第四十八話 銀の杯
その夜、夕餉のあとで、旦那様は席を立たなかった。
器はとうに空だった。給仕を下がらせ、テアも下がらせ、食堂にはわたくしと旦那様だけが残った。燭台の火が、卓の上で静かに揺れていた。
長い沈黙のあとで、あの方は口を開いた。
「……この前の、続きだが」
わたくしは手を止めた。
器の中身は、全部同じ色をしていた──言いさして呑み込まれた、あの言葉の続き。
「はい」
わたくしは椅子に座り直した。急がない。促さない。ただ、聞く姿勢だけを整えた。
旦那様は、空の器を見ていた。
「三年前の話を、する」
燭台の火が、ちり、と鳴った。
「戦が終わった年だった。東の国境で、二年押し合った戦だ。……終わって、王都で戦勝の宴があった」
声は、静かだった。天気の話をするようなあの調子。けれど、卓の上の手が、わずかに握られていた。
「王宮の広間だ。楽が鳴って、酒が回って、誰もが浮かれていた。俺はああいう場が好かん。早く北へ帰りたかった。……それでも勝ち戦の宴だ。辺境伯が欠けるわけにはいかん」
わたくしは頷きもせず、ただ聞いていた。
「祝いの杯が、配られた。……銀の、杯だった」
握られた手に、力がこもった。
「見事な細工だった。国王陛下の下賜の品だと、係の者が言った。皆が同じ杯で同じ酒を飲む。それが祝いの作法だと」
銀の杯。
うわ言の中で、この方が叫んでいたあの杯。
「……ゲルトが、隣にいた。あいつも杯を取った。同じ盆から。俺が先に口をつけた」
旦那様の目が、燭台の火を見た。火を見ているのではない。もっと遠くの、三年前の広間の灯りを見ている。
「一口で、分かった。……いや、分かったというのは嘘だな。妙だ、と思った。舌が痺れた。酒のせいかと思った。二口目で、喉が焼けた。三口目は──飲んでいない。杯を、落とした」
声は、まだ静かだった。静かなまま続いた。
「床に転がった杯を見て、それから隣を見た。ゲルトが、杯を口に運ぼうとしていた。……同じ盆の、同じ酒だ」
──飲むな。飲むな、ゲルト。
熱にうなされて、この方が叫んだ言葉。三年、毎晩夢の中で叫び続けてきたのかもしれない言葉。
「叩き落とした。あいつの杯を。……広間じゅうが俺を見た。乱心か、と誰かが言った。俺は床に膝をついていた。喉の奥が焼けて、声が出なかった。……それでも、あいつは飲まずに済んだ」
旦那様は、そこで長く息を吐いた。
「毒は、俺の杯とゲルトの杯に入っていた。あとで分かったことだ。辺境伯と、その右腕。北の軍の頭と背骨を、一度に折るつもりだったのだろう」
わたくしは、膝の上で手を握りしめていた。
副官も、殺されかけていた。あの夜の毒はこの方ひとりを狙ったものではなかった。北そのものを、狙っていた。
「犯人は」
声が掠れた。聞くまい、と思っていたのに、口が動いていた。
「分からん」
旦那様は、短く言った。
「宴の給仕は調べられた。杯を配った係も。誰も吐かなかった。……いや、吐く前に一人、死んだ。首を吊った、ということになっている」
口封じ。
背筋が冷えた。これは酔漢の狼藉でも、個人の恨みでもない。組織立った、政治の毒だ。
「それきりだ。証しは何もない。王家は事を荒立てるなと言った。戦勝の宴で辺境伯が毒を盛られたとあっては、体面が悪い。……俺は、生きていたしな。死に損なった男のために王都が騒ぐ道理もない」
その言い方の静かな苦さに、わたくしは唇を噛んだ。
毒を盛られ、口を拭われて、北へ帰された。この方の三年は、そこから始まったのだ。
「北へ戻って、ひと月寝込んだ。……起き上がれるようにはなった。だが」
旦那様は、空の器を手に取った。
白い、何も入っていない器を。
「味が、消えていた」
燭台の火が、揺れた。
「最初は、まだ毒が残っているのだと思った。そのうち戻ると。……戻らなかった。ひと月経っても、季節がふたつ変わっても。何を食っても同じ味がした」
わたくしは息を止めて、次の言葉を待った。
この方が三年、誰にも言わなかった言葉。わたくしが「味の閉ざされた壁」としか呼びようのなかった、その中身。
「──灰だ」
あの方は、言った。
「灰の味が、するのだ。何を食っても。パンも、肉も、酒も。……焼け跡を口に入れているのと同じだった。うまいもまずいも、ない。ただ、灰だ」
器を持つ手が、白くなるほど握られていた。
「人が飯を食う。うまそうに食う。それを見るのが、いちばんこたえた。皆が味わっているものを、俺だけが灰を噛んでいる。……だから、一人で食うことにした。誰にも見られず、誰の食う姿も見ずに。生きるために、灰を流し込むだけの」
言葉が、途切れた。
わたくしは気づけば、卓の上のあの方の手に、自分の手を重ねていた。
考えるより先に、手が動いていた。
旦那様が、わたくしを見た。
灰色の目が、燭台の火に濡れて光っていた。
「……すまん。長い話になった」
「いいえ」
わたくしは、首を振った。
「朝まででも、聞くと決めておりましたから」
夜は、まだ続いていた。
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