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旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: P作


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第四十四話 北の冬を越せぬ神学


 噂は、雪解けの水と一緒に、里へ流れ落ちていった。


 城で穢れの花を育てている。奥方様が谷から持ち帰った罰当たりの種で、御領主様に腐り水を飲ませている──。


 尾ひれは、日ごとに育った。もとをたどれば、悪気はない。甘酒で若様が三年ぶりに「甘い」と言った奇跡を、厨房の誰かが誇らしく身内に話したのだろう。リタが里の実家で。下女が嫁ぎ先で。祝いの話は人の口を渡るうちに、いつのまにか醜聞の形に変わっていた。


 祝いと醜聞は、同じ速さで走る。


 二十日ほどが過ぎた頃、村の女が遠慮がちに厨房を訪ねてきた。子の熱を診た礼だと、卵を持って。


「奥方様。……あの、ほんとうですか。若様が、その、山の、あれで」


 言い淀む口に、わたくしは、静かに答えた。


「白花、と申します。谷の方々が六十年守ってきた、麹という醸しの種です。腐ってはおりません。醸すのです。……この卵と同じ。時をかけて、良いものに変わるのです」


 名前を与える。それが偏見への、いちばん最初の応えだった。


 女は腑に落ちない顔で帰っていった。けれど、頭ごなしに否まれなかったことに、少しだけほっとした顔もしていた。


 噂が教会へ届くのに、そう時間はかからなかった。


 その日、司祭が城へ来た。


 わたくしは勝手口で野菜を検めていて、その到着を見た。痩せた男だった。目の下に濃い隈がある。着古した黒衣。従者もなく、たった一人で泥のはねた靴で立っていた。怒鳴り込む狂信者を思い描いていたのに、現れたのは疲れた中年の実務家だった。


「アイゼンファルク辺境伯夫人に、お目にかかりたい」


 声は、丁寧だった。


「わたくしが、リーゼロッテでございます」


 司祭は深く頭を垂れ、それから抑えた声で言った。


「里の教会でブラウンと申します。……単刀直入に申し上げます。この城で聖別なき醸しが行われていると、複数の信徒から届け出がございました。聖別なき発酵は、教義の禁ずるところ。……山神の白花となれば、なおのこと」


 わたくしは、この人と言葉を交わしたかった。


 禁忌の根は食べものへの敬いだと、わたくしは知っている。教会と発酵は、本来同じ根から生えている。それを、この疲れた実務家に伝えられたら。


 けれど、口を開きかけて、わたくしは思い直した。


 いま弁明すれば、それは審問になる。穢れの疑いをかけられた妻が、教会法を相手に言い争う。勝っても負けても、城が「穢れを弁護した」という形が残る。それは、いちばんまずい。


「ブラウン様」


 わたくしは、頭を下げた。


「そのお話は、わたくしではなく領主様にお伝えください。……この城のことを決めるのは、あの方でございます」


 司祭の目が、わずかに揺れた。妻に軽くあしらわれると思っていたのか、それとも当主に直に向き合わされることを恐れたのか。


 わたくしはゲルト様を呼び、司祭を執務室へ通した。


 扉が、閉まった。


 勝手口に、わたくしは一人残された。


 ──審問されるべきは、わたくしのはずだった。


 種を持ち帰ったのも、麹を咲かせたのも、甘酒を醸したのも、わたくしだ。糾弾されるべきは、この手だ。


 なのに、あの方はわたくしを執務室に呼ばなかった。ゲルト様に通させ、扉を閉めた。わたくしを司祭の前に立たせないために。


 あの方は、わたくしを、守ったのだ。


 胸の奥が、じわりと熱くなった。それから慌てて、その熱に蓋をした。


 ──いけない。あれは、当主の務め。妻を守るのは、体裁の話。


 そう言い聞かせながら、わたくしは閉じた扉を、しばらく見つめていた。


 執務室で何が話されたのか、わたくしはあとで、ゲルト様から聞いた。


 司祭は、教義を説いたという。聖別なき醸しの罪。山神の白花の禁忌。土地の平安のために蔵を焼き、種を絶やすべきだと。


 旦那様は最後まで黙って聞き、それから、たった一言こう言ったそうだ。


「北の冬を越せぬ神学に、用はない」


 司祭が、絶句する。


 旦那様は、続けた。


「三年前、俺の命を繋いだのは、その穢れの民の薬だ。この冬、俺の舌を開いたのは、その白花の甘さだ。……教会は、俺に何をした。祈りのひとつでも、この舌に届いたか」


 声を荒らげはしなかったという。ただ、事実だけを並べた。


 聞きながら、わたくしは気づいていた。三年、恩人を守るために守り続けた沈黙を、あの方は自分から破ったのだ。隠して守るのではなく、盾を表に出して守ると決めた──その転回の上に、次の言葉が乗っていた。


「谷は、俺の庇護下にある。蔵は、城の費えで建て直す。領地のためだ。……これは決定だ。異論は、王都の大司教を通せ」


 王都、という一言が効いた。


 地方の司祭に、王都まで話を上げる力はない。上げれば、辺境伯家と教会本部の政治の話になる。この疲れた実務家に、そこまで背負う余力はなかった。


 ブラウンは、引き下がった。


 けれど──と、ゲルト様は言った。


 去り際、司祭は扉のところで足を止め、こう言ったそうだ。


「閣下。……ひとつだけ、お尋ねしても」


「言え」


「その白花で、閣下は快癒なさるのですか。……三年、わたしはこの地の病人のために、祈ってまいりました。届かぬ祈りを。もし、まことに食が人を癒すのなら……わたしの祈りは、なんだったのでしょう」


 旦那様は、しばらく黙っていたという。それから、低く答えたそうだ。


「……治りはせん。焼かれた道は戻らん。おまえの祈りも、俺の妻の匙も、それは変えられん」


 ブラウンが、目を伏せる。


「だが、俺は生きている。飯がうまい。眠れる。……おまえの三年が無駄だったと、誰が言った。届いたものが、たまたま祈りではなかった。それだけのことだ」


 司祭はしばらく動かず、それから深く一礼して、泥のはねた靴で帰っていった。


 その話を聞いて、わたくしは勝手口の野菜のことを思い出していた。


 あの司祭は、敵ではないのかもしれない。


 届かぬ祈りを三年続けた人。その徒労を突きつけられて、なお「食が人を癒すのか」と問うた人。あの問いは糾弾ではなく、救いを求める声だった。


 いつか、と思った。


 いつか、あの人に伝えたい。祈りと食は、争うものではないのだと。人が人の口にものを運ぶとき、そこにはいつも、祈りが混じっているのだと。


 その日は、まだ遠い。けれど、扉は完全には閉じなかった。


 あの人は、「俺は生きている」という答えを、持って帰った。祈りが無駄ではなかったという、たったひとつの証を。あの方が、初めて人に手渡したものが、事実ですらない、慰めだったこと。それが、わたくしには、何より嬉しかった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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