第四十二話 患者に恋をしてはいけない
甘酒の一杯は、城の暮らしを、少しずつ変えていった。
旦那様は毎晩、それを飲むようになった。甘い、と言いながら。三年ぶりに取り戻した一語を、確かめるように繰り返しながら。
味覚は、まだ甘みだけだった。塩気も酸味も苦みも、あの方の舌には戻っていない。それでも甘みひとつが戻っただけで、あの方の食卓は見違えるように賑やかになった。
「今日は、これに何を入れた」
「刻んだ干し杏を、少し」
「……甘いな。悪くない」
器を覗き込んで、そんなことを言う。三年前まで、人前で物を食べることさえ避けていた人が。
わたくしは、その変化を嬉しく思っていた。
変化は、城じゅうに広がっていた。
ゲルト様は甘酒をひと口飲んで、「これは酒ではないので」と真顔で三杯おかわりした。テアは干し杏を刻む係を勝手に引き受けた。リタは麹の匂いを嗅ぐたびに、うっとりと目を細める。穢れの花は、いつのまにかこの厨房の、いちばん大事な住人になっていた。
けれど、いちばん近くで起きていた変化に、わたくしは気づくのが遅れた。
嬉しく思っていた、はずだった。
「おまえは、今日は何を食う」
夕餉の席で、旦那様がそう聞くようになった。
最初は給仕のついでだと思っていた。けれど、違った。あの方は、わたくしが食べるのを待つようになった。わたくしが匙を取るまで、自分の器に手をつけない。わたくしが「美味しい」と言うと、かすかに目元をゆるめる。
「なぜ、わたくしを待つのですか」
あるとき、尋ねてみた。
旦那様は、少し考えてから答えた。
「おまえの食う顔を見ると、味が、増える気がする」
心の臓が跳ねた。
わたくしは慌てて目を伏せ、匙を口に運んだ。味など、分からなかった。頬が熱くなっていた。
──いけない。
夕餉のあと、片付けをしながら、テアが小さく笑った。
「閣下、お嬢様の食べる番を、待っていらっしゃいましたね」
「気のせいよ」
「気のせいじゃありません。わたし、ずっと見てますもの」
わたくしは、返事をしなかった。返事の代わりに、皿を拭く手を少し速めた。
その夜、わたくしは自分の部屋で帳面を開いた。
希望の帳簿。灯りの記録。器の記録。あの方の回復の、ひと冬とすこしの歩み。
その頁を繰りながら、わたくしは自分に言い聞かせていた。
落ち着きなさい。
あの方は、患者だ。
三年、誰にも心を開けずにいた人。ようやく食べられるようになり、眠れるようになり、笑えるようになったばかりの人。そういう人が、いちばん近くで自分を支えた者に心を寄せる。それは、よくあることだ。
前世で、何度も見た。
長い入院の果てに退院する患者さんが、担当の看護師に恋文を渡す。毎日、痛みと不安の中で、いちばんそばにいてくれた人。その人を好きにならないほうが、難しい。
けれど、それは恋ではないことが多い。
弱っていた時期の心が、支えてくれた手にしがみついているだけ。回復すれば、世界は広がる。広がった世界の中で、その熱は、たいてい冷めていく。
だから、預かる側がそれに応えてはいけない。
患者の弱さにつけ込む。それは、いちばんしてはいけないことだ。
あの方の「味が増える」も「おまえを待つ」も、たぶん同じ。回復期の心が、いちばん近くのわたくしに寄りかかっているだけ。
それを、恋だと思い上がってはいけない。
わたくしは、帳面を閉じた。
閉じた指が、少し震えていた。
──思い上がって、いない。
本当に?
胸の奥で、小さな声がした。
あなたは、あの方の心を割り引いている。「患者だから」と理由をつけて、あの熱を本物ではないことにしている。それは、あの方を守るためなの? それとも──自分が傷つかないため?
わたくしは、その声に蓋をした。
考えても、仕方のないことだ。わたくしは、この城の妻。けれど、跡目の体裁のための名ばかりの妻。あの方はいつか健やかになって、本当の伴侶を選ぶ日が来るかもしれない。そのとき、わたくしが患者の弱さにつけ込んで、この立場に居座っていたら。
それは、いちばんみっともないことだ。
匙を持つ者には、匙を持つ者の矩がある。
わたくしは、灯りを消した。
目を閉じると、夕餉の席のあの方の顔が浮かんだ。わたくしを待つ、灰色の目。目元の、かすかなゆるみ。
──いけない。
もう一度、自分に言い聞かせて、わたくしは寝返りを打った。
窓の外では、雪解けの水が夜通し、流れ続けていた。
春が、来ようとしていた。
けれど、わたくしの胸の中のこの温かいものには、まだ名前をつけてはいけなかった。
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