第四十九話 時を焼く滓
重ねた手を、あの方は振り払わなかった。
燭台の蝋が、ひと節ぶん、短くなった。
旦那様は、わたくしの手の下から静かに自分の手を抜いた。拒む動きではなかった。話の続きのために、姿勢を正しただけだった。
「……毒の名は、〈銀の残滓〉という」
低い声が、言った。
「医者と、王都の術師がそう呼んだ。俺の身の内に残ったものを調べて、な。……なんの滓か、分かるか」
わたくしは、首を振った。
「魔石だ」
旦那様は、燭台の火を見た。
「時を止める魔石。……王都の富貴が屋敷の宝物庫に置く石だ。花を飾れば、ひと月萎れない。果実を納めれば、ひと夏腐らない。肉も酒も、時を忘れる。……北の民が塩ひと壺で冬を凌ぐあいだ、王都の富者は石ひとつで時を止める」
時を、止める石。
わたくしは遠い日の岩塩の壺を思い出していた。塩は、時を止めるためのもの。この北で塩がどれほど重いかを知った、あの日。
塩は、貧しい者の時を止める道具だ。汗と銭で贖う、冬越しの命綱。
その同じことを、王都の富者は石ひとつでする。
「その石を、削り出すときに、滓が出る」
旦那様の声は変わらず静かだった。静かなぶんだけ底の苦さが濃かった。
「石の力の、澱のようなものだ。強すぎて、飾りにも使えん。……ただ、人の身の内に入れると面白いことが起きる。時を止める力が暴れて、めぐりの道を焼く」
魔脈を、焼く。
医者の言葉が繋がった。焼かれたものは、焼かれたきり。術も薬も届かない場所。
「富者の、時を止める道具の滓が──俺の時を、焼いた」
あの方はそこで初めて笑った。笑いの形をした、別のものだった。
「贅沢な毒だろう。花を萎れさせないための石が、人の舌を殺す。……俺は三年、萎れない花のように生きてきた。枯れもせず、咲きもせず。時の止まった灰の中で」
わたくしは、声が出なかった。
時を止める毒と、時をかけて醸す食。
わたくしがこの城でしてきたことのすべての意味が、いま、あの方の口から語られた毒の名によって、裏返しに照らされていた。麹は、時をかけて麦を甘くする。漬け菜は、時をかけて酸っぱくなる。重湯から粥への階段は、時をかけて体を作り直す。
止まった時を動かすのは、時間だけだ。
「……その石は」
わたくしは、ようやく声を絞り出した。
「どこにでも、あるものなのですか」
「ない」
答えは、短かった。
「魔石の鉱脈は、王家の管理下にある。削り出しも滓の始末も、王都の限られた工房しか扱えん。……あの毒は、王都でしか手に入らん」
王都でしか、手に入らない。
その言葉が、胸の底に石のように沈んだ。
「宴で俺に杯を回せる者。王都の工房から滓を引ける者。給仕の口を縄の輪で塞げる者。……どれも市井の者には無理だ。相当の金と、相当の手蔓が要る」
旦那様は、空の器に目を落とした。
「顔は分からん。だが、輪郭なら三年見てきた。……大きい。俺一人が相手をするには大きすぎる敵だ。だから俺は、死ぬことにしていた。追わず、暴かず、北で静かに時が尽きるのを待つ。……それが、いちばん誰も死なせずに済む」
誰も、死なせずに。
その言い方に、この方の三年のほんとうの形が見えた。諦めではなかった。これはこの方なりの、防衛だったのだ。自分が動けば、ゲルトが、城の者が、また狙われる。だから死にゆく男のふりをして、敵の目から皆を隠した。
「……ですが、旦那様は、いま」
「ああ」
あの方は、顔を上げた。
「死に損なった。……おまえのせいだ」
燭台の火が、揺れた。
責める言葉のはずなのに、その声は責めていなかった。
「三年、時の止まった灰の中にいた男を、おまえが勝手に動かした。重湯で、粥で、甘酒で。……時が、動きはじめてしまった。動きはじめた時は、もう止められん」
わたくしは膝の上で手を握った。目の奥が熱かった。
「それから──」
旦那様は、少し間を置いた。
「谷のことだ。おまえは、もう知っているだろうが」
わたくしは、息を呑んだ。
「三年前、俺を生かしたのはあの谷の老人の薬だ。医者が匙を投げ、術師が首を振ったあとで、山から降りてきた爺が三日三晩、枕元で煎じ続けた。……礼も言えんかった。言えば、谷に累が及ぶ。だから黙って、庇護だけを続けた」
「……存じておりました」
わたくしは、静かに言った。
旦那様の目が、わずかに見開かれた。
「処方の紙が届いたのです。カイの字で。ハンナが、閣下のお薬と同じだと気づきました。……ですから、わたくしは谷へ、お礼を言いに参りました。あなたさまの代わりに」
長い沈黙が、落ちた。
「……そうか」
やがて、あの方は言った。
「おまえは、知っていて黙っていたのか。俺が黙っていることを、守るために」
「あなたさまが、三年、黙っていらしたように」
燭台の火の向こうで、灰色の目がじっとわたくしを見ていた。
その夜、自室に戻ってからもわたくしは眠れなかった。
帳面を開いた。いちばん後ろの、疑いの頁。
王都でしか、手に入らない毒。
塩の値の段差は三年前から。あの方が毒を盛られたのも、三年前。わたくしを北へ追いやった人々と同じ名を持つ、塩の商会。
繋げては、いけない。
まだ、確かなものは何ひとつない。符合は、符合でしかない。
けれど、頁の上の古い墨が、今夜は火のように熱く見えた。
──疼く。
わたくしは帳面を閉じて、胸に抱えた。
窓の外で、春の夜風が鳴っていた。
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