表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旦那様は今日もよく食べる〜「何も食べられない」辺境伯と重湯から始める白い結婚〜  作者: P作


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/61

第四十話 甘い

 城に戻って、まず麹室を作った。


 といっても、大掛かりなものではない。厨房の隅、竈の余熱がまわる棚を片付け、藁を敷いて湿らせた布をかけ、木箱を置く。谷の蔵の温さを、手持ちのもので真似た。


 新しく蒸した麦に、谷から抱いて帰った白い花をひとつまみ、種としてまぶす。ヨルンの蔵でカイの手がしていたとおりに。それを浅い箱に広げて、棚へ納めた。


 それでも、城の厨房は谷ほど温かくならない。湯が床下を流れているわけではないのだ。夜のあいだ冷えないよう、わたくしは何度も起きて湯を入れた壺を替えた。


「奥方様。あたしが替わります」


 ハンナが、そう言ってくれた。


 けれど、木箱には触れなかった。棚の周りに湯の壺を置き、布の乾きを確かめ、白い花の箱そのものには決して手を触れない。


「触れずとも、番はできますよ」


 ハンナは、ぶっきらぼうに言った。


 その距離が、この人の精いっぱいだった。穢れへの恐れはまだ消えていない。それでも若様のためだと分かっているから、番はする。触れずに、見張る。


 三日目の朝。


 木箱の蓋を開けて、わたくしは息を呑んだ。


 蒸した麦の表面に、白い花がふわりと咲いていた。


 谷から来た種が、城の厨房で根づいたのだ。栗の花のような、乳のような甘い匂い。まちがいなく麹だった。


「……できた」


 声が、震えた。


 ハンナが、遠くから白い花を見ていた。恐ろしいものを見る目と美しいものを見る目が、その顔の中で混じり合っていた。


 その麹を蒸した麦に混ぜ、湯に溶いて、温かいところで寝かせる。


 半日。ひと晩。


 甘い匂いが、少しずつ強くなっていく。麹が麦の澱粉を糖に変えていく。火も使わず、砂糖も入れず、ただ時間だけが白い液体を甘くしていく。


 朝、味を見た。


 とろりとした、白く濁った液体。ひと匙、口に含む。


 ──甘い。


 やさしい穀物の甘さが舌の上にひろがった。前世で正月に祖母が作ってくれた、甘酒の味だ。砂糖の甘さとは違う。麹が時間をかけて醸した、まるく深い甘さ。


 涙が、こぼれそうになった。


 この甘さを、あの人に。


 その夜、わたくしは白い器を盆に載せて、食堂へ向かった。


 旦那様は、いつもの席で待っていた。


 器を置く。旦那様が中を覗き込んだ。


「……なんだ、これは」


 白く濁った見慣れない液体。旦那様の眉が、わずかに寄った。


 わたくしは器の脇に膝をつき、まっすぐにあの方を見た。


「旦那様。……これは、白花のものでございます」


 空気が、止まった。


 厨房の入り口で、ハンナが息を呑む気配がした。


「山神の白花。里の者が穢れと呼ぶもの。……湯霧の谷の蔵で六十年、守られてきた種でございます。それを分けていただいて、この城で咲かせ、甘い飲みものに醸しました」


 わたくしは、隠さなかった。


 この方は毒を盛られた人だ。銀の杯を知らずに空けて、三年苦しんできた人。だからこそ、知らせなければならない。何を口にするのか、誰の手を経てきたのか、全部。


「穢れと呼ばれるものでございます。……それでも、召し上がっていただけますか」


 長い、沈黙があった。


 旦那様は器を見ていた。白く濁った、甘い匂いのする液体を。それから、わたくしを見た。灰色の目が、静かにわたくしを見つめた。


「おまえが」


 低い声だった。


「おまえが、俺に毒を盛るなら、とうに盛っている」


 旦那様は、器を取った。


「谷の恩は、俺がいちばん知っている。……穢れと呼ぶ者たちのことも」


 節の浮いた指が、白い器を包む。持ち上げ、匂いを確かめ、そして──口へ運んだ。


 ひと口。


 喉が、動いた。


 沈黙が、落ちた。


 旦那様の目が、大きく見開かれた。器を持つ手が、止まる。見開かれた灰色の目が、宙の一点を見つめて動かない。


 わたくしは、息を止めていた。


 三年前に焼かれた舌。何も届かないはずの舌。ひと冬の食養生で少しずつ力を取り戻してきた体。そこへ、いま、麹が時間をかけて醸した、いちばん届きやすい甘さが触れた。


 届け。


 どうか、届いて。


 旦那様の喉が、もう一度動いた。


 そして。


「……甘い」


 声が、掠れていた。


「甘い。……これは、甘い」


 器を持つ手が、震えはじめた。


 その震えを、わたくしは知っている。ひと冬前に「うまい」と言ったときの、あの震えだ。けれど、あのときとは違う。あのとき、この方は味のない舌で「うまい」と言った。


 今日は。


「甘い……甘いぞ。分かる。舌が……舌が、答えている」


 旦那様は、器を両手で握りしめてうつむいた。


 肩が震えていた。三年、何も届かなかった舌に、いま甘さが戻った。焼かれた道のどこか一本が、時間をかけた甘さの前に、もう一度通じたのだ。


 わたくしは、涙を拭わなかった。


 拭うのも忘れて、ただ、その震える肩を見ていた。


「旦那様」


 声が、震えた。


「甘いものは、いかがですか」


 いつか、と約束した言葉だった。雪の下の蕪を食べたあの夜、「もっと甘いものをお出しします」と言ったわたくしに「来るものか」と即座に返した、あの方に。


 旦那様は、うつむいたまま、掠れた声で言った。


「……ああ」


 それから顔を上げた。灰色の目が、涙で濡れていた。濡れたまま、まっすぐにわたくしを見て、あの方は言った。


「もう一杯。……いや」


 言い直した。


「もっと、甘いのを」


 厨房の入り口で、ハンナが、両手で顔を覆った。


 崩れるように膝をついて、声を殺して泣いていた。穢れと呼んで恐れてきたものが、いま若様の舌に三年ぶりの甘さを返した。その事実の前に、四十年の物差しが音を立てて崩れていくのが、見えるようだった。


 わたくしは、立ち上がった。


「はい。……はい、旦那様。すぐに」


 もう一杯を注ぎに、厨房へ向かう。


 入り口で泣き崩れているハンナの脇を通るとき、その丸まった背にそっと手を置いた。


 ハンナは、顔を覆ったまま、掠れた声で言った。


「……奥方様。あの、白い花は」


「ええ」


「……穢れて、なんか、おりませんでした」


 谷の門前で、あの少年が言った言葉だった。


 わたくしは、頷いた。


「ええ。……醸すもの、でございます」


 竈では、次の甘酒が、白く静かに、甘さを育てていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ