。……食うだけで、こんなに疲れるものだったか」


「噛むのは、労働でございますから」


 わたくしは、笑った。


「三年お休みだった顎に、今日は初仕事です。……疲れたら、残りは煮汁だけでも」


「いや」


 旦那様は、匙を握り直した。


「食う。……最後まで」


 そして、食べた。


 ゆっくりと、休み休み、けれど一度も匙を置かずに最後のひと切れまで。煮汁を飲み干し、蕪を食べ、皿の底が見えるまで。


 空になった皿の前で、あの方は長いこと動かなかった。


 それから、低く言った。


「三年前の俺に、教えてやりたい」


 燭台の火が、揺れた。


「灰を流し込むだけの飯が、いつか疲れるほどうまくなると。……信じんだろうがな、あいつは」


 わたくしは何も言えずに、ただ頷いた。


 言葉の代わりに、目の縁が熱くなった。


 ──厨房の入り口の陰で、ハンナが前掛けに顔を埋めているのが見えた。その隣に、ゲルト様の大きな背中が、壁を向いて微動だにせず立っていた。ただ、体の脇で握られた拳が白かった。


 誰も、食堂には入ってこなかった。


 この一皿を泣かずに下げられる者が、今夜の城にはいなかったのだ。


 夜、帳面をつけた。


 器の記録の頁に、一行。


 ──豚の肩、塩麹煮。完食。噛む、三年ぶり。


 筆を置いてから、わたくしはその下に、もう一行小さく書き足した。


 ──体は、覚えていた。


 焼かれた道は、戻らないはずだった。使わない顎は、衰えるだけのはずだった。けれど、体は待っていたのだ。三年、灰の下で、火種のように。


 窓の外で、春の月が畑を照らしていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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