第四十話 甘い
城に戻って、まず麹室を作った。
といっても、大掛かりなものではない。厨房の隅、竈の余熱がまわる棚を片付け、藁を敷いて湿らせた布をかけ、木箱を置く。谷の蔵の温さを、手持ちのもので真似た。
新しく蒸した麦に、谷から抱いて帰った白い花をひとつまみ、種としてまぶす。ヨルンの蔵でカイの手がしていたとおりに。それを浅い箱に広げて、棚へ納めた。
それでも、城の厨房は谷ほど温かくならない。湯が床下を流れているわけではないのだ。夜のあいだ冷えないよう、わたくしは何度も起きて湯を入れた壺を替えた。
「奥方様。あたしが替わります」
ハンナが、そう言ってくれた。
けれど、木箱には触れなかった。棚の周りに湯の壺を置き、布の乾きを確かめ、白い花の箱そのものには決して手を触れない。
「触れずとも、番はできますよ」
ハンナは、ぶっきらぼうに言った。
その距離が、この人の精いっぱいだった。穢れへの恐れはまだ消えていない。それでも若様のためだと分かっているから、番はする。触れずに、見張る。
三日目の朝。
木箱の蓋を開けて、わたくしは息を呑んだ。
蒸した麦の表面に、白い花がふわりと咲いていた。
谷から来た種が、城の厨房で根づいたのだ。栗の花のような、乳のような甘い匂い。まちがいなく麹だった。
「……できた」
声が、震えた。
ハンナが、遠くから白い花を見ていた。恐ろしいものを見る目と美しいものを見る目が、その顔の中で混じり合っていた。
その麹を蒸した麦に混ぜ、湯に溶いて、温かいところで寝かせる。
半日。ひと晩。
甘い匂いが、少しずつ強くなっていく。麹が麦の澱粉を糖に変えていく。火も使わず、砂糖も入れず、ただ時間だけが白い液体を甘くしていく。
朝、味を見た。
とろりとした、白く濁った液体。ひと匙、口に含む。
──甘い。
やさしい穀物の甘さが舌の上にひろがった。前世で正月に祖母が作ってくれた、甘酒の味だ。砂糖の甘さとは違う。麹が時間をかけて醸した、まるく深い甘さ。
涙が、こぼれそうになった。
この甘さを、あの人に。
その夜、わたくしは白い器を盆に載せて、食堂へ向かった。
旦那様は、いつもの席で待っていた。
器を置く。旦那様が中を覗き込んだ。
「……なんだ、これは」
白く濁った見慣れない液体。旦那様の眉が、わずかに寄った。
わたくしは器の脇に膝をつき、まっすぐにあの方を見た。
「旦那様。……これは、白花のものでございます」
空気が、止まった。
厨房の入り口で、ハンナが息を呑む気配がした。
「山神の白花。里の者が穢れと呼ぶもの。……湯霧の谷の蔵で六十年、守られてきた種でございます。それを分けていただいて、この城で咲かせ、甘い飲みものに醸しました」
わたくしは、隠さなかった。
この方は毒を盛られた人だ。銀の杯を知らずに空けて、三年苦しんできた人。だからこそ、知らせなければならない。何を口にするのか、誰の手を経てきたのか、全部。
「穢れと呼ばれるものでございます。……それでも、召し上がっていただけますか」
長い、沈黙があった。
旦那様は器を見ていた。白く濁った、甘い匂いのする液体を。それから、わたくしを見た。灰色の目が、静かにわたくしを見つめた。
「おまえが」
低い声だった。
「おまえが、俺に毒を盛るなら、とうに盛っている」
旦那様は、器を取った。
「谷の恩は、俺がいちばん知っている。……穢れと呼ぶ者たちのことも」
節の浮いた指が、白い器を包む。持ち上げ、匂いを確かめ、そして──口へ運んだ。
ひと口。
喉が、動いた。
沈黙が、落ちた。
旦那様の目が、大きく見開かれた。器を持つ手が、止まる。見開かれた灰色の目が、宙の一点を見つめて動かない。
わたくしは、息を止めていた。
三年前に焼かれた舌。何も届かないはずの舌。ひと冬の食養生で少しずつ力を取り戻してきた体。そこへ、いま、麹が時間をかけて醸した、いちばん届きやすい甘さが触れた。
届け。
どうか、届いて。
旦那様の喉が、もう一度動いた。
そして。
「……甘い」
声が、掠れていた。
「甘い。……これは、甘い」
器を持つ手が、震えはじめた。
その震えを、わたくしは知っている。ひと冬前に「うまい」と言ったときの、あの震えだ。けれど、あのときとは違う。あのとき、この方は味のない舌で「うまい」と言った。
今日は。
「甘い……甘いぞ。分かる。舌が……舌が、答えている」
旦那様は、器を両手で握りしめてうつむいた。
肩が震えていた。三年、何も届かなかった舌に、いま甘さが戻った。焼かれた道のどこか一本が、時間をかけた甘さの前に、もう一度通じたのだ。
わたくしは、涙を拭わなかった。
拭うのも忘れて、ただ、その震える肩を見ていた。
「旦那様」
声が、震えた。
「甘いものは、いかがですか」
いつか、と約束した言葉だった。雪の下の蕪を食べたあの夜、「もっと甘いものをお出しします」と言ったわたくしに「来るものか」と即座に返した、あの方に。
旦那様は、うつむいたまま、掠れた声で言った。
「……ああ」
それから顔を上げた。灰色の目が、涙で濡れていた。濡れたまま、まっすぐにわたくしを見て、あの方は言った。
「もう一杯。……いや」
言い直した。
「もっと、甘いのを」
厨房の入り口で、ハンナが、両手で顔を覆った。
崩れるように膝をついて、声を殺して泣いていた。穢れと呼んで恐れてきたものが、いま若様の舌に三年ぶりの甘さを返した。その事実の前に、四十年の物差しが音を立てて崩れていくのが、見えるようだった。
わたくしは、立ち上がった。
「はい。……はい、旦那様。すぐに」
もう一杯を注ぎに、厨房へ向かう。
入り口で泣き崩れているハンナの脇を通るとき、その丸まった背にそっと手を置いた。
ハンナは、顔を覆ったまま、掠れた声で言った。
「……奥方様。あの、白い花は」
「ええ」
「……穢れて、なんか、おりませんでした」
谷の門前で、あの少年が言った言葉だった。
わたくしは、頷いた。
「ええ。……醸すもの、でございます」
竈では、次の甘酒が、白く静かに、甘さを育てていた。
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