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旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: 更田遅筋


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第四十六話 塩と花の喧嘩

 谷から、槌の音が届くようになった。


 といっても、峠を越えて音が聞こえるわけではない。蔵の修繕に入った石工たちの報せが、二日おきにカイの足で運ばれてくるのだ。今日は東の壁を起こした。今日は梁を替えた。報せを読み上げるたび、厨房の空気が少しずつ明るくなった。


 わたくしはそのあいだ、新しい試みに取り組んでいた。


 塩麹だ。


 麹と塩と水を合わせて、寝かせる。それだけのものだ。けれど前世では、それだけのものが肉を驚くほど柔らかくし、味の芯を通した。塩の量を減らして、なお余りある旨みを足す。塩が三倍になったこの北で、これほど要るものはない。


 それに──。


 わたくしには、もうひとつあてがあった。


 甘みは、あの方の舌に戻った。麹の甘酒が、焼かれた道の一本をもう一度通した。ならば、塩の道は。麹の力を借りた塩気なら、あの舌に届くのではないか。


 塩味が戻れば、肉が食べられる。汁物が味を持つ。あの方の食卓は、いまの倍広くなる。


「奥方様。それで、割はどういたします」


 ハンナが腕まくりをして訊いた。いまや、麹のことならこの人はわたくしの右腕だ。


「そうね。……ばあやの割は、麹と塩が三対一。水をひたひたに」


「三対一。……存外、塩がきつうございますね」


「塩がいないと、悪いものが湧くの。塩は、番人よ」


 仕込みは簡単に終わった。壺の中で麹と塩と水を混ぜ、布をかけて竈の近くの棚へ。あとは毎日一度かき混ぜて、待つだけ。


 三日目。


 壺を覗いて、わたくしは首をかしげた。


 変化が、ない。


 甘酒のときは、半日で匂いが立った。麹が麦を溶かして、甘さが目に見えて育っていった。けれどこの壺は、三日経っても塩水に麹が沈んでいるだけだ。匂いも、とろみも生まれない。


「……眠っているみたい」


「眠って?」


「ええ。花が、働いていないの」


 七日目。


 壺の中は、まだ静かだった。かすかに、麹の甘い匂いはする。けれど、前世で知っているあの熟れた塩麹の、まるくて深い香りにはほど遠い。


 十日目。


 わたくしは、認めるしかなかった。


 失敗だ。


 麹は、溶けきらないまま力尽きようとしていた。塩が、強すぎたのだ。


「……ごめんなさい」


 壺の前で、わたくしは思わず謝っていた。ハンナが横で首をかしげる。


「奥方様が謝ることでは」


「いいえ、これはわたくしの見立て違い。……北の麹は、王都の塩に慣れていないのよ」


 言いながら、頭の中で算盤を弾き直す。


 前世の塩麹の割は、前世の麹の力を前提にしたものだ。あちらの麹は何百年も、人の手で塩と付き合わされて鍛えられてきた。けれどこの白花は六十年、谷の蔵で塩とほとんど出会わずに生きてきた。湯の谷には、使える塩がなかったのだから。


 塩を知らない花に、いきなり三対一の塩はきつすぎた。


「塩と花が、喧嘩をしたのね」


 わたくしがそう言うと、ハンナがふっと笑った。


「まあ。喧嘩」


「ええ。塩が強すぎて、花が縮こまってしまったの。……仲直りの割を探さないと」


 ハンナは、力尽きた壺の中をじっと見た。それから、料理番の顔で言った。


「奥方様。塩を後から、少しずつ足すわけにはまいりませんか。……煮物の塩と同じで。最初にどんと入れるから、素材が固くなる。あとから、味を見ながら」


 わたくしは、ハンナの顔をまじまじと見た。


 塩を段で入れる。前世の蔵人が酒母を守るときに使った知恵と、同じ理屈だった。それをこの人は、四十年の煮物の勘から引き出してきた。


「……ハンナ。あなた、天才だわ」


「な、なんですか、藪から棒に」


 夕餉の席で、旦那様が壺の話を聞きたがった。


 この頃、あの方は厨房の試みを逐一知りたがる。わたくしが話すのを、器を持ったまま、じっと聞いている。


「──で、喧嘩した花は、どうなる」


「今度は塩を三度に分けて、ゆっくり慣らします。花の様子を見ながら、少しずつ」


「ふん」


 旦那様は、匙を置いた。


「……おまえは、花にも階段を組むのだな」


 わたくしは、一瞬言葉を失った。


 重湯から粥へ。粥から一皿へ。人に組んできた階段を、わたくしは麹にも組もうとしている。言われるまで、気づかなかった。


「人も花も、同じでございますよ」


 わたくしは、笑って答えた。


「急に強いものを当てれば、縮こまる。少しずつなら、慣れて強くなる。……生きているものは、みんなそうです」


 旦那様は、しばらくわたくしを見ていた。


 灰色の目が何か言いたげに揺れて、けれど言葉にはならなかった。代わりに、あの方は器を取り上げて、残りの甘酒をゆっくりと飲み干した。


「……次の壺が、できたら」


 器を置いて、あの方はこちらを見ずに言った。


「最初に、俺に報せろ」


「はい。……はい、旦那様」


 窓の外で、春の宵がゆっくりと暮れていった。


 谷の蔵では、新しい梁が湯気の中で乾きはじめている頃だった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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