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第四十一話 幕間 狼の眠り

 ヴォルフガング・アイゼンファルクは、眠れない男だった。


 三年前のあの宴以来、まともに眠った夜は片手で数えられる。目を閉じれば銀の光が瞼の裏に灯る。祝杯の杯。冷たく光る、あの縁。それを口へ運んだ自分の手。そこで、いつも目が覚める。


 だから、夜は執務にあてた。帳簿を睨み、地図を広げ、国境の報せを待つ。眠らずに済むなら、なんでもよかった。どうせ、長くは生きん身だ。眠りを惜しむ理由もない。


 医者は匙を投げた。術師は首を振った。焼かれたものは、焼かれたきり。ヴォルフは、それを淡々と受け入れていた。恐怖はなかった。ただ、味のない食事と来ない眠りと冷えていく体の中で、静かに終わりを待つ。それが、この三年の日々だった。


 あの女が来るまでは。


 名は、リーゼロッテといった。王家に婚約を破棄され、厄介払いのように北へ送られてきた伯爵家の娘。跡目の体裁のために娶っただけの、名ばかりの妻。


 構うな、と言った。長くは生きん、とも言った。


 あの女は、構った。


 初日の夜、扉の前に器が置かれた。重湯だった。飲めるものか、と思った。翌日も置かれた。その翌日も。冷えて膜を張り、手つかずのまま下げられる器を、あの女は毎晩飽きもせず運んできた。


 なぜだ、と思った。


 俺に取り入って何を得る。跡目か。領地か。それとも憐れみか。どれでもなかった。あの女はただ器を運び、先に一匙を口に運び、そして帰っていった。見返りを求める者の目を、ヴォルフは戦場で嫌というほど見てきた。あの女の目には、それがなかった。


 ある夜、魔が差して、器に口をつけた。


 薄い、味のない湯だった。当然だ。俺の舌は死んでいる。何を食っても、砂を噛むのと同じ。


 だが。


 温かかった。


 喉を通っていく、その温かさだけは死んだ舌にも分かった。三年ぶりの温かいもの。それが体の芯に落ちたとき、ヴォルフは自分でも思いがけないことに、その夜、眠った。


 夢を見ずに、数刻。


 銀の杯も、宴の喧騒も、来なかった。朝までとは、いかなかった。それでも、温かい腹を抱えて、久しぶりに深いところへ落ちた。


 それが始まりだった。


 重湯が粥になった。粥が、やわらかな一皿になった。あの女は、まるで階段を組むように一段ずつ、俺の体を引き上げていった。眠れるようになった。歩き方が変わった。頬に、肉が戻った。


 味は、しなかった。


 何を食っても、舌は黙ったままだった。それなのに、あの女の運んでくる器は、なぜかうまかった。


 うまい、という言葉の意味を、ヴォルフは長いこと忘れていた。味のしないものが、どうしてうまいのか。理屈は分からなかった。ただ、あの女が卓の向かいで飯を食う顔を見ていると──雪の下の蕪を、甘い甘いと騒ぐ厨房の声を聞いていると──自分の舌が拾えないものを、あの女の食う顔が代わりに拾ってくれる気がした。


 留守のあいだ、ハンナの膳を食った。


 同じ帳面のとおりに作られた、同じ献立。悪くはなかった。腹も満ちた。だが、味はしなかった。当たり前だ。俺の舌は死んでいるのだから。


 それなのに、妙に物足りなかった。


 あの女の運ぶ器と、何が違う。中身は同じはずだ。作り手が違うだけだ。ハンナの腕は、あの女より確かだろう。それなのに、あの女の器のほうがうまかった。


 馬鹿な話だ、と思った。味のしない男が、作り手で味を区別する。そんな道理があるものか。


 だが、道理でないものが、この胸には確かにあった。


 嵐の夜、倒れた。


 三日の熱の中で、また銀の杯の夢を見た。飲むな、と叫んだ。ゲルトに叫んだ。あの宴でゲルトも、同じ酒に手を伸ばしかけていた。止めなければ。あいつまで。そこで、いつも夢は途切れる。


 目を覚ましたとき、あの女が寝台の脇で眠っていた。


 匙を握ったまま。空の器をいくつも積んで。三日、寝ていない顔で。


 俺のために。


 ヴォルフは動く手で、足元の毛布を引き寄せた。腕が鉛のように重かった。それでも、眠るあの女の肩にそれを掛けた。裾を、折り込むところまで。


 この女に、倒れられては困る。


 そう、自分に言い訳をした。困る。この城の飯がまずくなる。そんなものは言い訳だと、自分でも分かっていた。


 分かっていて、名前を、つけられずにいた。


 この胸の奥の熱を。あの女が笑うと、つられて緩む頬を。あの女の食う顔を、いつまでも見ていたいと思う、この不可解を。


 跡目の体裁。名ばかりの妻。そう思っていたはずだった。いつからか、それが嘘になっていた。いつからかは分からない。重湯の夜からかもしれない。毛布の朝からかもしれない。


 名を、呼びたいと思うことがある。


 リーゼロッテ、ではなく。もっと短く。……この城で、そう呼ぶ者はまだ誰もいない。呼ぶなら、俺が初めてになる、あの女の名を。


 けれど、呼べなかった。


 呼べば、認めることになる。この胸の熱に名前を与えることになる。名ばかりの妻に名前を呼ぶ資格が、俺にあるのか。三年、暗がりの中で終わりを待っていた男が。あの女の若さを、あの女の未来を、この北の牢に縛りつけていいのか。


 だから、呼ばない。「おまえ」でいい。今は、それでいい。


 その夜、あの女が、白い器を運んできた。


 白花のものだと、あの女は言った。穢れと呼ばれるものだと。それでも飲むか、と。


 ヴォルフは、迷わなかった。


 あの女が盛る毒なら、とうに盛られている。それに、谷の恩は俺がいちばん知っている。


 器を、口へ運んだ。


 そして、ヴォルフは、三年ぶりに、その言葉を知った。


 その一語が、死んだはずの舌のどこを通って戻ってきたのか、ヴォルフには分からなかった。分からないまま、器を握りしめてうつむいた。


 肩が、震えた。


 ──ああ。


 まだ、終わりではないのかもしれない。


 この女が来てから、俺の世界は少しずつ、色を取り戻していく。


 その夜、ヴォルフは久しぶりに、夢を見ずに眠った。


 窓の外では、春の雪解けの水が静かに流れていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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