第三十八話 蔵とともに、死にかけとる
蔵は、谷のいちばん奥にあった。
湯気の立つ岩を背にして、黒く古びた木の建物がうずくまるように立っている。屋根は苔むし、板壁の継ぎ目から白い湯気がゆっくりと漏れていた。
カイに背負われたヨルンが、先に立った。
「爺様、無理は」
「今日だけじゃ」
老人は、孫の背で首を振った。
「蔵の戸は、蔵番が開けるものじゃ」
重い扉が軋みながら開いた。
中の空気が、わたくしの頬を撫でた。
──ああ。
膝から力が抜けそうになった。
温い。湿っている。そして、匂う。かすかに甘く、ほんの少し酸っぱく、土と麦と、生きものの匂い。
この匂いを、わたくしは知っている。
薄暗がりに、木の樽が並んでいた。杉ではない、北の木の樽。けれど、その並び方も、天井の梁の煤け具合も、床板の窪みも、遠い記憶の蔵と重なった。
喉の奥が熱くなった。
──ロッテ。味見してみな。
もういない人の声が、湯気の向こうから聞こえた気がした。
わたくしは目を閉じて、その声を胸の奥へしまった。
今は、泣く時ではない。
「奥方様。……こちらへ」
ヨルンの声で、われに返った。
樽のひとつひとつに、木札が下がっていた。掠れた墨で、仕込んだ年と、中身と、誰の手によるものかが書いてある。いちばん古い札の文字は、もう読めなかった。
記録する民でなければ、六十年、白花は継げなかった。カイの幼い字を思い出す。
蔵の奥へ進む。樽の列が終わり、木の棚が現れた。棚の上に、浅い木の箱がいくつも並んでいる。
カイが、そのひとつの蓋をそっと取った。
蒸した麦が、盛られていた。
その表面に──白い花のようなものが、ふわりと咲いている。
息が止まった。
白い綿毛。菌糸。指で触れればほろりと崩れそうな、けれど確かに生きているもの。前世の蔵で祖母が朝ごとに顔を近づけ、匂いを嗅ぎ、温度を確かめていた、あの白い花。
「山神の白花じゃ」
ヨルンが静かに言った。
「六十年、いや、それよりもっと前からこの蔵で咲いとる。親から子へ、子から孫へ、絶やさぬように育ててきた」
老人は孫の背から蔵を見渡して、それから掠れた声で付け足した。
「……いまはもう、わしの口と、カイの手で、ようやっと一箱じゃ」
わたくしは、カイを見た。
少年は決まりが悪そうにうつむいた。爺様の寝床の脇で毎朝、今日は何度どこへ手を入れろ、と指図を受ける。それを覚えて蔵まで走り、幼い手で確かめる。そうやって、この一箱は生きている。
わたくしは箱の前に膝をついた。手を伸ばしかけて、止める。よその蔵の花に、断りもなく触れる法はない。
顔を近づけて、匂いを嗅ぐ。
甘い。栗の花のような、乳のような匂い。前世で嗅いだものと同じ。麹だ。まぎれもなく、麹がこの北の山奥で生きている。
涙が、ぽたりと箱の縁に落ちた。
「……穢れて、なんか、いません」
わたくしは掠れた声で言った。
「これは、こんなにいい匂いがするのに」
ヨルンは、カイの背で長く黙っていた。
それから、しわがれた声でぽつりと言った。
「奥方様。……この蔵はな」
老人が、蔵の奥を見渡した。
言われて、わたくしはようやく気づいた。
箱はいくつも並んでいる。けれど白い花が咲いているのは、そのうちのひとつだけだった。ほかの箱は空で、埃をかぶっている。樽の列も半分以上が空だ。壁の板は割れ、天井の梁には雨の染みが黒々と広がっていた。
「白花は、蔵とともに死にかけとる」
ヨルンの声は静かだった。
「わしが寝ついてから、種を継げる者がおらん。カイはまだ幼い。谷の若い者は里へ働きに出て、戻ってこん。……蔵が傷めば、花も弱る。花が弱れば、酒も菜も豆も仕込めん。そうして谷は痩せていく」
幾家族か、とゲルト様は言った。
減っていく者の数え方。あれは、この蔵の数え方でもあったのだ。
「奥方様」
ヨルンがわたくしを見た。皺の底の目が、まっすぐだった。
「あんたは、この白花を、なんと呼ぶ」
問いの意味を、わたくしは理解した。
この老人は六十年、この花を穢れと呼ばれ続けてきた。里の誰も、この匂いを嗅ぎに来なかった。
「──麹、と」
わたくしは涙を拭って答えた。
「わたくしのばあやは、そう呼んでおりました。醸すもの、と。……腐るのではなく、醸すのだと」
ヨルンの目が大きく見開かれた。
醸す、という言葉をこの人は初めて聞いたのだ。六十年、穢れとしか呼ばれなかったものに名前が与えられた顔だった。
「かもす」
老人が、その言葉を口の中で転がした。
「……かもす、か」
カイの背で、ヨルンは天井を見上げた。
雨染みの広がった、崩れかけた天井を。
わたくしは白い花の箱を見下ろした。
──また、建てればいい。麹は、また、どこからでも来る。
焼け跡で祖母はそう言った。けれどここにあるのは、まだ焼けていない蔵だ。まだ生きている、花だ。
建て直せる。まだ、間に合う。
わたくしは立ち上がって、蔵の梁を見上げた。
湯気が板の隙間から、ゆるやかに漏れていく。
──待って。
この湯気は、どこから。
わたくしは足元の床板を見た。それから、蔵の裏手の噴き口の方角を。
この蔵は、なぜ、こんなに温かいの。




