第五十一話 なんでもない朝
その朝は、ほんとうに、なんでもない朝だった。
空は薄曇り。風は南から。畑の土が乾きはじめたから、昼には水をやろうと考えていた。ハンナは竈で麦粥を煮て、リタは卵を運び、テアはわたくしの髪を結いながら村の祭りの噂話をしていた。
朝餉の膳も、いつも通りだった。
麦粥。蒸した根菜。それに、干し茸と葱の澄んだ汁物。塩は控えめ、旨みは茸から。もう何十度と作ってきた、この城のいつもの汁だ。
旦那様は、いつもの席でいつものように匙を取った。
わたくしは向かいで、自分の粥に蜂蜜を垂らしていた。
だから、最初は気づかなかった。
気づいたのは、音が止んだからだ。
匙の音。器の音。あの方が食事をする、規則正しい静かな音。それが、ふつりと止んでいた。
顔を上げると、旦那様が匙を口の前で止めていた。
汁の匙だった。飲みかけの姿勢のまま、動かない。灰色の目が、匙の中の澄んだ汁を見ている。
「……旦那様?」
返事が、なかった。
あの方は、匙の汁をもう一度、口に含んだ。
ゆっくりと、飲み込む。
それから器を持ち上げて、汁をひと口。もうひと口。確かめるように間を置いて、三口目。
器が、静かに卓へ戻された。
「……塩の、味がする」
声は、とても静かだった。
叫びも、震えもしなかった。ただ、朝の食堂の湯気の中に、その一言だけがぽつりと置かれた。
「しょっぱい、というのを……思い出した。この汁はしょっぱい。……薄いが、確かに」
わたくしは、匙を持ったまま動けなかった。
蜂蜜が、匙の先から粥へ、ゆっくりと糸を引いて落ちた。
塩の道が、開いた。
甘みから、ふた月と経っていない。動きはじめた時は、もう止められないと、あの方は言った。……その言葉の、通りに。
焼かれたきりだと言われた道が、また一本通じた。祝いの膳でも特別な料理でもない。何十度と作った、いつもの汁で。なんでもない朝に。
「……ハンナの茸が、良いのですわ」
わたくしは、やっとのことでそれだけ言った。
声が震えないように。この朝を、儀式にしないように。
旦那様は少し黙って、それから器を持ち直した。
「……そうか」
それだけだった。
あの方は、残りの汁をいつもの速さで飲み干した。麦粥を食べ、根菜を食べ、いつもの朝餉をいつものように終えた。
ただ、汁の器だけが、いちばん最初に空になっていた。
食後、旦那様は立ち上がって、扉のところでいつものように足を止めた。
「今夜の汁は」
「……お任せくださいまし」
「そうか」
それだけ言って、出ていった。背中が、心なしかいつもよりまっすぐだった。
給仕を下がるとき、厨房の入り口でハンナが待ち構えていた。
「奥方様。いまの、いまのは」
聞いていたらしい。前掛けを握りしめている。
「ええ」
「お塩が。……若様に、お塩が」
「ええ。……戻ったわ」
ハンナは両手で口を覆って、天井を仰いだ。それからくるりと竈へ向き直り、恐ろしい勢いで鍋を磨きはじめた。
「今夜は、汁を二種お出しします。茸と、干し肉の。いいえ、三種。豆の汁も」
「ハンナ、急がないの」
「分かっております。分かっておりますとも。……薄めから、一段ずつ。ですけれど奥方様、支度だけは、してもようございましょう」
磨かれる鍋が、湯気の中でぴかぴかと光った。
昼前、テアが畑まで報せに来た。
「お嬢様。ゲルト様が、厨房で汁のおかわりをなさったそうです。若様と同じ茸の汁を。……三杯」
「三杯」
「ハンナさんが、樽で作らないと足りないって笑ってました」
巌のような武人が、汁を三杯。あの人の三年も昨日、布と一緒に畳まれたのだ。汁の塩気はあの人の舌には、ずっと届いていたはずだけれど。それでも今日の三杯には、今日だけの意味がある気がした。
昼、畑に水をやりながら、わたくしはひとりで、少し泣いた。
誰も見ていない畝の間で、少しだけ。
三日前の夜、あの方は言った。焼かれた道は戻らない、と。医者も術師も、そう言った。あの方自身、三年そう信じて、死んだふりで生きてきた。
けれど、戻った。
甘みが戻り、いま塩気が戻った。ゆっくりと、一本ずつ。時をかけて醸すものが、時を焼かれた体を少しずつ癒している。
戻らないはずの道が、また一本。
──治りはせん、と、あの方は司祭に言った。
あの言葉が、いつか、あの方自身の舌によって覆される日が来るかもしれない。
わたくしは前掛けで目を拭って、水桶を持ち直した。
夕餉には、何を作ろう。
塩気の戻った舌にいちばん最初に届けるべき、次の一皿は。
頭の中で、算段が次々と芽吹いていく。薄い塩の汁から、少しずつ。階段は一段ずつ。急がない。急がないけれど──。
畑の向こうで、テアがわたくしを呼んでいた。
春の風が、土の匂いを運んでいた。
なんでもない、いい日だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




