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【8/1完結予定】旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


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第四十九話 時を焼く滓

 重ねた手を、あの方は振り払わなかった。


 燭台の蝋が、ひと節ぶん、短くなった。


 旦那様は、わたくしの手の下から静かに自分の手を抜いた。拒む動きではなかった。話の続きのために、姿勢を正しただけだった。


「……毒の名は、〈銀の残滓〉という」


 低い声が、言った。


「医者と、王都の術師がそう呼んだ。俺の身の内に残ったものを調べて、な。……なんの滓か、分かるか」


 わたくしは、首を振った。


「魔石だ」


 旦那様は、燭台の火を見た。


「時を止める魔石。……王都の富貴が屋敷の宝物庫に置く石だ。花を飾れば、ひと月萎れない。果実を納めれば、ひと夏腐らない。肉も酒も、時を忘れる。……北の民が塩ひと壺で冬を凌ぐあいだ、王都の富者は石ひとつで時を止める」


 時を、止める石。


 わたくしは遠い日の岩塩の壺を思い出していた。塩は、時を止めるためのもの。この北で塩がどれほど重いかを知った、あの日。


 塩は、貧しい者の時を止める道具だ。汗と銭で贖う、冬越しの命綱。


 その同じことを、王都の富者は石ひとつでする。


「その石を、削り出すときに、滓が出る」


 旦那様の声は変わらず静かだった。静かなぶんだけ底の苦さが濃かった。


「石の力の、澱のようなものだ。強すぎて、飾りにも使えん。……ただ、人の身の内に入れると面白いことが起きる。時を止める力が暴れて、めぐりの道を焼く」


 魔脈を、焼く。


 医者の言葉が繋がった。焼かれたものは、焼かれたきり。術も薬も届かない場所。


「富者の、時を止める道具の滓が──俺の時を、焼いた」


 あの方はそこで初めて笑った。笑いの形をした、別のものだった。


「贅沢な毒だろう。花を萎れさせないための石が、人の舌を殺す。……俺は三年、萎れない花のように生きてきた。枯れもせず、咲きもせず。時の止まった灰の中で」


 わたくしは、声が出なかった。


 時を止める毒と、時をかけて醸す食。


 わたくしがこの城でしてきたことのすべての意味が、いま、あの方の口から語られた毒の名によって、裏返しに照らされていた。麹は、時をかけて麦を甘くする。漬け菜は、時をかけて酸っぱくなる。重湯から粥への階段は、時をかけて体を作り直す。


 止まった時を動かすのは、時間だけだ。


「……その石は」


 わたくしは、ようやく声を絞り出した。


「どこにでも、あるものなのですか」


「ない」


 答えは、短かった。


「魔石の鉱脈は、王家の管理下にある。削り出しも滓の始末も、王都の限られた工房しか扱えん。……あの毒は、王都でしか手に入らん」


 王都でしか、手に入らない。


 その言葉が、胸の底に石のように沈んだ。


「宴で俺に杯を回せる者。王都の工房から滓を引ける者。給仕の口を縄の輪で塞げる者。……どれも市井の者には無理だ。相当の金と、相当の手蔓が要る」


 旦那様は、空の器に目を落とした。


「顔は分からん。だが、輪郭なら三年見てきた。……大きい。俺一人が相手をするには大きすぎる敵だ。だから俺は、死ぬことにしていた。追わず、暴かず、北で静かに時が尽きるのを待つ。……それが、いちばん誰も死なせずに済む」


 誰も、死なせずに。


 その言い方に、この方の三年のほんとうの形が見えた。諦めではなかった。これはこの方なりの、防衛だったのだ。自分が動けば、ゲルトが、城の者が、また狙われる。だから死にゆく男のふりをして、敵の目から皆を隠した。


「……ですが、旦那様は、いま」


「ああ」


 あの方は、顔を上げた。


「死に損なった。……おまえのせいだ」


 燭台の火が、揺れた。


 責める言葉のはずなのに、その声は責めていなかった。


「三年、時の止まった灰の中にいた男を、おまえが勝手に動かした。重湯で、粥で、甘酒で。……時が、動きはじめてしまった。動きはじめた時は、もう止められん」


 わたくしは膝の上で手を握った。目の奥が熱かった。


「それから──」


 旦那様は、少し間を置いた。


「谷のことだ。おまえは、もう知っているだろうが」


 わたくしは、息を呑んだ。


「三年前、俺を生かしたのはあの谷の老人の薬だ。医者が匙を投げ、術師が首を振ったあとで、山から降りてきた爺が三日三晩、枕元で煎じ続けた。……礼も言えんかった。言えば、谷に累が及ぶ。だから黙って、庇護だけを続けた」


「……存じておりました」


 わたくしは、静かに言った。


 旦那様の目が、わずかに見開かれた。


「処方の紙が届いたのです。カイの字で。ハンナが、閣下のお薬と同じだと気づきました。……ですから、わたくしは谷へ、お礼を言いに参りました。あなたさまの代わりに」


 長い沈黙が、落ちた。


「……そうか」


 やがて、あの方は言った。


「おまえは、知っていて黙っていたのか。俺が黙っていることを、守るために」


「あなたさまが、三年、黙っていらしたように」


 燭台の火の向こうで、灰色の目がじっとわたくしを見ていた。


 その夜、自室に戻ってからもわたくしは眠れなかった。


 帳面を開いた。いちばん後ろの、疑いの頁。


 王都でしか、手に入らない毒。


 塩の値の段差は三年前から。あの方が毒を盛られたのも、三年前。わたくしを北へ追いやった人々と同じ名を持つ、塩の商会。


 繋げては、いけない。


 まだ、確かなものは何ひとつない。符合は、符合でしかない。


 けれど、頁の上の古い墨が、今夜は火のように熱く見えた。


 ──疼く。


 わたくしは帳面を閉じて、胸に抱えた。


 窓の外で、春の夜風が鳴っていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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