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旦那様は今日もよく食べる   作者: P作


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第三十九話 湯の熱と、ひとつまみの種

 蔵から戻った日の午後、ヨルンは昏々と眠った。


 夕餉の重湯も、半分しか入らなかった。無理をした反動が、そのまま体に出たのだ。カイが泣きそうな顔でわたくしを見た。


「大丈夫よ」


 わたくしは湿らせた布で老人の唇を濡らしながら言った。


「登る途中で一段すべることは、あるの。すべっても、また登ればいいだけ」


 階段は、まっすぐには登れない。旦那様もそうだった。落ちて、また登って、また落ちて。それでも去年の冬の底より、いまのあの方は確かに高いところにいる。


 その夜、わたくしは自分の帳面を開いた。


 谷の知恵のための、表紙のない帳面。そこに蔵で見たものを書きつけていく。木札の書き方。箱の並べ方。ヨルンが口で伝え、カイの幼い手が支えてきた、ひとつだけの白い花。


 書き終えて、わたくしはいちばん後ろの頁を開いた。


 嘘の欄。


 ばあやの話、旦那様に。中身は本当。器だけ、嘘。


 わたくしはその下に、一行だけ書き足した。


 ──ばあやの話、ヨルン様にも。


 六十年、穢れと呼ばれた花に「麹」という名を与えたのは、わたくしのばあやということになった。もういない人の名前を、わたくしはまた借りた。


 いつか、この谷の誰かが尋ねるだろう。あんたのばあやは、どこの者じゃ、と。


 そのとき、わたくしは何と答えるのだろう。


 帳面を閉じて、灯りを消した。


 答えは、まだ出ない。


 翌朝、わたくしは一人で蔵へ行った。


 昨日から、あの疑問が頭を離れなかった。この蔵はなぜ温かいのか。


 外は雪が残り、吐く息は白い。それなのに蔵の中は、春先の日向のような温さだった。


 床板に掌を当ててみる。


 温かい。


 膝をついて、板の隙間に顔を近づけた。かすかな湯気と、湿った土の匂い。それから、水の流れる音。


 ──ああ。


 湯だ。


 この蔵は、噴き口から引いた湯の上に建っている。床下を湯の流れが走っているのだ。だから真冬でも蔵の中は温い。麹が花を咲かせる、あの、人肌より少し高い温かさに。


 わたくしは床に手をついたまま、しばらく動けなかった。


 前世で、麹室はいちばん金と手間のかかる設備だった。厚い壁。炭火。夜通しの見張り。温度を一定に保つために、蔵人は眠らずに火を守った。


 それをこの谷は、湯で、ただで、していた。


 六十年、いいえ、それよりもっと前から。誰に教わったわけでもなく、湯の噴く岩の上に蔵を建てた誰かがいて、そこで白い花が咲いたのだ。


 この谷は。


 わたくしは立ち上がって、蔵の中を見回した。


 この谷は、麹室そのものだ。


 北の厳しさが、雪と湯が、そのままここでは知恵の道具になっている。里が「穢れの地」と呼んで近寄らなかった場所に、王都のどんな金持ちも持てない蔵があったのだ。


 膝が震えた。


 塩が三倍になる。それがどうしたというのだろう。この谷には、時をかけて食べものを育てる術がある。塩に頼らず腐らせずに、滋養を増す道がここにある。


 旦那様は、正しかった。


 ──この北には、王都の知らんものがある。


 その日の夕方、わたくしはヨルンの寝床の脇に座った。


 老人は目を覚まし、うすい重湯を昨日より多く飲み下していた。


「ヨルン様。……お願いがございます」


 わたくしは両手を膝に揃えた。


「白花を、少しだけ譲っていただけませんか」


 部屋が、静まり返った。


 カイが息を呑む。戸口の女たちの気配が固くなった。


 六十年、この谷の外へ出たことのない種だ。里の者に渡せば、どう使われるか分からない。あるいは燃やされるかもしれない。彼らが恐れるのは当然だった。


 ヨルンは、しばらく天井を見ていた。


「……何に使う」


「甘いものを作ります」


 わたくしは正直に答えた。


「蒸した麦に花を咲かせて、湯に溶いて寝かせる。すると、砂糖も蜂蜜も入れないのに甘い飲みものになります。……あの人は三年、甘いものが分からない体でございます」


 ヨルンの目が、ゆっくりとこちらへ向いた。


「あの人は、うまい、と言いました。けれど、甘いとはまだ言えません」


 声が、震えた。


「白花の甘みなら、届くかもしれないのです。舌の道が焼けていても、醸したものの甘みは別の道を通るかもしれない。……確かめさせてください。あの人の舌に、もう一度、甘いを」


 長い、長い沈黙があった。


 湯気の音だけが、家の中に満ちていた。


 やがて、ヨルンが掠れた声で言った。


「奥方様は、昨日、あれを何と呼んだ」


「……麹、と」


「もう一遍、言うてくれ」


「──醸すもの、でございます。腐るのではなく、醸すのだと」


 老人の目から、涙が一筋、皺を伝った。


「六十年」


 ヨルンは言った。


「わしは穢れを守る罰当たりだと言われて生きてきた。谷の者みんなが、そう言われて死んでいった。……わしらの花に名をくれた者は、あんたが初めてじゃ」


 痩せた手が、わたくしの手を握った。驚くほど強い力だった。


「カイ。……種を、分けて差し上げろ」


 カイが弾かれたように立ち上がった。


 ヨルンはわたくしの手を握ったまま、言った。


「命を助けてもろうた恩で渡すんじゃない。……あんたが、腐るのではなく醸すと言うたから、渡すんじゃ」


 わたくしは深く頭を下げた。


 その夜、カイが小さな木箱を持ってきた。中で、白い花がふわりと咲いている。


「箱は、藁でくるんでください。それから、布で」


「冷やしたら、死にます」


 言ってから、カイは慌てて言い直した。


「……いえ。眠る、だけです。弱るだけ。でも、峠の寒さは、きついから」


 わたくしたちは、木箱を藁で厚く巻き、その上から毛皮の布でくるんだ。帰りは一日半。


「馬の背じゃなくて、人の懐で。……寝るときも、抱いてください」


 生きたものを運ぶというのは、そういうことだ。体温で守って、峠を越える。


 布の隙間から覗くと、木箱の中で、白い花がふわりと咲いていた。


 六十年ぶりに、山神の白花が、谷の外へ出ようとしていた。


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