第四十七話 壺の報せ
二度目の仕込みは、慎重に始めた。
最初の塩は、割のほんの三分の一だけ。麹と水に、まず薄い塩水の中で慣れてもらう。三日置いて様子を見て、次の塩。また三日置いて、残りを。
ハンナの言う、煮物の順だ。
「花の顔色を、毎日見てくださいまし」
ハンナは自分の思いつきに責任を感じているらしく、朝晩壺の前から動かなかった。匂いを嗅ぎ、とろみを匙で確かめ、帳面に書きつける。その横顔は初めて任された若い料理番のように真剣で、少し嬉しそうだった。
三日目。花は、生きていた。
塩水の中で、麹の粒がゆっくりとほどけはじめている。甘い匂いが、かすかに立った。
「……働いていますね、奥方様」
「ええ。喧嘩に、なっていないわ」
六日目、二度目の塩。花は、怯まなかった。
九日目、最後の塩。壺の中はとろりと白く濁って、深いまるい香りを放ちはじめていた。
十四日目の朝。
匙で掬って舌に載せた瞬間、わたくしは目を閉じた。
塩の角が、取れている。ただしょっぱいのではない。塩気の底に、麹の甘みと旨みが厚く敷かれている。前世の台所で嗅いだ、あの熟れた塩麹の香り。遠い記憶と寸分違わない。
「ハンナ。……できたわ」
ハンナが匙を取って、恐る恐る舐めた。
その目が、みるみる丸くなった。
「……なんでございましょう、これは。塩なのに、塩だけじゃない。……骨を煮出した汁とも違う。味の芯のようなものが」
「それが、麹の仕事よ」
わたくしは壺に布をかけ直した。
「これで肉を漬ければ、驚くほど柔らかくなるわ。少ない塩で深い味がつく。……北の冬の、新しい番人よ」
昼、谷からの遣いが着いた。カイだった。
「爺様が、歩けるようになりました。杖をついて蔵まで」
少年の頬は、初めて城へ来た日とは別人のように血の色をしていた。蔵の修繕は東側が終わり、次は屋根だという。そしてカイは、少し照れくさそうに付け足した。
「爺様が言うんです。おれに木札の書き方を全部教えるって。……蔵番の帳面のつけ方も」
記録する民の、次の代が育ちはじめている。わたくしは荷に甘酒の壺をひとつ持たせ、少年を峠へ送り出した。
それから、わたくしは約束を思い出した。
──次の壺が、できたら。最初に、俺に報せろ。
執務室の扉を叩くと、旦那様は書状の山から顔を上げた。
「できました」
わたくしは、小さな器を捧げ持っていた。匙の先ほどの白いとろみ。
「塩と花の、仲直りでございます」
旦那様は器を見て、それから、わたくしを見た。
「……舐めろと?」
「味見でございます。ほんのひと舐め」
正直に言えば、賭けだった。塩味はまだ、あの方の舌に戻っていない。甘みしか分からない舌に、塩麹はどう届くのか。届かないかもしれない。それでも、最初にこの方に、と決めていた。
旦那様は匙を取って、壺の中身をほんの少し舐めた。
しばらく、黙っていた。
「……分からん」
やがて、静かな声が言った。
「塩の味は、しない。だが」
匙の先を、じっと見る。
「……奥に、甘いものがいる。それと、なにか厚みのようなものが。……これは、なんだ」
わたくしは息を呑んだ。
塩味は、届かない。けれど、麹の甘みと旨みの厚みは、届いている。焼かれた道の向こうへ、麹の仕事だけが回り道をして届いている。
「旨み、でございます」
声が、少し震えた。
「塩の道がまだ閉じていても、旨みは別の道を通るのです。……いつか、塩の道も開きます。この壺が、その先触れでございますよ」
旦那様は、匙を置いた。
それから、ひどく静かな目で器の中の白いとろみを見た。
「……三年、器の中身は、全部同じ色をしていた」
低い声だった。
「白湯も、酒も、汁も。何を飲んでも同じ。区別する意味もなかった。……それが、この頃、器を覗くのが、妙に」
言葉が、途切れた。
旦那様は続きを言わずに、匙を布の上へ戻した。柄を揃えて、まっすぐに。
「……いや。なんでもない」
「旦那様?」
「下がっていい。……壺の礼を、言う」
わたくしは一礼して、執務室を出た。
扉を閉める間際に振り返ると、あの方はまだ器の中を見ていた。
白いとろみを見つめる灰色の目に、何か遠いものが映っていた。器の中身ではない、もっと昔の何かを見ている目だった。
──三年、器の中身は、全部同じ色をしていた。
あの言葉の続きは、なんだったのだろう。
廊下を歩きながら、わたくしは胸の奥のざわめきを持て余していた。
あの方の三年の始まりを、わたくしはまだ何も知らない。医者の言った毒のこと。うわ言の中の、銀の杯のこと。飲むな、と叫んだあの声のこと。知っているのは、破片だけだ。
破片のむこうに、何があったのか。
それを話すかどうかは、あの方が決めることだ。わたくしから聞くことはできない。聞いてはいけない。
けれど、もし、いつか。
あの方が、自分から話したいと思う夜が来たなら。
そのときは、どんなに長い話でも、朝まででも聞こう。
厨房へ戻ると、竈の上で次の仕込みの湯が、静かに沸きはじめていた。
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