第四十五話 春の帳簿
雪が、消えた。
城の裏の斜面に、いちばんに青いものが芽吹いた。福寿草に似た黄色い花が、まだ冷たい土を割って顔を出す。北にも春は来る。長く厳しい冬の底からでも、必ず。
わたくしは、帳面を広げて、春の畑の算段をしていた。
蒔く種の名。畝の割り。日当たりと水はけ。前世の管理栄養士は、旬のものをいちばん力のある時に食べさせることをいつも考えていた。この北の短い夏に何を育て、何を蓄えるか。それが来年の冬の、人の命を分ける。
「奥方様。ご覧くださいまし」
ハンナが、誇らしげに甘酒の器を運んできた。
いまや、甘酒作りはこの人の領分だった。麹の花の咲かせ方も蒸し加減も、寝かせる時間も、わたくしより確かに見極める。四十年の勘が新しい知恵と噛み合って、城の甘酒は日ごとに美味しくなっていた。
「今朝のは、上出来でございますよ。……若様が、三杯召し上がりました」
「三杯」
「ええ。ゲルト様と、張り合うように」
わたくしは、笑った。
旦那様の舌は、まだ甘みだけしか拾えない。それでも、その甘みひとつをあの方は大切に味わっている。生きることを、少しずつ取り戻すように。
その日の午後、旦那様が執務室にわたくしを呼んだ。
珍しいことだった。いつもは、食卓か厨房の前でしか、言葉を交わさない。
「谷の蔵のことだ」
旦那様は、机の上に一枚の図面を広げた。蔵の修繕の図だった。傷んだ梁、割れた壁、雨漏りの天井。それを、どう直すか。石工と大工の手配。費えの見積もり。
「雪が完全に消えたら、人を入れる。夏のあいだに蔵を建て直す」
「……ありがとうございます」
わたくしは、深く頭を下げた。
「礼を言うな」
旦那様は、そっけなく言った。
「領地のためだ。……あの谷の白花がなければ、この城の甘酒も村の漬け菜も、続かん。麹は、あの温い蔵でしか長くは保てん。城の厨房では、種を継ぎ足すのが精いっぱいだ」
その言葉に、わたくしは内心で驚いていた。
この方は、分かっている。麹が、あの谷の湯の熱でしか長くは生きられないことを。だから蔵を建て直すことが、そのまま城と領地の食を支える。「領地のためだ」は照れ隠しではなく、文字通りの正しい算盤だった。
「それから」
旦那様は、もう一枚紙を出した。
塩の帳簿だ。ヨーゼフの几帳面な字が並んでいる。
「塩が三倍になった。城の蓄えは、来年の春を待たずに底を突く。……だが、おまえの発酵は、塩をどれだけ減らせる」
わたくしは、顔を上げた。
この問いは、当主が領地の経営として、発酵を勘定に入れはじめた、ということだった。
「……漬け菜は、塩だけの保存より、ずっと少ない塩で長く保ちます。乳を醸せば、それだけで滋養になります。豆を醸せば、塩の代わりに、味の芯になるものが作れます」
言いながら、わたくしの頭の中で算盤が弾けていく。
「塩を、時を止める道具としてだけ使うのではなく、発酵と組み合わせるのです。そうすれば、同じ塩の量で二倍も三倍も蓄えが作れます。……塩が三倍になっても、使う量を三分の一にできれば、向こうの値上げは、こちらに効きません」
「してやったり、だな」
旦那様が、口の端をわずかに上げた。
「王都は、塩の値を吊り上げて北を締め上げるつもりだろう。……だが、北には、王都の知らんものがある」
谷へ発つ前の夜、あの方が言った言葉だった。
あのとき、わたくしを谷へ送り出した言葉が、いま確かな形になって返ってきた。谷の白花は、塩の締めつけへの北の答えになる。
その夜、わたくしは自分の帳面に、新しい頁を起こした。
春の畑。夏の蔵。秋の仕込み。冬の蓄え。
発酵で、塩への依存を減らす。谷と城を、糸で結ぶ。北の厳しさを、そのまま豊かさの道具に変えていく。
それは、もう、あの方の食卓の話だけではなかった。
この北の領地、その全部を、少しずつ変えていく話になっていた。
わたくしは、灯りのそばでいつまでも、算盤を弾いていた。
──けれど。
筆を止めて、わたくしは窓の外の春の闇を見た。
塩の値を吊り上げたのは、ザルツ商会。
その名を、わたくしは知っている。輿入れの前、王都で幾度も聞いた名だ。第二王子の周りにいた一派。わたくしをこの北へ追いやった、あの人たち。
偶然、だろうか。
北の辺境伯領を締め上げる塩の値上げと、わたくしをここへ送り込んだ手が、同じ名を持っている。それは本当に、偶然なのだろうか。
帳面の、いちばん後ろの頁を、わたくしは開いた。
北へ来てから、そっと書きためてきた疑いの欄。そこには、まだ繋がりきらない符合が、幾つか。
繋げてしまえば、その先を確かめずにはいられなくなる。いまは、その時ではない。
わたくしは、その頁を見つめて、それから静かに帳面を閉じた。
──今は、まだ。
いまわたくしがすべきことは、この北を飢えさせないこと。あの方の食卓を守ること。谷の蔵を建て直すこと。
王都の影は、まだ、遠い。
けれど、いつか。
その影が、この北へはっきりと手を伸ばしてくる日が、来るのかもしれない。
窓の外で、春の風が雪解けの匂いを運んでいた。
北の長い冬が、明けようとしていた。
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