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旦那様は今日もよく食べる   作者: P作


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第四十三話 触れる手

 甘酒を仕込むのは、いつしかハンナの朝の仕事になっていた。


 といっても、白い花の箱にだけは、まだ触れなかった。蒸した麦を用意し、湯を沸かし、器を並べる。種をまぶす一手だけを、ハンナはわたくしに残した。


「そこは、奥方様が」


 毎朝そう言って、半歩下がる。


 わたくしは、それでいいと思っていた。急がない。溶けるものは溶ける。この人の四十年に、無理を通す権利はわたくしにはない。


 けれど、種付けをわたくしに残す一手が、この人の最後の一線だった。触れないと言った四十年の言葉を、撤回しないための一線。わたくしは、それをそっとしておくつもりだった。


 その朝は、雨だった。


 春先の冷たい雨だった。竈の火がなかなか安定せず、蒸した麦の温度が思うように上がらない。麹の花を咲かせるには、少し寒い。


 わたくしは、村へ薬を届けに出る約束をしていた。ゆうべから熱を出した子がいる。放ってはおけない。


「ハンナ。……今日の種付け、お願いできるかしら」


 言ってから、しまった、と思った。


 白い花に触れることを、この人に頼んでしまった。


 ハンナの手が止まった。竈の前で、しばらく動かなかった。


「……あたしが」


「ごめんなさい。無理を言ったわ。子どもの熱が引いたら、すぐ戻って、わたくしが」


「いえ」


 ハンナが、遮った。


 それから、ゆっくりと白い花の箱の前に立った。


 蓋を、取る。


 白い綿毛のような花が、朝の薄明かりの中でふわりと息づいていた。ハンナは、それを長いこと見下ろしていた。恐れと迷いと、別の何かが、皺深い顔の上を通り過ぎていく。


 節くれだった手が、ゆっくりと箱へ伸びた。途中で、一度止まる。


 止まった指が、胸の前で、小さく聖印を結んだ。膨れたパンのときも、白花の名を聞いたあの日も、この人が恐れとともに結んできた印。けれど今日のそれは、退けるための印ではなかった。


 結び終えて、その手は、箱へ戻っていった。


 わたくしは、何も言わなかった。言ってはいけない。この人がいま、四十年の何かを越えようとしている。


 ハンナの指が、蒸した麦に触れた。


 花を傷つけないよう、ひとつまみ種を取る。それを新しい麦の上にそっと散らした。谷でカイがしていたように。わたくしが毎朝していたように。


 散らし終えて、ハンナは自分の手を、じっと見た。


 白い花に触れた、その指を。


「……穢れて、なんか、おりませんね」


 掠れた声だった。


「こんなにあったかい。生きて、息をして。……若様のお命を繋いだ薬草と同じだ。里の連中が穢れだ罰当たりだと言うだけで、あたしは四十年、これを恐れて」


 ハンナの目に、涙が盛り上がった。


「怖がって、いたんでございますね。……よく知りもせずに」


 わたくしは、その背にそっと手を置いた。


「知ろうとするのに、遅すぎるということは、ないわ」


 ハンナは、しゃくりあげながら頷いた。谷のヨルンが「かもす」と初めて口にしたときと、同じ顔だった。


 ハンナは前掛けで顔を拭って、それから、もう一度白い花を見下ろした。


 今度は、恐れの目ではなかった。


 新しい種の育ちを確かめる、料理番の目だった。


「奥方様。……この花は、乾いた麦を好みますか。それとも、湿ったほうが」


「湿りすぎると、悪い菌が来るの。指で握ってほろりと崩れるくらいが、ちょうどいい」


「なるほど。……蟹の泡と、同じ理屈でございますね。強すぎず、弱すぎず」


 わたくしは、思わず笑った。


 この人は、料理番だ。四十年、火と水と時間を相手にしてきた人。恐れさえ解ければ、麹の世話はこの人のほうが、わたくしよりずっと上手くなる。


「行ってらっしゃいまし、奥方様」


 ハンナが、いつもの声で言った。


「種付けは、あたしが。……子どもの熱を、診てあげてくださいまし」


 わたくしは頷いて、薬籠を手に取った。


 厨房を出るとき振り返ると、ハンナが白い花の箱を大事そうに棚へ戻すところだった。あの、空の器を運んでいた手つきと同じだ。尊いものを扱う手つき。


 この城のいちばん古い料理番が、いちばん新しい花の番人になった。


 思えば、この人の変化は、いつも手から始まった。薪の一本を直した手。棚に敷板を入れた手。そして今日、白い花に触れた手。頭が恐れているあいだも、この人の手は、ずっと、正しいほうへ動こうとしていた。


 偏見は、論では崩れない。奇跡でも、崩れきらない。


 崩すのは、たぶんこの触れる手だ。よく知らずに恐れていたものに恐る恐る手を伸ばし、あたたかいと知る、その手だ。


 雨の中を、わたくしは村へ急いだ。


 薬籠の中で、乾いた薬草がかさりと鳴った。


 ──谷の恵みが、里の子どもの熱を冷ます。


 六十年、隔てられていたものが、少しずつ繋がりはじめていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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