第五十話 三年の布
告白の夜から、三日が過ぎた。
城の暮らしは、表向き何も変わらなかった。旦那様は執務に戻り、わたくしは厨房に立ち、ハンナは塩麹の壺の番をした。けれど、食卓の空気だけが、どこか変わっていた。
話すことが、増えたのだ。
谷の蔵の修繕のこと。塩麹の壺の育ちのこと。カイの木札のこと。旦那様は以前より長く卓に留まり、以前より多く問いを重ねた。三年ぶんの話を、少しずつ取り戻すような日々だった。
その日の夕餉に、わたくしは塩麹に漬けた蕪を出した。
肉はまだ早い。まずは、慣れた蕪から。塩麹の初めての一皿だった。
いつものように、ゲルト様が食堂に入ってきた。いつものように卓の脇に立ち、いつものように白い検分の布を広げて、皿をあらためようとした。
「ゲルト」
旦那様の声が、それを止めた。
「もう、いい」
食堂が、静まり返った。
ゲルト様の手が、布の上で止まっていた。
「……閣下」
「三年、世話になった。……その布はもう、いらん」
ゲルト様は動かなかった。巌のような武人が、布の端を握ったまま立ち尽くしていた。
「なりません」
低い声が、言った。
「閣下のお命は、この身の命より重うございます。検分は、この身の務めに」
「ゲルト」
旦那様は、静かに遮った。
「……おまえも、あの杯を取った」
ゲルト様の肩が、揺れた。
「あの晩、おまえの杯にも毒は入っていた。おまえは、俺の検分をしてきたのではない。……三年、俺たちは二人とも、あの晩の続きを生きてきた。おまえの布は俺を守る布で、同時に、おまえ自身の警戒でもあったはずだ」
わたくしは、息を呑んだ。
考えたこともなかった。検分の布の向こう側にもうひとりの、殺されかけた人がいたことを。この武人の三年もまた、あの銀の杯から始まっていたことを。
「毒は、俺たちの時を止めた。……俺は死んだふりで三年を過ごした。おまえは、布で三年を過ごした。形が違うだけで、同じことだ」
旦那様は、立ち上がった。
卓を回って、ゲルト様の前に立つ。それから、副官の手の中の白い布に自分の手を重ねた。
「積んだものを崩すのは、俺の役目だと、おまえは言ったな」
最初の検分の日の、あの言葉。閣下ご自身のお役目にございます、と、この武人が言った言葉を、旦那様は覚えていた。
「崩すぞ。……いいな」
長い、長い沈黙があった。
やがて、ゲルト様の手から、ゆっくりと力が抜けた。
旦那様は、布を受け取った。四つに畳む。角を揃えて、丁寧に。三年、毎晩皿の上に広げられてきた白い布が、あの方の手の中でただの一枚の布に戻っていった。
「……長いあいだ、ご苦労だった」
畳んだ布を、旦那様はゲルト様の手に返した。
「持っていろ。……戦友の、形見のようなものだ。誰も死んでおらんがな」
ゲルト様は、布を両手で受け取った。
それから、深く、深く頭を垂れた。肩が小さく震えていた。あの報せの朝よりも、深いところで揺れていた。
「……はっ」
掠れた返事が、それだけ絞り出された。
その晩の食卓に、検分の布はなかった。
旦那様は、塩麹の蕪を口に運んだ。ゆっくりと噛んで、飲み込んで、それから少し首をかしげた。
「……妙だな」
「お口に、合いませんか」
「いや」
もうひと切れ、口に運ぶ。
「塩の味はしないはずなのに。……蕪が、うまい。前よりうまい気がする」
旨みだ。塩麹の旨みが、塩の道を通らずにあの舌へ届いている。あの壺の、匙の先の厚みが、料理の形になって。
「気のせいでは、ございませんよ」
わたくしは、笑った。
「麹の仕事でございます。……塩の道が開く日の、先触れですわ」
食後、器を下げようとしたとき、旦那様がふと言った。
「銀の匙は、まだ使っているのか」
「え?」
「毒見の匙だ。……最初の頃、おまえが使っていた」
わたくしは思い出した。あの最初の夜から毒見に使ってきた、銀の匙。検分の布とともに、いつしか食卓の作法になっていた小さな道具。この頃は毒見そのものがなくなって、匙は厨房の抽斗に眠っている。
「銀は」
旦那様は、空になった皿を見ながら言った。
「……見るのも、嫌だった。三年。銀の光を見るたび、あの杯を思い出した」
声が、少しだけ低くなった。
「おまえが、あれを、毒見の匙にするまでは」
わたくしは、言葉を失った。
「毒の器だった銀が、おまえの手の中では毒のないことを証す匙になっていた。……妙なものだな。同じ銀なのに」
旦那様は、立ち上がった。
扉のところで足を止め、こちらを見ずに言った。
「抽斗の匙は、捨てるな。……あれは、俺の三年を裏返した匙だ」
扉が、閉まった。
わたくしは、しばらく動けなかった。
それから厨房へ行って、抽斗を開けた。
銀の匙が、一本。静かに光っていた。
毒の器と、証明の匙。同じ銀の、裏と表。
わたくしはその匙を布で丁寧に拭いて、いちばん上等の箱にしまった。
いつか、この匙の来し方を、誰かに話す日が来るかもしれない。
窓の外で、春の夜が深くなっていた。
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